一ノ谷前夜(三)
「教経さま──!」
玉虫は迷うことなく教経を追いかけた。なにもできないことはわかっていたけれど、ひとりにすることもできなかった。
黙々と海のある方向へむかって歩く教経は、最初こそ肩を怒らせ、夜風に挑むように顔をあげていたが、しだいに速度が遅くなり、玉虫が追いついたときには、なんともしょっぱい顔をしていた。
「みっともないだろう。笑ってもいいぞ」
「いいえ。笑いません」
「笑えないほどに、あきれたか。──だろうな」
「いいえ。あきれてなど、いません」
「……そうか」
教経はふたたび黙りこみ、聞こえてくる潮騒に誘われるように歩きだした。福原の都があった場所を抜けて湊川沿いに進み、大輪田ノ泊が見えてくるころ、まだ新しい神社のそばを通りかかった。
思いだしたように教経が足を止めて、鳥居の前で一礼する。玉虫も一礼し、あとについて参拝した。
「ここは、清盛さまが安芸の厳島神社を勧請して、四年前に創建されたばかりなんだ」
「ああ、だからこんなに新しいのですね」
「そう、まだ新しい。あのころには、まさかこんなことになるとは……」
「──はい」
「でも、大丈夫だ。この春には、都の桜を見ることができる。おれはまた、つまらない都での生活にもどるわけだ」
水島での勝利から、平家は勝ち戦を続けていて、とうとう福原も奪還した。東国から遠征している源氏の兵は、飢饉と内紛で疲弊している。
帝と三種の神器を有した平家内には、いまや政治的にも軍事的にも有利だという空気が蔓延していた。
だからこそ、法皇からの和平の使者が来るという報せに猜疑心をいだきつつも、そういう提案もあり得ることだろうと油断していた。
「明日は、小競り合いくらいはあるかもしれない。玉虫、おまえももどれ。だれかに送らせる」
「教経さまは、もう大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。さすがに、あの場面へ踏みこんだのは、まずかった」
気まずそうに笑う教経に、玉虫はほっとした。小宰相も乳母と残されてしまい、不安に思っているだろう。それとも、菊王が送り届けてくれただろうか。
ふたりが陣屋へもどるために鳥居をくぐろうとしたとき、ふいに覚えのある強烈な潮の香りがただよってきた。あっと思うまもなく視界が揺れて、生ぬるい空気がひたひたと身体を包む。
教経が玉虫を抱き寄せ、玉虫は教経の鎧へしがみついた。
ため池の底をのぞきこんた時のように、地面から小さな泡がぷくぷくと湧いてきて、やがて渦を巻くようにして人の形をとったかと思うと、
──あら、仲のよいこと。ここが、わらわを祀る社と知って参ったのかえ? いよいよ
「しつこい! おれはどこへも行かないと言っただろう。失せろ!」
教経の攻撃的な態度に、市寸島比売命は意外だという顔をした。
──わらわの加護を、そなたも理解したのではないのか? 次々と相手を平らげてゆくのは、楽しかったであろう
矢を射かけ、太刀を振るう高揚感を思いだしたのか、教経は一瞬ひるんだ。
「あれは……、あれは、おれの力だ。おまえの力ではない」
──なんと強情な……
市寸島比売命は、鼻白むように言い捨てた。それと同時に、玉虫には周囲の空気がひやりと変わった気がした。教経は気づかないのか、さらに食ってかかる。
「だいたい、あれは夢だ。夢でなかったとして、それがどうした。分別のつかない子どもの約束だろう。そんなものになんの価値がある! ──おれはいま、一門のために命を捨てる覚悟で戦っている。おまえの勝手な話につきあう気はない!」
教経は玉虫を突きはなすと、鞘を払って太刀を構えた。ふるふると視界が揺れて、その切っ先が市寸島比売命の喉もとを真っすぐに示した。
──わらわの加護を享受しておいて、わらわの言うことは聞けぬと。あの約束を、つまらぬものだと。……そなた、本気で言うておるのか
「加護がなんだ。おれたちが勝利しているのは、都へ帰るため、帝の御ためにと、みなが命を惜しまず戦った結果だ!」
──海神ノ宮へは、参らぬと言うのであるな
念を押すようにくりかえす市寸島比売命へ、教経は切って捨てるように返した。
「何度も同じことを言わせるな、化け物め」
ちりちりと、肌を刺すような沈黙が流れた。
──では、返してもらおうかの。加護を失くしたそなたに、さて、なにができるか見ものであるな。ほほほ……
市寸島比売命がつまみあげるしぐさをすると、その指先から稲妻のような鋭い閃光はじけて、同時に教経はうめき声をあげた。喉もとに手をあてて、苦しそうに顔をゆがめる。腹と背中を波打たせ、必死になにかを吐きだそうともがいていた。
「教経さま! どうされました!」
玉虫が大鎧の背中をさすると、教経が両手をついてすわりこみ、その場へ大量の水を吐きだした。その中から、何色ともつかぬ美しい輝きを放つ珠がひとつ出てくる。珠はひとりでに市寸島比売命の手に収まり、溶けるように消えた。
教経は肩で息をしながら、燃えるような目でそれを睨みつける。
市寸島比売命はぞっとするほどに冷たい一瞥をくれると、唇の端を耳まで持ちあげて笑った。
──そなたの寿命は、あの海ですでに尽きておる。宝珠の力で、人の世にとどまっておっただけのこと……。その身体から、宝珠の名残が消えるとき、そなたも消えよう
市寸島比売命の言葉に、ふたりは色を失った。
(寿命が、尽きてる……? 教経さまが消えるって、なに?)
呪いのように胸に沈んでいくその言葉へ、教経は嚙みついた。
「ばかなこと言うな! そんな話を信じると思うのか!」
──あのとき、そなたは生者と死者のあわいにおると言ったであろう。死者であるそなたを、生者として引き止めてやったのは、わらわぞ
狼狽する教経の表現を楽しむように、市寸島比売命はさらに言葉を継いだ。
──明日になるか、一年後になるか……あるいは、千年も万年も、わらわのように孤独に生きるやもしれぬ。そのときは、宮へ招いてやってもよいぞ。ほ、ほほほ……
高らかな笑い声を響かせながら、市寸島比売命はしゅるしゅると細くなり、やがて見えなくなった。
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