慟哭(一)
玉虫たちは、予定通りに屋島へついた。まさか、ほんのひと月ほどでもどってくることになるとは思わず、悔しさと情けなさに、みなが押し黙ったまま
教経は以前のまま児島へ渡り、菊王もそれに従った。小宰相もおらず、ひとりになった玉虫は建礼門院のもとへ行くことも考えたが、いまはまだ、ともに過ごした児島で小宰相のことを偲びたかった。それに──。
(教経さまと菊王も、心配だし……)
生田・一ノ谷での戦から、まだ十日も経っていないが、菊王はずっとふさぎこんだ様子で、無精髭もそのままにしている。教経はそんな菊王を気遣ってくれているが、その教経自身も痛みをかかえているはずだった。
「玉虫は、内裏にいてもよかったんじゃないのか。おまえは、女院の女房だろうに」
「そうだよ。ここにいても、もう──」
小宰相はいないことを言おうとした菊王は、はっと口をつぐんだ。教経がそれに気づいて、薄く笑って視線を落とした。しかし、その目は驚くほどに昏い。
玉虫はできるだけ明るく、さりげなく言った。
「いいんです。しばらく女院のおそばを離れていたので、もうあちらの空気を忘れてしまいました。それに、こちらのほうが自由に過ごせますから」
「……そうだな。菊王にも、玉虫がいてくれたほうがいいだろう」
「ぼくは大丈夫です! 子どもじゃないんですから、姉上がいなくても平気です!」
抗議する菊王の肩を、教経はなだめるように叩いた。
「それだよ、それ。おまえの威勢のいい声は、久しぶりに聞いたな。やっぱり、玉虫にはいてもらったほうがいいみたいだ」
渋い顔をする菊王に、玉虫は舌を出してみせた。
三人はそれから、従者たちと屋敷の掃除に取りかかった。それほど長く放置していたわけでもないのに、凄まじい荒れっぷりだった。残していった調度品などはすべてなくなって、蔀戸や妻戸なども無理やりに壊して持ち去ったあとが見えた。
「これは、なかなか……」
教経も絶句するありさまで、従者たちも頭をかかえた。
全国的な飢饉は相変わらずで、戦の兵糧もままならない。それでも強制的に徴収される民の暮らしは、言うまでもなかった。田畑を放棄して逃げ出す者も多く、強盗・窃盗は日常的に起こっている。
「──まあ、仕方ないな。雨露がしのげるだけ、よしとしよう」
教経が大きく手を鳴らしたのを合図に、従者たちは動きだした。いずれは屋島へ移るのだから、仮住まいができれば充分だった。
日が暮れるころに夕餉をとり、暗くなっていく室内に三人の会話が途切れた。高燈台に火を灯すための油も、灯芯も、ここにはない。
すべては行宮に住まう帝や女院が最優先で、玉虫たちの生活に必要なものは切り詰めなければいけなかった。衣装はすっかりくたびれ、ほころびを繕うために、裁縫の腕があがったと冗談を言う女房もいた。
それだけに、都への思いはいよいよ募る。
「おまえたちを都へ帰してやれなくて、すまなかった」
「いいえ! ぼくこそ、通盛さまを……見捨てるようなことをして……」
菊王は御座船でしたように、教経へむかって土下座した。
「通盛さまのために命を捨てるどころか、はぐれた上に、おめおめと帰還して……小宰相さまがあのようなことになったのも、ぼくのせいです! 教経さま、ぼくを斬ってください!」
そう叫んだ菊王は、そのまま号泣した。
ひとつ覚えのように「斬ってください」とくりかえす菊王に、眉を寄せた教経は無言で太刀の柄に手をかけた。
「教経さま──!」
玉虫が声をあげるのと同時に、教経は太刀の鞘で菊王の横っ面を力いっぱい張り倒した。勢いで転がった菊王は口から血を流し、呆然と教経を見あげている。
庭先で従者たちがかがり火を焚いたのか、ぱちぱちという音が聞こえ、室内がほのかに明るくなった。ぼんやりとした明りのなか、教経はぎろりと菊王を見た。
「これで気が済んだか。ここでおれに斬られるくらいなら、おれに命を預けろ。おれのために、命を捨てろ。返事!」
「──はい! 身命を賭して、お仕えします!」
菊王は新しい拠り所を見つけたような、目の覚めた顔で教経へ頭をさげた。教経は「うむ」と短く返事をしてから、目尻を下げた。
「あのな、菊王。兄上は、わざとはぐれるように仕向けたのだと思うぞ。おまえに、生きていてほしかったんだろう。大将首といっしょにいては、狙われるだけだからな」
「……ぼくは、通盛さまと最後までいっしょにいたかったです」
またも涙を浮かべて、ぽつりと言った菊王に、教経は笑みを浮かべてため息をついた。
「そんなに、兄上を慕ってくれていたのか。真面目なだけで、おもしろい人でもなかっただろうに」
「はい……。子どものころは、そうでした。通盛さまはお優しい方でしたけど、ぜったいに冗談なんておっしゃらないし、教経さまといるほうが楽しくて」
「ははは、わかるぞ。兄上は、そういうお人だ」
おだやかに通盛の話をするふたりに、玉虫も口もとをゆるめた。あの戦から、ひさしぶりに笑顔を見た気がする。
「でも、小宰相さまとご結婚されてからは、なんていうか……お人が変わられたみたいに明るくなられて、声を出してお笑いになるのなんて、はじめて聞いたくらいで。戦に出たときにも、ぼくたちが怖がらないように、冗談をおっしゃるようになって──あ、でも慣れてらっしゃらないせいか、下手くそな冗談なんですけど、それがまたおかしくて」
教経にも覚えがあるのか、菊王とふたりでくつくつと笑った。
「小宰相どのも、兄上のそういう不器用なところに惹かれておいでだったのだろうな」
「はい。おふたりのお姿は、おそばで拝見していても、こちらまでしあわせな気持ちになるくらい、それは睦まじくいらっしゃいました」
「……そうか。おふたりは、真実、しあわせだったのだな」
「そう思います」
「それなら、よかった。──うん」
それきり教経は、海のある方を見つめたまま、黙ってしまった。
ややあって菊王は、「用を足してきます」と言って股座を押さえながら立ちあがり、教経がうなずくと玉虫の肩をぽんと叩いてから出ていった。
(菊王ったら……)
庭の従者たちも誘って離れていく菊王に、玉虫は彼なりの配慮を感じた。
教経が通盛のために泣くことはできても、小宰相のことで感情的に泣いてしまえば、あらぬ誤解を招きかねない。
兄の妻への横恋慕だと思われるだけなら、まだいい。けれど、ふたりが通じあっていたのではないか、もしやお腹の子は──などと邪推されてはたまらない。
それに、従者たちの前で泣くことも憚られるだろうと、菊王は席を外したのだった。
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