大日の森(二)
教経が戦勝祈願をすると言いだしたのは、それからすぐのことだった。
ここから遠くない場所に
都落ちに同行した陰陽師の見立てで、閏十月一日に矢合せが決まっている。それまでの七日七夜、斎戒沐浴をして大日如来へ祈願するということだった。
白衣を身につけ、朝夕に海へ浸かって潔斎し、ひたすらに
夕日に背を向け、大日如来へ向かって大祝詞を唱える教経の声は、まだその姿が見えないうちから里山に木霊して玉虫に届いていた。
すでに秋は深まり、木々は赤や黄色に装いを変え、ドングリをご馳走に小動物が走りまわっている。このころになると、日暮れは冷気を連れてやってくる。
一丈三尺(約四メートル)はあろうかというエノキの根もとに座る教経からは、遠目にも湯気が立ち昇っているのが見えた。腹の底からの大音声を出し続けることで、大量の汗をかいているらしかった。
木立を赤々と照らしていた茜色の西日は、逃げるように海原へ沈んでいく。
教経に気づかれないよう、離れた場所に敷いた筵の上にそっと食事を置いて、玉虫はその後ろ姿を見つめた。潔斎の邪魔になるからと、教経から預かっている錦の小袋をとりだすと、胸もとで握りしめて満願成就を祈った。
教経の声はいよいよ大きく、地の底から湧き出るように太く響いていく。
高山の末
その瞬間、玉虫は潮の香りに殴られたような衝撃を感じた。鼻からも口からも濁流のように香りが流れこみ、おぼれるのではないかと恐怖を覚えた。
(なに? どうなっているの──!)
教経を見れば、やはり異変に気づいたのか立ちあがり、周囲を見まわしている。しかしその光景はゆらゆらと歪み、水の中にいるかのように定まらない。
「教経さま!」
口の中に溜まった香りを吐きだすように、玉虫は叫んだ。こちらをふりむいた教経へ泳ぐようにして駆け寄り、教経も玉虫の腕を引き寄せた。
足は地につき、枯葉を踏んでいるはずなのに、浮いているかのようにやわらかく、頼りない。着物の裾も、背中に垂れる髪も、波に流されるように揺れている。
「これは……。どういうことだ、水の中にいるみたいだ」
「はい。──でも、息ができます」
教経に肩を抱かれたまま、玉虫は胸のあたりに違和感をおぼえて見下ろした。錦の小袋がふわりと浮いて、絞り口があいている。
「教経さま、袋が……!」
わずかにひらいた袋の口から、
やがて、見えない糸に手繰り寄せられるように、するするとたどりついた先に、ひとりの女人が立っていた。
古代の女性のように肩から
──愛し子よ、久しいのう……。ほんの数回、瞬きをしただけだというのに、そなたらはすぐに老いてゆく。うたたねなどしようものなら、あっけなく露と消える。まこと、はかない命であることよ……
「おまえは、だれだ。それは、おれの大切なものだ、返せ」
──あら、悲しいことを言う。そなたが呼んだのであろう。瀬織津比売とは、わらわのことぞ。わらわが母代わりになってやると、そなたに約束したことを忘れたか
心外だと言わんばかりに悲しげに眉尻を下げ、女人は言った。
玉虫は、ふいに巨椋池で教経が語った夢の話を思いだした。海でおぼれ、
(まさか、この女人は──)
「……市寸島比売?」
「ばかな、あれは夢だ。おぼれた子どもが見た、ただの夢だ!」
教経は玉虫の肩にかけた手に力をこめて、すぐさま否定した。しかし、市寸島比売命は親が子のわがままを慈しむように、やわらかく問い返した。
──相変わらず、威勢のよいこと。ならば、これも夢だと? そこなる娘は、そなたの妹背かえ? おなじ夢を見るほどに、仲が良いと見ゆる。ほほ、ほほほ……
「玉虫は関係ない」
するりと、教経は玉虫の肩から手をほどいた。
「おれたちを、どうする気だ。おまえに付きあっている時間が惜しい。用件を言え」
教経は一歩前へ進み、玉虫を背後に隠した。
──わらわと
あからさまな市寸島比売命の言葉に、玉虫は真っ赤になって顔を伏せ、さすがに教経もたじろいだ。
「ふ、ふざけるな! おれは、どこへも行かない。あれは夢だ、おまえは名を騙る化け物だろう。失せろ!」
怒気をにじませて吠えた教経にも、市寸島比売命はうれしそうに目を細めた。
──そう、それよ。そなたの、その豪気。その覇気……。愛しいのう、わらわの父を見るようじゃ
話のかみあわない市寸島比売命を見ているうちに、玉虫はしだいに怖くなってきた。このまま連れ去られるのではないかと不安になり、すがるように教経の背中へ手をかける。
「いますぐ、おれたちを元にもどせ。そしておまえは、おまえの巣へ帰れ」
ふたりの態度に痺れを切らせたのか、市寸島比売命がその美しい顔をしかめた。
──わらわの居場所は、そなたの居場所ぞ。ひとりで海神ノ宮に過ごすのは、もう飽き飽きじゃ。たくさんの子らに囲まれて暮らしたいだけなのに、なぜわからぬ
「黙れ、化け物。ここは斎戒沐浴の場だ。おまえのいる場所ではない」
丸腰の教経は、魔物を退けるように手刀を大きく振るった。
ゆらりと、視界が揺れる。
その行為に、市寸島比売命は顔をしかめたまま、ため息をついた。
──聞きわけのないことを……。戦勝祈願など、無用じゃ。そなたには、竜の宝珠の加護があるのを忘れたか。海龍王が、きっと勝利をもたらすであろう。それをもって、わらわが真実、そなたの母代わりであることを認めるがよい
市寸島比売命が、手にしていた鱗の欠片を教経の喉もとへかざした。
ぽうっと丸い明かりが浮かびあがり、首筋の血管が透けて見えた。教経はとっさに首をつかんで、光を抑えこもうとする。
背後に立つ玉虫からも、教経の首筋が五色に光っているのがわかった。鱗の欠片は、玉虫が下げる錦の袋へひとりでにもどっていく。
──わらわの加護を忘れるでないぞ。海神ノ宮へ参る約束を違えぬかぎり、勝利はつねにそなたのものぞ
市寸島比売命は念を押すように言い残し、領巾をひと振りして泡のように消えた。とたん、揺れていた視界がはっきりと定まり、元にもどったのだとわかった。
木立のあいだから、昇りはじめた有明の月が見える。すでに空は紺色から菖蒲色、茜色へと夜明けの色へ変わりつつあった。
それほど長い時間だとは感じなかったが、市寸島比売命と対峙しているあいだに、ひと晩が過ぎていたことになる。驚いた玉虫は教経をのぞきこんだ。
「……教経さま?」
喉もとを押さえたまま、市寸島比売命が消えたあたりを凝視する教経に声をかけた。
けれど、教経は玉虫に答えることはなく、ひとり言のように「夢だ。あれは夢だ」とくりかえしていた。
数日後、五百艘の戦舟のうち、教経は百艘を率いて出陣した。
退くと見せかけて誘いこんだ木曽軍を鶴翼の陣でとりかこみ、陽光を背に平家軍は遠矢で猛攻をかける。やがて、陰陽師の見立て通りに皆既日食がはじまると、動揺して総崩れになる木曽軍を散々に打ち破った。
もとより、海上での戦に不慣れな東国武者が相手では、海賊討伐で腕を鳴らしてきた平家にとって、赤子の手をひねるようなものだった。
戦のあとには、太陽が欠けていく薄闇のなか、群千鳥の直垂に
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