花の浮橋(二)

 さまよう人びとの心と対比するように、月は夜ごとにふっくらと肥えていく。煌々とした月明りが海面に照り返し、冷たく青白い光彩を放っていた。


 だれもが寝しずまった夜更け、玉虫が肌寒さを感じて目を覚ますと、隣で横になっていたはずの小宰相が、明りのない舟のなかで一点を見つめたまますわっていた。


「小宰相さま、どうされましたか?」


 玉虫が声をかけると、ゆっくりとふりむいた。陰影を濃くし、気の毒なほどにやつれていても、それでも小宰相は美しかった。


「玉虫さま……。わたくし、やはり殿はお亡くなりになったのだろうと思っています。あれからだれも、殿を拝見したという方がいらっしゃらないのですものね……」


 力のない声で言う小宰相に、玉虫はなにも言えなかった。平家内でも、通盛の生存を楽観視している者は、ひとりもいない。


「最後にお会いしたときに、殿がおっしゃったのです。もし自分が討たれたら、あなたはどうしますか──、と」

「……なんと、お答えしたのですか」


 玉虫が聞くと、小宰相はうつろな目で答えた。


「なにも……。いつものように戦に出て、いつものように帰っていらっしゃると思っていたのです。まさか、このようなことになるとは思わず……。あれが最後の逢瀬だとわかっていたなら、もっと殿におかけする言葉もあったのに──」


 最後は声を震わせて、小宰相は涙を流した。起きだしていた乳母が、小宰相を赤子のように抱きしめて、やはり涙をこぼした。


「殿に、来世でもお会いしたいと……どのようなお姿におなりでも、たとえそれが小さな石ころでも、一片の草でも、わたくしはかならず見つけて殿のもとへ参りますと、どうしてお伝えしなかったのか──。悔しくて、悔しくて、たまらないのです」


 小宰相は全身で嗚咽した。ほんとうは泣き叫びたいだろうに、必死でこらえている。


「お子さまのことは、お伝えできたのですか」

「ええ……、それはもう、大変なお喜びようでした」


 悲しい笑みを浮かべて、小宰相は続けた。


「殿は、男子がいい、いつ生まれるのか、身体の具合はどうなのか、生まれるときには自分はどうすればいいだろうか、と──もう、ほんとうにお喜びで……。それもまた、どうしてもっと早くにお伝えしなかったのかと、悔やまれるのです。殿とふたりで、生まれてくる子のことをたくさんお話したかった──!」


 泣き崩れる小宰相の姿が、玉虫には見ていられないほどに痛々しかった。


 深い想いと幸福に満ちたふたりの姿は、まさしく比翼の鳥、連理の枝であり、どちらか一方が欠けることなどあってはいけなかった。


 乳母の腕の中で泣き続けた小宰相は、やがて鼻を鳴らして、居住まいを正した。


「──わたくしは、水の底へ入ろうと思います」

「いけません!」


 玉虫と乳母は、声をあわせて反対した。そんなことを許せるはずがない。けれど、小宰相はふたりの手をとり、懇願するように首をかしげて訴えた。


「この子を、殿の形見として育てることも考えましたけど、成長する子を見れば、殿を思いだすばかりで、つらくなるだけでしょう。この先、どうなるかわかりませんし、この子にも、つらい思いはさせたくないのです」

「そんな……。通盛さまは、そんなことをお望みになるのですか」

「殿は、もうおりません……。だからね──」


 そう言って、小宰相は乳母へ向きなおった。


「おまえには、殿やわたくしの菩提を弔ってほしいのです。都へあてた手紙も、あずけておきますからね」

「いけません、いけません」


 乳母は小宰相が手を握ろうとするのを、必死で拒んだ。そして、なおも言った。


「このたびの戦では、夫や子を亡くした方はほかにもおります。どなたも小宰相さまとおなじように、深く悲しんでおいでなのです。あなたさまだけが、おつらいわけではないのですから、その悲しみを分ちあうこともできましょう。どうか、どうかご無事にお子をお生みになって、小宰相さまご自身で殿の菩提を弔って差しあげてください」


 小宰相が困り顔で玉虫を見てきたが、玉虫は乳母へ同意するようにうなずいた。


「おつらいでしょうけれど、もうしばらくは、お腹のお子のことをいちばんにお考えになりませんか……?」

「そうでございますよ、小宰相さま。もし、よくよくお考えになって、それでも殿のもとへおいでになるとおっしゃるのでしたら、そのときには、わたくしも千尋の底までおともいたします」


 覚悟を示す乳母の態度に、ようやくあきらめたのか、小宰相は小さく息をついた。


「……わかりました。おまえは、わたしのために幼い子や老いた親を、都へ置いてきたのですものね。ありがたく思っていますよ。──さあ、もう休みましょう。わたくしのせいで、夜も更けてしまったわ」


 無理につくったとわかる笑顔を見せて、小宰相はそろりと横になった。玉虫と乳母も顔を見あわせて、ほっと息をつく。


 明日になれば、屋島へつくと聞いた。屋島で過ごすうちに、腹も目立ってきて、いずれ小宰相の気持ちも落ちつくのではないか──。ふたりは、そう思っていた。

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