一ノ谷前夜(二)
二月四日、平家は清盛の法要をとりおこなった。
都では、平家が福原へ入る直前に、木曽義仲が源範頼・義経の軍によって討伐されている。これにより、平家はこれまでの木曽軍に代わり、頼朝の軍勢を相手にすることになった。
法皇の要請を受けて出陣した範頼軍は、大手の生田方面に陣を張り、義経軍は
しかし、七日に矢合せが決まっていたものの、法皇からの和平の使者が出立するという報せも届いており、大規模な合戦にはならないだろうという見方が大勢を占めていた。
そして、源平矢合せの前夜。玉虫は小宰相にそっと耳打ちをされて、御座船から小舟を出して福原へ渡った。福原で陣を張る通盛へ会いに行くのだという。
乳母の表情を見れば、止めても聞かなかったことは容易に想像できた。
三日月はすでに夕日を追いかけて西へ沈み、またたく音も聞こえてきそうなほどに輝く星たちが、冬の夜空を惜しみなく飾りたてていた。
降りそそぐ星明りのもと、玉虫たちの小舟はひたひたと浜へむけて進んでいく。
ときおり、冷たい海風がふたりの顔を無遠慮になでつけ、あまりもの寒さに頬を寄せあうように抱きあった。
「わたくし、殿へお伝えしようと思います」
まだ、ふくらみの目立たない腹をなでながら、小宰相が言った。
通盛への深い愛情と、宿した命への母性に満ちあふれた横顔が、はっとするほどに美しい。
「──きっと、お喜びになるでしょうね」
これほどまでに美しい女人から、かぎりない愛情を寄せられる通盛は、なんという幸福を得たのだろうかと思った。同時に、それを間近に見続けた教経の辛苦を思うと、玉虫はひりひりとした痛みを感じた。
(教経さまや、わたしの気持ちをご存知ない、なんて恨めしく思ったけど……)
それでよかったのだと、いまならわかる。小宰相という女人は、一点の曇りもない幸福のなかにいてこそ、その美しさを際立たせるのだ。
「玉虫さま、わたくし、しあわせです。──都落ちからずっと、それは苦しくてつらいこともありましたけど、児島で殿と水入らずで過ごすことができて、こうして子を授かることもできて、玉虫さまという親しい友人もできて……。果報がすぎますわね」
「わたしも、ほんとうの姉妹ができたようで、うれしく思います。わたしには、兄と弟しか、おりませんでしたから」
「どちらが姉か、わかりませんけどね」
「それは、わたしも思います」
「まあ、玉虫さまったら」
ふたりが肩を寄せあい、くすくすと笑っているうちに舟は浜へついた。
菊王は待ちわびていたようで、走り寄るなり玉虫へ「凍えるかと思った」と泣きついてきた。それから突然、あらためて玉虫がいることに驚いてみせた。
「あれ、どうして姉上がいるの? 教経さまに呼ばれた?」
「そんなわけないでしょう。小宰相さまが、おひとりでは心細いとおっしゃるから、ついてきただけよ。さあ、早く案内してちょうだい」
「はいはい。でも、教経さまには見つからないようにね。戦の前でピリピリしておいでだから」
「戦はないと聞いたわ。法皇さまの御使者がいらっしゃるのでしょう?」
「うーん……それも、あまり信用してはいけないと言っておいでだった。源氏の兵が独断で戦を仕掛けてくるかもしれないし、法皇さまだって──」
さすがに、治天の君である法皇を悪く言うことはできないと思ったのか、菊王は口をつぐんだ。菊王だけではなく、いまや法皇への不信は平家の内に根深く巣食っている。
玉虫も先をうながすことはせず、小宰相の手をとり菊王のあとを歩いた。
教経と通盛が陣を構えるのは、福原の旧都からは背面にあたる山の手で、生田の森と一ノ谷のあいだに位置する。
京から山を越えて福原へ入る場合、ここへ通じる
あちこちでかがり火が焚かれていたが、通盛があらかじめ人払いをしていたのか、喧騒は遠く、だれに見られることもなく陣屋へ入ることができた。
小宰相を通盛のもとへ案内した玉虫と菊王は、陣屋から少し離れた場所で腰を落ちつけた。ここは生田の森や一ノ谷に比べると海は遠かったが、それでも山から吹き下ろす風は冷たい。
ぱりぱりに乾いた枝を集めて火を熾した菊王は、遠慮がちに聞いてきた。
「……ねえ、姉上。姉上は平気なの?」
「平気よ」
なにが、とは問い返さなかった。教経が小宰相を見初める前から、玉虫が教経を好きだったことを、いまでは菊王も知っている。
玉虫は平気だと答えたけれど、小宰相といることで、教経の視線は玉虫を素通りしていくことを身をもって知った。惨めだし、平気なわけがない。
「わたし、意地悪よね。昔から、ずっとそう」
「そうだね。昔は気づかなかったけど、姉上はずっと教経さまを牽制してたよね」
微塵も否定しない菊王に、玉虫は苦笑した。
通盛が小宰相へ熱心に言い寄っていることを、玉虫は無意識にも意識的にも、何度となく教経へ匂わせてきた。教経に小宰相をあきらめてほしいと、ずっと願っていた。けれどそれは、なんと幼稚で無意味な行いだったことか。
「いまも、そうだわ。こうしてわざわざ、小宰相さまが通盛さまに会いにいらっしゃるのを手助けしてる。睦まじいおふたりの仲を、どうにかして教経さまに見せつけたいと思ってしまうの。最低よね」
「そのために、小宰相さまと仲良くしてるの?」
菊王の直截な質問に、玉虫は少しだけ考えこんだ。
「──それは、ないと思うわ。たしかに、複雑よ。それは認める。でも、小宰相さまはほんとうに可愛らしい方だし、あの方に恋してしまう気持ちもわかるのよ」
「ふうん……。ぼくなんかには雲の上の人って感じで、とてもじゃないけど恋しようなんて思えないな」
「菊王は? だれかいないの?」
「ええ、ぼくのこと? そうだなあ……小宰相さまへの文を取り次ぎしてくれていた女房に、また会えたらいいな、とは思ってるけど。──もう結婚してるかも」
「都へもどったら、真っ先に会いにいけばいいじゃない。通盛さまと小宰相さまも、喜んでとりなしてくださるわよ」
「そうかな。……そうだといいな」
菊王は、はにかむように笑った。
談笑する兵たちの声が風に乗って聞こえてきて、戦の前夜とは思えないほどに、おだやかな時間が過ぎていった。
星のさえずりと波の音が、しずかに夜を奏でる。
すでに潮の香りも海鳴りも、すっかり生活の一部になっていたけれど、まもなくそれらは過去のことになり、あの優美な都へ帰るのだとだれもが信じていた。
「姉上、そろそろ……」
「そうね。名残惜しいでしょうけど、帰らないと」
ふたりが腰をあげたとき、大きな影が歩み寄ってきた。暗闇でも、焚き火の明りに浮かぶ緋縅の鎧を見れば、だれだかわかった。
「教経さま……」
「玉虫? どうして、こんなところにいるんだ。菊王も、なにをしている」
誤魔化しを許さない低い声に、玉虫たちは黙ってしまった。ふたりから目を逸らさずに答えを待っていた教経は、はっと通盛の陣屋を見やった。
とたん、無言で猛進していく教経を、玉虫たちはあわてて追いかける。
(教経さま、踏みこむおつもりなの? まさか、そんな無粋なことはなさらないわよね)
間に合わせの簡素な陣屋へつくと、どかどかと足音を立てながら教経が上がりこみ、大声で叫んだ。
「兄上! 三草山で、小松の資盛どのが破られましたぞ! 弟の
充分に時間を与えてから、教経はうずくまる乳母には目もくれず、通盛がいると思われる場所へ押し入った。
玉虫から見えた室内では、帰り支度をすませた小宰相が、通盛の背後で顔をそむけてすわっていた。はじめて見たときのように、恥ずかしさで肩をふるわせている。
ふたりが情を交わしたあとの、むせかえるほどの濃密な空気にあてられ、教経はさっと顔を赤らめて目をそむけた。それから大きく息を吸うと、玉虫もはじめて見るような怒りの形相で怒鳴りつけた。
「ここが、どういう場所かわかっておいでか! ここが崩れてしまえば、大手も搦手も総崩れになるのですよ! そういう場所だからこそ、惣領どのは門脇家にお任せくださったのです。いま、源氏の兵が来たらどうなさいますか。弓を取りますか? 矢をつがえますか? そして弓を引きしぼるような余裕が、いまの兄上にはおありか!」
玉虫の目には、教経の怒声に呼応するように緋縅の鎧が赤みを増し、そそけ立ったたように見えた。
しかし、通盛は教経の剣幕とは対照的に、静かに、そして深く教経へ謝罪を伝え、もう小宰相を帰すところだったのだと言った。教経は険しい顔をしたまま、それには返事をすることなく荒々しく陣屋をあとにした。
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