花の浮橋(一)
二月七日の早朝。源氏の兵が教経の守る山の手と、西の一ノ谷を撃破した。
まさかの急襲に平家軍は足並みが乱れ、海と山が迫る狭隘な場所での戦闘は混乱を極めた。
沖からその様子を見ていた玉虫には、平家の紅い旗と源氏の白旗が入り乱れていることしかわからなかった。だれかが火を放ったのか、あちこちで黒い煙があがっている。
「玉虫さま……」
乳母へもたれかかるようにして、小宰相がすがるように声をかけてきた。
「小宰相さま、ここではお身体が冷えてしまいます。奥でお待ちになっては」
「でも、あんなに煙が……。あ、馬が海へ──!」
玉虫がふたたび浜へ目をやると、海岸沿いで待機していた小舟へむかって泳ぐ馬の姿がいくつもあった。小舟はすでに浜を離れていて、もう人を乗せる余裕はないようにも見える。その様子から、兵たちが逃げだすほどに平家軍が押されているのだとわかった。
「そんな……。菊王、菊王は!」
通盛のもとで戦に出ている菊王が心配になり、玉虫は声をあげた。血の気のない顔をした小宰相は、もう声もなく、無秩序な戦場を呆然と見ている。
やがて、玉虫たちの乗る御座船も避難することを決め、さらに沖へ漕ぎだした。
都落ち以前から、およそ戦といえば、本家や小松家の武将が出陣してきた。しかし今回は、平家の武将という武将を投入した総力戦とも言える。
その戦で、平家は大敗を喫した。
御座船には、逃げのびた武将や侍大将たちが無事の報告にやってくる。みな、口を堅く引きむすび、屈辱と恐怖の入りまじった顔をしていた。
玉虫と小宰相は御座船の片隅で、生きた心地もせずに待ち人の帰りを祈った。
(早く帰ってきて、菊王。教経さまと、通盛さまのご無事を知らせて──!)
ときおり、女房の細い悲鳴が聞こえてきて、訃報に接したのだとわかる。玉虫も小宰相も目に涙をため、震える手を握りあっていた。
市寸島比売命の残した呪いの言葉が、玉虫の心に重くのしかかる。
──その身体から、宝珠の名残が消えるとき、そなたも消えよう。明日になるか、一年後になるか……
(それがもし、今日だったら? ううん、あれはきっと市寸島比売命のうそよ。こうして怯えさせるために、言っただけ。──そう、きっとそうよ)
どれだけ長い時間が過ぎたのか、それとも短い時間だったのか、周囲があわただしく動きまわるのを、なす術もなく見ているうちに、玉虫を呼ぶ声が聞こえてきた。
「姉上、姉上! 小宰相さま!」
自分たちを呼ぶ菊王の声に、ふたりは顔を見あわせて目を輝かせる。腹巻という簡易な鎧を身につけた菊王が姿を見せると、玉虫は走り寄った。
「菊王──! 怪我はない? 通盛さまは? 教経さまは?」
矢継ぎ早にたずねる玉虫に、菊王はぴたりと足を止め、ふくらんだホオヅキの袋がつぶれるように顔をぐしゃりとゆがめた。それから喉をひくひくと痙攣させて、小宰相へむかって土下座した。
「申しわけございません! 通盛さまとはぐれてしまって、ぼくだけがもどって参りました。通盛さまは、こちらにはおいでになっていません。──小宰相さま、ほんとうに……ぼくだけが、こんな……」
額をこすりつけるようにして、菊王は声をあげて泣きだした。玉虫が身体を起こそうとしても、床にへばりついたまま頑として動かない。
そこへ遅れてやってきた通盛の従者のひとりが、通盛は湊川で数騎の武者に囲まれてしまったことを、言葉を詰まらせながら知らせた。
聞き終えた小宰相は「……そう」とひと言だけ口にすると、ぐらりと失神した。
「小宰相さま! しっかりなさって!」
玉虫と乳母がすわりこんだ小宰相の頬をなでていると、背後から現れた赤い影がさっと小宰相を抱きあげた。あっと見あげると、怒ったような目をした教経が立っていた。
「教経さま……。ああ、ご無事だったのですね」
玉虫から全身の力が抜けた。気が遠くなっていくのを、必死に引きとめる。
「ああ、このとおりだ。それより、小宰相どのを横にしたほうがいい」
「あ……では、あちらで褥をのべましょう」
玉虫たちが寝起きしている場所へ、小宰相を寝かせた。小さく胸を上下させて、苦悶するように閉じた目蓋は涙で濡れている。
几帳で区切っただけの狭い空間に、玉虫たちは小宰相を囲んですわった。
菊王は声を殺して泣いていて、その肩を教経が強く抱き寄せていた。教経は小宰相の顔へ視線を落としていたが、その目には表情がない。
平家に勝機はあったはずだった。
海と山の天然の要害に守られ、生田の森と一ノ谷で城郭を築いて山陽道を塞いだ。海上にも多くの舟が集結していて、もし源氏の兵がなだれこんだとしても、四方を囲まれるかたちになり袋のネズミになる。
源範頼・義経の両軍を壊滅させる絶好の機会を、平家は逃してしまった。法皇からの和平の使者が来るという報せに、情けないほどに踊らされたのだ。
この戦で、平家は多くの武将を失った。教経は兄だけではなく、弟もひとり亡くしている。昔、たわむれに玉虫へ結婚を薦めた弟で、まだ十六歳だった。
それから数日間、小宰相は起きあがることもできなくなった。
従者もふくめて、通盛が討たれたことを確認した者はいない。もしかすると、もどってくるかもしれないという期待と、やはりだめだったのだという絶望がくりかえされ、身も心も井戸が涸れるように憔悴していった。
「小宰相さま、お水だけでも口になさってください。お腹のお子に障ります」
小宰相の乳母もふさぎこんでしまい、玉虫は付きっきりでふたりの世話を続けた。
通盛との子が無事に産まれてくれたら、どれだけ小宰相の希望になることだろう。そのためにも、小宰相には身体を大事にしてほしかった。
福原を離れた玉虫たちは、ふたたび屋島を目指して瀬戸をただよっていた。都はもう目前に見えていたのに、求めてやまなかった希望は指先をかすめただけで、またも遠ざかっていく。
みなが絶望をかかえ、悲嘆に暮れていた。
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