千尋の海(一)
三月も半ばを過ぎたころ、ふたたび清元が訪れた。
教経の宿所にいると伝えられた玉虫は、行宮を出て兄へ会いに行った。その表情は、屋島で会ったときよりもずっと険しく、いよいよ本気で玉虫を太宰府へ連れて行く気なのだと感じた。彦島から太宰府なら、その日のうちに行くことができる。
小さな宿所の一室には、清元だけでなく教経も同席していた。身構える玉虫に、清元は前置きもなく言った。
「玉虫、いまから太宰府へ行く。なにも持たなくていい、このまま出発する」
驚いた玉虫が口をひらく前に、教経が畳みかける。
「おまえたちには、ほんとうに世話になった。いつかまた、会えることを願っている」
「もったいないお言葉です。こちらこそ、長年にわたるご厚誼にお礼の申し上げようもございません」
教経と清元のあいだで、別れの挨拶がはじまっていく。ここにいてはいけない、と玉虫が思っているうちに、清元が視線をむけた。
「──さあ、玉虫」
兄にうながされた玉虫は、首を左右に振りながら「いやです」と答えた。
教経たちも玉虫の反応は見越していたのだろう。ふたりで目をあわせると、教経が落ちついた口調で玉虫を諭した。
「玉虫、正直に言おう。状況は、よくない。源氏は、九州で平家に反目する豪族たちを、次々に取りこんでいる。最大の味方だった太宰府の原田種直も破られた。もう、九州は源氏に制圧されている。おれたちには、この彦島以外に行くところはない」
「四国もそうだ。阿波民部の息子が、源氏に降伏したとの噂もある」
清元の補足に、教経はうなずいた。
「次の戦は、福原のときのような総力戦になるだろう。ただし、海上戦になる。惣領どのは、それを最後の決戦と覚悟しておられる」
「最後……?」
ぎこちなく聞いた玉虫に、教経は目を伏せた。玉虫の問いには答えたくないと言うように、口を閉じる。
しかし、おもむろに視線を玉虫へもどすと、懇願するように言った。
「玉虫……頼むから、太宰府へ行ってくれ」
しぼりだすようなその声からは、生きていてほしい、という強い思いが聞きとれた。
「いいか、時忠どのはおなじ平家一門とはいえ、武官ではなく文官だ。おれたちに万が一のことがあっても、時忠どのが処刑されることはないだろう。悪くて遠流だ。だから、玉虫までおれたちの道連れになることはない。太宰府へ行って、ほとぼりが冷めたら都へもどって宮仕えでも結婚でもすればいい」
教経はどうにか説得しようと、必死に訴えてくる。しかし、それでも玉虫が答えずにいると、清元が業を煮やしたように言った。
「行くぞ、玉虫。母上は、菊王のことで臥せっておられる。この上、おまえになにかあれば、母上はご自害なさるだろう」
「そんなこと──!」
玉虫はうろたえた。
教経のそばにいたい。でも、母のことも放ってはおけない。菊王を亡くした母の悲しみは、自分の比ではないだろう。でも、それでも──
衣をぎゅっと握った玉虫は、清元へ聞いた。
「兄上、唐船は……唐船は、まだ宋へ出ていますか?」
九州まで戦に巻きこまれていては、貿易どころではないかもしれない。けれど、危険を回避して祖国へ帰ろうとする者たちもいるかもしれない。
玉虫は、それに一縷の望みをかけた。
「出ている。みな帰国しようとしている」
「そうですか。わかりました」
玉虫は腹をくくって居ずまいを正した。ずっと自分の気持ちを言わずにいたけれど、これが最後だと言うのなら伝えたい。もう、どう思われてもいい。
玉虫は深く息を吸うと、静かに吐いた。そして真っすぐに教経の目を見た。
「教経さま、わたしといっしょに宋へ渡ってください」
「それは……前にも、断っただろう。おれは、一門を見捨てるようなことはしない」
教経は、なにをいまさら、という顔をしている。
清元も驚いた顔を見せたが、すぐに真顔へもどった。どういう形であれ、玉虫が彦島を出てくれるなら、それでいい。
玉虫は兄が反対する気配がないのを見て、教経へ向かっていざり出た。
「教経さまが宋へおいでにならないのなら、わたしも太宰府へは行きません。教経さまはわたしに、生きていてほしいとおっしゃいました。でもわたしは、教経さまと生きていきたいのです。──ずっと、教経さまのおそばにいたいのです」
「玉虫……?」
思ってもいなかったことを言われたようで、教経は目に見えて狼狽した。
(この方は、ほんとうにわたしの気持ちにお気づきじゃなかったの……)
教経の反応に、玉虫も愕然とする。
「教経さま、わたしを見てください。わたしは、出会ったころの十一歳の女童ではありません。もう、十九です」
玉虫を見ていた教経は、やがて目が覚めたようにまばたきをした。目の前にすわる玉虫の姿が、いきなり成長したかのように驚いている。
今度は玉虫が、なにをいまさら、とあきれた。
「いや……それは、わかっているが……おまえも菊王も、おれにとっては身内のようなもので──」
教経の言葉を、玉虫はさえぎった。
「わたしには、ちがいます。わたしは、ずっと教経さまをお慕いしていました。印南野で自分の気持ちに気づいてから、ずっと、教経さまのことが好きでした。小宰相さまのお姿を追いかける教経さまのお背中を、それでもわたしはずっと、追いかけていました」
「……」
答えに詰まる教経に、玉虫はさらにいざり寄り、その手へ自分の手を重ねた。
「わたしとふたりで、生きてくださいませんか」
はっと、教経が息を呑んだ。教経は玉虫の手を払いのけることすらしなかったが、その顔はあきらかに戸惑っていた。
無言で玉虫の視線を受けとめる教経に、清元が静かに言った。
「妹は……玉虫は、教経さまのことが好きで、好きで、たまらないのです。でも、あなたさまは、いっこうにお気づきにならなかった」
教経は清元を見ると、すぐに目を逸らして唇をかんだ。そのまま目を閉じ、しばらく考える素振りを見せてから背筋をのばした。
「──それで、玉虫はしあわせになれるのか。おれの気持ちが小宰相どのにあると知りながら、おれとふたりで生きることに、意味はあるのか」
「あります。教経さまのおそばにいることが、わたしのしあわせです」
「それでは、おれはどうなる。一門を捨てて、この国を離れて、兄上や小宰相どのを遠くに思いながら過ごすことが、到底しあわせだとは思えない。むしろ、不幸だ」
挑むように言った教経に、玉虫は平然と答えた。
「教経さまの幸不幸は関係ありません。わたしのそばにいてくだされば、それでいいのです」
「なにを……」
教経と清元は呆気にとられていたが、玉虫は続けた。
「以前、教経さまは、小宰相さまがおしあわせならいいと、そうおっしゃいました。教経さまは、おやさしいですね。……でも、わたしは教経さまが不幸だとしても、わたしがしあわせでいられる道を選びます」
清々しいほどに勝手な言い分だった。
教経は首を振って黙りこむと、長いため息をついた。そして「そういうことなら」と言いながら、玉虫の手を押しもどした。
「おれも、おれのしあわせを優先させる。おれは兄上や小宰相どののそばを離れたくはない──だから、ここを動くこともない」
「でしたら、わたしもここを動きません」
はっきりとお互いの意思を主張したふたりに、清元は肩を落とした。玉虫は、教経が拒否することをわかったうえで、言いだしたのだろう。教経もおなじことを感じたのか、額に手をあてて、ため息をついている。
玉虫だけが、静かに燃える眼差しで、教経を見つめていた。
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