大日の森(二)

 教経が戦勝祈願をすると言いだしたのは、それからすぐのことだった。


 ここから遠くない場所に呼松よびまつという漁村があり、そこで巨大なエノキの根もとに大日如来を祀った祠を見つけたらしい。


 都落ちに同行した陰陽師の見立てで、閏十月一日に矢合せが決まっている。それまでの七日七夜、斎戒沐浴をして大日如来へ祈願するということだった。


 白衣を身につけ、朝夕に海へ浸かって潔斎し、ひたすらに祝詞のりとを唱える教経へ、玉虫は自分たちとは別火で煮炊きした食事を届けた。


 大日だいにちの森と呼ばれるその場所は、クヌギやコナラが群生する里山で、そこにひときわ大きなエノキが守り神のように枝を張っている。



 高天原たかまのはら神留かむづまりす 皇親神漏岐すめらがむつかむろぎ 神漏美かむろみ命以みこともち

 八百萬神等やおよろづのかみたち神集かむつどへにつどへ給ひ 神議かむはかりはかり賜ひて──



 夕日に背を向け、大日如来へ向かって大祝詞を唱える教経の声は、まだその姿が見えないうちから里山に木霊して玉虫に届いていた。


 すでに秋は深まり、木々は赤や黄色に装いを変え、ドングリをご馳走に小動物が走りまわっている。このころになると、日暮れは冷気を連れてやってくる。


 一丈三尺(約四メートル)はあろうかというエノキの根もとに座る教経からは、遠目にも湯気が立ち昇っているのが見えた。腹の底からの大音声を出し続けることで、大量の汗をかいているらしかった。


 木立を赤々と照らしていた茜色の西日は、逃げるように海原へ沈んでいく。


 教経に気づかれないよう、離れた場所に敷いた筵の上にそっと食事を置いて、玉虫はその後ろ姿を見つめた。潔斎の邪魔になるからと、教経から預かっている錦の小袋をとりだすと、胸もとで握りしめて満願成就を祈った。


 教経の声はいよいよ大きく、地の底から湧き出るように太く響いていく。



 高山の末 短山ひきやまの末より 佐久那太理さくなだりに落ちたぎつ

 速川はやかわの瀬にす 瀬織津比売せおりつひめと云ふ神 大海原に持ち出でなむ──



 その瞬間、玉虫は潮の香りに殴られたような衝撃を感じた。鼻からも口からも濁流のように香りが流れこみ、おぼれるのではないかと恐怖を覚えた。


(なに? どうなっているの──!)


 教経を見れば、やはり異変に気づいたのか立ちあがり、周囲を見まわしている。しかしその光景はゆらゆらと歪み、水の中にいるかのように定まらない。


「教経さま!」


 口の中に溜まった香りを吐きだすように、玉虫は叫んだ。こちらをふりむいた教経へ泳ぐようにして駆け寄り、教経も玉虫の腕を引き寄せた。


 足は地につき、枯葉を踏んでいるはずなのに、浮いているかのようにやわらかく、頼りない。着物の裾も、背中に垂れる髪も、波に流されるように揺れている。


「これは……。どういうことだ、水の中にいるみたいだ」

「はい。──でも、息ができます」


 教経に肩を抱かれたまま、玉虫は胸のあたりに違和感をおぼえて見下ろした。錦の小袋がふわりと浮いて、絞り口があいている。


「教経さま、袋が……!」


 わずかにひらいた袋の口から、五色ごしきに輝く薄い小さな破片が飛びだした。それは木の葉のように宙をただよい、玉虫と教経は行き先を目で追った。


 やがて、見えない糸に手繰り寄せられるように、するするとたどりついた先に、ひとりの女人が立っていた。


 古代の女性のように肩から領巾ひれをまとい、髪には糸に通した翡翠の玉がいくつもぶら下がっている。女人は破片をつまみ上げると、教経を見てほほえんだ。


──愛し子よ、久しいのう……。ほんの数回、瞬きをしただけだというのに、そなたらはすぐに老いてゆく。うたたねなどしようものなら、あっけなく露と消える。まこと、はかない命であることよ……


「おまえは、だれだ。それは、おれの大切なものだ、返せ」


──あら、悲しいことを言う。そなたが呼んだのであろう。瀬織津比売とは、わらわのことぞ。わらわが母代わりになってやると、そなたに約束したことを忘れたか


 心外だと言わんばかりに悲しげに眉尻を下げ、女人は言った。


 玉虫は、ふいに巨椋池で教経が語った夢の話を思いだした。海でおぼれ、市寸島比売命イチキシマヒメノミコトの子になれと言われる夢を見たと話していた。


(まさか、この女人は──)


「……市寸島比売?」

「ばかな、あれは夢だ。おぼれた子どもが見た、ただの夢だ!」


 教経は玉虫の肩にかけた手に力をこめて、すぐさま否定した。しかし、市寸島比売命は親が子のわがままを慈しむように、やわらかく問い返した。


──相変わらず、威勢のよいこと。ならば、これも夢だと? そこなる娘は、そなたの妹背かえ? おなじ夢を見るほどに、仲が良いと見ゆる。ほほ、ほほほ……


「玉虫は関係ない」


 するりと、教経は玉虫の肩から手をほどいた。


「おれたちを、どうする気だ。おまえに付きあっている時間が惜しい。用件を言え」


 教経は一歩前へ進み、玉虫を背後に隠した。


──わらわと海神わだつみノ宮で暮らすのであろう? その娘も、生みの母の形見を預けるほどに信頼しておるのなら、ともに連れていってやってもよいぞ。そなたとまぐわい、子をいくらでも成せばよい。宮もにぎやかになってよかろう


 あからさまな市寸島比売命の言葉に、玉虫は真っ赤になって顔を伏せ、さすがに教経もたじろいだ。


「ふ、ふざけるな! おれは、どこへも行かない。あれは夢だ、おまえは名を騙る化け物だろう。失せろ!」


 怒気をにじませて吠えた教経にも、市寸島比売命はうれしそうに目を細めた。


──そう、それよ。そなたの、その豪気。その覇気……。愛しいのう、わらわの父を見るようじゃ


 話のかみあわない市寸島比売命を見ているうちに、玉虫はしだいに怖くなってきた。このまま連れ去られるのではないかと不安になり、すがるように教経の背中へ手をかける。


「いますぐ、おれたちを元にもどせ。そしておまえは、おまえの巣へ帰れ」


 ふたりの態度に痺れを切らせたのか、市寸島比売命がその美しい顔をしかめた。


──わらわの居場所は、そなたの居場所ぞ。ひとりで海神ノ宮に過ごすのは、もう飽き飽きじゃ。たくさんの子らに囲まれて暮らしたいだけなのに、なぜわからぬ


「黙れ、化け物。ここは斎戒沐浴の場だ。おまえのいる場所ではない」


 丸腰の教経は、魔物を退けるように手刀を大きく振るった。


 ゆらりと、視界が揺れる。


 その行為に、市寸島比売命は顔をしかめたまま、ため息をついた。


──聞きわけのないことを……。戦勝祈願など、無用じゃ。そなたには、竜の宝珠の加護があるのを忘れたか。海龍王が、きっと勝利をもたらすであろう。それをもって、わらわが真実、そなたの母代わりであることを認めるがよい


 市寸島比売命が、手にしていた鱗の欠片を教経の喉もとへかざした。


 ぽうっと丸い明かりが浮かびあがり、首筋の血管が透けて見えた。教経はとっさに首をつかんで、光を抑えこもうとする。


 背後に立つ玉虫からも、教経の首筋が五色に光っているのがわかった。鱗の欠片は、玉虫が下げる錦の袋へひとりでにもどっていく。


──わらわの加護を忘れるでないぞ。海神ノ宮へ参る約束を違えぬかぎり、勝利はつねにそなたのものぞ


 市寸島比売命は念を押すように言い残し、領巾をひと振りして泡のように消えた。とたん、揺れていた視界がはっきりと定まり、元にもどったのだとわかった。


 木立のあいだから、昇りはじめた有明の月が見える。すでに空は紺色から菖蒲色、茜色へと夜明けの色へ変わりつつあった。


 それほど長い時間だとは感じなかったが、市寸島比売命と対峙しているあいだに、ひと晩が過ぎていたことになる。驚いた玉虫は教経をのぞきこんだ。


「……教経さま?」


 喉もとを押さえたまま、市寸島比売命が消えたあたりを凝視する教経に声をかけた。


 けれど、教経は玉虫に答えることはなく、ひとり言のように「夢だ。あれは夢だ」とくりかえしていた。




 数日後、五百艘の戦舟のうち、教経は百艘を率いて出陣した。


 退くと見せかけて誘いこんだ木曽軍を鶴翼の陣でとりかこみ、陽光を背に平家軍は遠矢で猛攻をかける。やがて、陰陽師の見立て通りに皆既日食がはじまると、動揺して総崩れになる木曽軍を散々に打ち破った。


 もとより、海上での戦に不慣れな東国武者が相手では、海賊討伐で腕を鳴らしてきた平家にとって、赤子の手をひねるようなものだった。


 戦のあとには、太陽が欠けていく薄闇のなか、群千鳥の直垂に緋縅ひおどしの鎧を着けた教経の背後に、咆哮を上げる竜神の姿を見たという噂が、まことしやかにささやかれた。

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