花の浮橋(三)

 舟はゆったりと潮路に身をまかせ、傷ついた人たちの心をなだめるように、おだやかに進んでいく。餌を捕る水鳥の鳴き声や、舟を漕ぐ梶の音が心地よい眠りを誘った。


 やがて、大きな月が中天を過ぎ、海と空のあわいをかき混ぜるように霧がたなびきはじめたころ、楫取かんどりが「身投げだ!」と叫んだ。


 はっと目覚めた玉虫と乳母がそばを見ると、そこはもぬけの殻だった。


「小宰相さま──?」


 ふたりが表へ出ると、水夫たちが海へ潜って小宰相を探そうとしていた。しかし、濃く立ちこめる霧のせいで月はおぼろに霞み、水中はまったくの闇だった。捜索を続けるうちに、ほかの舟からも人が集まってくる。


 ようやく引きあげたときには、もう息も弱く、身体はぐっしょりと濡れて凍えるように冷たくなっていた。


「小宰相さま、小宰相さま! お気をたしかに!」


 乳母が小宰相の手をとり、温めるようにさすっては自分の頬へ押しあてた。玉虫も自分の衣で小宰相を包み、濡れた身体をぬぐい続ける。


「思いとどまってくださったと思っていたのに……。どうして──!」


 そう言いながらも、玉虫にはわかっていた。


 通盛が亡くなったいま、咲き誇るように輝いていた彼女のしあわせには、深い深い闇が影を落とした。その影は、たちまちのうちに根を張り、しまいには小宰相を枯らしてしまうことだろう。


 夢にうつつに通盛の面影を追い続け、やがては壊れていく自分の行く末を、小宰相は知っていた。


 しかし、乳母は半狂乱で小宰相の手を温め続け、それでは足りないと知るや、小宰相を抱きしめて背中をさすりはじめた。


「どうして、どうしてわたしをお連れしてくださらなかったのです。わたしは千尋の海の底までも、小宰相さまとごいっしょする覚悟でおりますのに! あなたさまが赤子のころから、わたしにはその覚悟がございましたのですよ。それを、どうしておひとりで行っておしまいになるのです!」

「小宰相さま、なにかおっしゃって! 行ってはいや!」


 か細くなっていく小宰相の呼吸に、玉虫たちは懸命に声をかけ続けた。しかし言葉が返ってくることはなく、小宰相は椿の花が落ちるように息絶えた。


 悲鳴を上げる女房たちの奥から「どけっ!」という声とともに、教経が足を踏み鳴らしながら現れた。そして玉虫と乳母の腕に横たわる小宰相を見るなり、その場に立ちつくした。目を見ひらき、口を真一文字に結んでいたが、その唇は小刻みに震えている。


「教経さま……」


 玉虫が声をかけると、われに返ったように目をしばたたき、くるりと背をむけて去っていった。


(え……教経さま? どうして?)


 まさか小宰相から背をむけてしまうとは思わず、玉虫は言葉をなくした。


 月はすでに屋島の山影に隠れ、空は白々と明けはじめている。


 小宰相を抱きしめたまま泣き続ける乳母に、みなで海へ還すように説得していると、教経が鎧を手にもどってきた。


「兄上の着背長きせながが一領、残っていた。これを着せてやるといい」


 教経から鎧を受けとった玉虫は、その唇に血がにじんでいるのを見た。小宰相の死を前にして、教経の心が血を流していると思った。


 玉虫と乳母は、小宰相に最後の化粧をほどこし、通盛の鎧を着せた。それを教経が抱きあげて、舟べりからそっと海へ下ろす。通盛の鎧に抱かれ、つかの間、静かな波間をたゆたう小宰相の周囲に、無数の青白い光が浮かんだ。


 まだ暗い海に灯るその光は、月あかりを浴びた桜の花びらのように淡く、白く、まるで小宰相を通盛のもとへ運ぶ浮橋のように広がっていく。波間に乱舞する光を連れて、するすると沈んでいく小宰相は、最期のときまでも美しかった。


 そして、見送る人びとの目には、通盛に導かれ、手をとりあう小宰相の姿が、たしかに見えていた。


(あなたという人は、ほんとうに片意地な人だったわね。これでもう、教経さまはほかのだれにも、目をむけることはなくなったわ。──あなたなんて、大きらいよ。……わたしまで、あなたのことを好きになってしまったのに。ひとりで行ってしまうなんて、勝手だわ)


 玉虫は流れる涙をそのままに、小宰相へむけて心から手をあわせた。


 乳母はその後、小宰相に続いて入水しようとして、止められた。それならば、せめて出家したいと言って、自分で髪を切ってしまい、それを見た教経が弟を呼んだ。


忠快ちゅうかいはどこだ、 乳母どのに戒法を授けてやれ」


 進みでてきた僧形の若者は、玉虫よりも少し年上に見えた。教経よりも通盛に似ているのか、物静かで落ちついた印象を受ける。乳母も食い入るように忠快を見ていた。


 忠快の手で髪を剃り、受戒した乳母は、小宰相と通盛、そして生まれることのなかった子の菩提を弔っていくことを約束した。

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