巻第四 源平争乱
一ノ谷前夜(一)
寿永三年(一一八四)。
平家は屋島で正月を迎えた。
水島での戦いに続き、備前吉川、播磨室山においても勝利を収め、勢いを盛り返した彼らは福原を奪回し、城郭を築きはじめた。東は生田の森から、西は一ノ谷まで、深く豪を掘り、逆茂木を立て、大木巨石を積み上げて戦に備える。
一月の終わりには、帝を擁した本隊が福原へ入った。
都落ちのときに屋敷をすべて焼き払っていたため、帝や女院、女房たちは摂津灘で御座船にとどまっている。それでも福原を目の前にして、うれしさのあまりに手をとりあって涙を流した。
女たちは都入りの日も近いと、さっそく頬を紅潮させて着物を選びはじめる。
早く、早く、一日も早く、あの輝く都へ帰りたい。ただ、その一心だった。
屋島を離れるにあたり、玉虫と
下津井に残った
「教経どのには、海龍王がついているそうだ」
「厳島神社への納経のおりに、
「これはきっと、上洛もまちがいない」
あざやかな緋縅の鎧に、金の縁取りをした
討伐の合間には福原へ足を運ぶこともあったが、御座船へ来ることはなく、玉虫は戦に明け暮れる教経に複雑な思いをいだいていた。
大日の森で市寸島比売命に会ったのは夢ではなく、その加護も本物だったのだと思うのと同時に、そのせいで教経は勝ち戦に酔っているのではないかと不安になる。己の力を見せてやるとうそぶいていたのだから、さぞかし満足していることだろう。
(──でも、教経さまは、戦のために戦をなさっているのではないかしら)
太宰府で見た教経の冷たい目を思いだして、玉虫はため息をついた。それを聞いた小宰相が、そっと首をかしげて手を重ねてきた。
「玉虫さまも、菊王丸が心配でしょう。殿がいつも、菊王丸のことを褒めていますの。子どものころから、よく仕えてくれたと。いい若者に育ったと、それは喜んでおいでなのですよ」
十七になった菊王は、そろそろ髭をのばしたいのだと言っている。似合わないからやめるように言っても、通盛の真似をしたいのだと聞かない。いつの間にか、よほど通盛へ心酔しているようだった。
「ありがとうございます。弟ながら、気立てのいい子だと自慢に思っています」
「ええ、殿とわたくしの恩人でもありますからね」
「ああ……、そうでしたね」
通盛からの文を、小宰相の乗る牛車へ放りこんだ横着を思いだし、ふたりは忍び笑いをかわした。
気分が落ちついた玉虫は、ふと小宰相の顔色が悪いことに気がついた。
「小宰相さま、具合でもお悪いのですか?」
「いやだわ、わかっておしまいになるのね。もうずっと、舟酔いが続いているのだと思っていたのですけど……」
小宰相は言葉をにごしながら、そっと腹に手をあてた。やさしく目もとをゆるめる小宰相に、玉虫は目をぱちくりとさせた。
「え……もしかして、ご懐妊ですか?」
「……はい。あ、でも殿にはまだ、お伝えしていないのです」
頬を染めて目を伏せる小宰相が、まぶしく見える。玉虫は周囲に気づかれないように、そっと頭を下げた。
「まずは、おめでとうお悦び申し入れます。通盛さまには、はじめてのお子さまではないですか? お伝えになればよろしいのに。きっとお喜びになりますよ」
「ええ、でも……こういう状況ですから、なにがあるかわかりませんし、都へもどってからでも──、と思っています」
「それもそうですけど……。通盛さまもきっと、おふたりで喜びを分ちあいたいと思われるのではないかしら」
「そうかもしれません。でも、殿にご心配をおかけすることは、やはり……」
おっとりと首をかしげながらも、玉虫の意見を聞きいれる様子のない小宰相に、以前から「片意地」だと言われていた頑固な性格を垣間見た気がした。
うららかな容姿とは裏腹に、ときおり芯の強さを見せる小宰相の気性は、武将の妻としては相応しいのかもしれない。
「──そうですね、おふたりのことですものね。わたしが口をはさむことではありませんでした。でも、なにかあったら、おっしゃってくださいね」
「はい。頼りにしていますわ、玉虫さま」
小宰相は訪れる春を予感させるような、ふくよかな笑顔を見せた。
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