扇の的(三)

 太陽が西へ傾きかけたころ、玉虫を乗せた小舟は浜へ漕ぎよせた。


 青々と芽吹く緑を思わせる薄青の五つ衣に、白い表着うわぎを身につけた玉虫は、柳襲という色目の名のとおり、水辺のやわらかな柳のようにしなやかに立っていた。


 汀から七、八段(約七〇~八〇メートル)ほどの距離をとって、赤地に金色の日の丸が描かれた大きな扇を、源氏へ向けてゆったりと振ってみせる。そして舟べりに立てた竿の先に扇をはさみ、玉虫は数歩だけ下がった。


 浜からここまでは、矢が届くかどうかという、ぎりぎりの距離をとっていた。


 折しも北風が吹きはじめ、波も白く打ち寄せている。舟は上下に揺れて、玉虫も立っている足もとがふらついた。


(小宰相さま、菊王……、そちらへ行くことになったら、わたしを迎え入れてね)


 舟を並べて見入る平家と、轡を並べて見入る源氏の衆目のなか、ひとりの若者が出てきた。若者は馬を浅瀬へ進めて、一段ほど近寄ってくる。


 目を閉じて風を読み、いくらか北風がおさまったところで、おもむろに矢を弓につがえた。ぎりぎりと力強く引き絞ると、ひゅっと矢を放った。


 ポーンという高い音が尾を引くように鳴り響き、扇へ命中して海へ落ちる。


 代わって夕暮れの空へ舞いあがった扇は、金色の日の丸をきらめかせて波の上にすべり落ちた。


 ゆらゆらと波間に揺れる扇に、平家も源氏も歓声をあげて盛りあがる。


鏑矢かぶらや……」


 玉虫は大きく息を吐きだすと、そうつぶやいた。知らずに息を止めていたらしい。


 音が鳴るように細工された鏑矢では、人を射抜くことはできない。もちろん、当たれば怪我はするだろうけれど、その程度だ。若者が玉虫の存在に配慮したのか、この余興を神事と解釈したのかは、わからない。


(わたし、ほっとしてる……。どうなってもいいと思っていたのに)


 玉虫の目の前では、いっしょに舟に乗っていた老武者が、若者の腕前を称えるように楽しげに躍っている。玉虫の顔にふっと笑みがもれたとき、ふたたび矢が飛んできて老武者を射抜いた。


 今度は、人を射るための、征矢そやだった。


 仰向けに倒れた老武者が、舟べりを引っかけながら海へ落ちる。その衝撃で大きく舟が揺れ、玉虫は空をつかむように手をのばしたまま、投げだされた。


(そんな──!)


 扇の的を落とし、老武者までも射抜いた若者へ、源氏の兵たちは喝采を送っている。


 平家はあまりにも無粋な行いに憤り、老武者の身内が舟から飛び下りて猛進したのをきっかけに乱戦がはじまった。


 海面はざぶざぶと波立ち、玉虫は波にもまれて沈んでいく。


 なにもできないまま、苦しさに玉虫が大きく目をひらくと、水底から白い手がのびてくるのが見えた。満面の笑みをたたえ、翡翠の玉を揺らす女が、玉虫をその腕に抱こうとする。


市寸島比売命イチキシマヒメノミコト……? いやよ、わたしは行かない! 教経さま!)


 玉虫は逃げようともがいているうちに、大量の海水を飲みこんでしまった。沸騰するような恐怖と苦しさで錯乱したまま、やがて意識を失った。


 どれくらいの時が過ぎたのか、混濁する意識の中で、玉虫は教経の声を聞いた。


「死ぬな、玉虫。目を開けろ、頼む!」


(教経さま……)


 助かったのだと思ったけれど、目を開けることも身体を動かすこともできない。そうしているうちに、ふたたび意識は遠のいた。


 次に気がつくと、身体が驚くほどに熱かった。意識も朦朧として、呼吸が苦しい。目蓋は貼りついたように重く、はたして自分は、ほんとうに助かったのだろうかと疑った。


 周囲に人の気配はするものの、こちらから呼びかけるだけの力がない。


 やがて、困り果てたように言う女房の声が聞こえた。


「どうしても、お口にされないのです。このままでは、玉虫さまも弱っておしまいになるだけなのですが……」


 女房がため息をもらすと、「おれが飲ませる」と教経の声が言った。


 ややあって玉虫は、唇をふさがれたかと思うと、ひどく苦い薬湯を口の中に流しこまれた。むせかえりそうになるも、教経の舌がそれを許さない。


 薬湯が喉を通ると、つぎに甘みが広がった。それは、なんとも言えず不思議な味だった。


(薬湯って、こんなに甘かったかしら)


 しかし、甘さも喉を下りてしまうと、ふいに腹の底から潮の香りがもどってきた。とたん、溺れたときの恐怖がよみがえり、玉虫は身体をのけぞらせた。


 海水を吐きだしたい。そうでないと、息ができない。苦しい、苦しい──!


 教経が玉虫の半身を起こして、しっかりと抱きしめた。片手で肩を抱き、もう片方の手で玉虫の頭を包みこむ。


「玉虫! 大丈夫だ、おれがいる。わかるか。いま、玉虫は舟の上だ。おれの腕の中にいる。わかるだろう?」


 耳もとで聞こえる教経の声と、その萎えた直垂から、ごくわずかに荷葉の香りを感じた玉虫は、すとんと眠りに落ちた。


 泥のように眠り続けた玉虫の耳に、教経の悲痛な声が聞こえてきたのは、何度目かに薬湯を飲まされたあとだった。教経が自分の手を握っているのがわかる。


 まだ熱の下がらない玉虫には、ひんやりとした教経の手が心地よかった。


「玉虫、おまえまで行かないでくれ。兄上も、小宰相どのも、菊王も、みんな行ってしまった。頼む、玉虫……目を開けてくれ。おれをひとりにするな。おまえは、ぜったいに死んではいけない。おれたちがどうなっても、玉虫には生きていてほしいんだ」


 切々と訴える教経に、なんて勝手なことを、と玉虫は思った。


(そこまで思ってくださるなら、どうしてわたしを見てくださらないの。わたしは教経さまの、なんなのですか──?)


 閉じた玉虫の目から涙がこぼれ、濡れた睫毛がゆっくりとひらいた。それに気がついた教経は、握っていた玉虫の手に自分の額を押しつけた。


「──玉虫! 玉虫、よかった……もどってきてくれた。玉虫!」

「教経、さま……」


 玉虫がかすれた声で名前を呼ぶと、教経は顔をあげて「玉虫」と涙声で応えた。その声を聞くなり、玉虫の身体の芯にぽっと明りが灯った。


(わたしはやっぱり、大ばかなんだわ。……教経さまのために、生きていたい)


 玉虫はこわばった笑顔を見せると、もう一度、眠りについた。




 屋島での合戦のあと、源氏は行宮や宿所を焼き払い、平家は屋島を放棄して長門の彦島へ移動した。長門では知盛や教経の父が源範頼と睨みあっており、屋島を急襲した源義経は、そのまま平家を追尾している。


 源平最後の合戦は、もう目前に迫っていた。

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