大日の森(一)
平家は有力な家人の一人である
それを知った朝廷の命を受け、木曽義仲は備中水島(倉敷)に兵を集めはじめた。対する平家は屋島を守るべく、周辺の島々へ軍勢を配置していく。
教経は水島の対岸にある吉備の児島で、父や兄の通盛とともに陣を張った。水島から屋島へ渡るには、まず児島を攻め落とす必要があり、この海域が主戦場となることは目に見えている。
児島の南側にある下津井という海岸沿いの土地に居を構え、戦に備えた。ここは平家に味方する
菊王や小宰相も通盛について児島へ渡り、玉虫も当然のようにそれにならった。下男や下女だけを連れ、玉虫についていたわずかな女房は女院のもとにいる。
新しく建てた小さな屋敷では、通盛と小宰相が寝殿にあたる部分を使い、それを挟んだ対の屋に教経と玉虫がそれぞれ入った。
けれど、人目もないのをいいことに、玉虫は教経の対を気軽に訪ねた。不在のことも多かったが、教経も玉虫を追いかえすことなく相手をしてくれる。いまも数日ぶりに、玉虫は教経のそばで過ごしていた。
「木曽の山猿に、平家に門脇家ありと思い知らせてやる。一門のやつらにもな」
教経は弓矢の手入れをしながら、屋島の方角を見やった。
一門とはいえ、分家ごとに家人を抱え、それぞれで軍勢を組織している。なにかにつけて、本家とともに大将として重用されてきた小松家に対しても、教経は自分たちの存在を示すいい機会だと意気込んでいた。
「今度の戦では、大将はどなたがなさるのですか?」
「兄上と
門脇家を中心とした陣立てに、教経は機嫌よく聞いた。
「わたしには、よくわかりませんが……。重衡どのは、武勇に優れた方だとうかがっています」
「うむ、知盛どのも頭の切れる方だしな。──これは、いけるぞ」
清盛の息子で、教経には従兄にあたるふたりを、彼は高く評価していた。
ここで源氏を撃破すれば、福原はもう目の前にある。都が手の届く範囲に見えたも同然で、否が応でも士気は高まる。
教経が弓弦の張り具合を確認していると、菊王がすべりこんできた。
「姉上! 小宰相さまが、こちらへおいでになります!」
「通盛さまは? お留守なの?」
「屋島から連絡があったみたいで、大島の重衡さまのところへお出ましになりました」
「そういうこと──。教経さま、お通ししていいですか?」
「あ? ああ……。そうだな、そう、おれもちょっと出かけてくる。水島の様子を確認したい。すっかり忘れていた」
教経はそう言うと、弓を放りだして出て行ってしまった。
あまりにもわかりやすく動揺する教経に、玉虫は鼻白んだ。別の対とは言え、想い続ける相手が昼夜そばにいるというのは、なんとも気まずく、そして心乱れることだろう。
(わたしだって、そうだもの。それでもここを離れないのは、つらくても好きな人のそばにいたいと思うから。──そうでしょう、教経さま?)
放置された弓矢を菊王が片づけていると、乳母の御機嫌伺いの挨拶もそこそこに、小宰相が現れた。彼女は通盛が留守にすると、かならず玉虫に会いに来る。
「玉虫さま、お邪魔しますね。──あら、教経さまもいらっしゃると聞いていたのですけど……」
「ええ、ご用があったみたいで、お出かけになりました」
「そうですか。殿も今日はお忙しいみたいで……。わたくし、つい心細くなってしまって。──おかしいわね」
恥ずかしそうに笑う小宰相へ、玉虫は笑顔で応じた。
頼りにする夫の不在で不安になってしまう気持ちくらいは、玉虫にも理解できる。戦はいつはじまってもおかしくない状況で、そうなると帰りを待つことしかできない。
小宰相はいかにも不安げで、背後に控える乳母も悲愴な顔をしていた。
彼女はだれかに頼っていないと落ちつかないのか、そのためなら思いがけない行動力をみせる。あたたかな春を思わせる容姿の奥に、ちらりと夏の太陽を匂わせることがあるのだ。
玉虫の顔を見て安心したのか、庇の間へ移動した小宰相はくつろいだ様子を見せた。
通盛の正室はいま、屋島の行宮で平家一門の女たちと過ごしている。そのため、だれに遠慮することもなく、夫婦で暮らすことのできる児島での生活は、小宰相にとって最良の環境だった。
「わたくし、こちらへ来てよかったと思っています。殿のおそばにいることが、こんなにしあわせだなんて。──玉虫さまも、そうでしょう?」
「わたしは、菊王のお目付け役のようなものですし……」
そうなのだと言わんばかりの小宰相の口ぶりに、玉虫は困惑した。
たしかに、教経のそばにいられることはしあわせだったけれど、それは一方的な気持ちでしかない。とてもではないが、小宰相のように噛みしめるものではなかった。
しかし、小宰相はにっこりと玉虫を見つめて、首をかしげた。
「まあ、菊王丸はもう、お目付け役が必要な年ではないでしょう。そうではなくて、教経さまがいつ玉虫さまを正式にお迎えするのかと、殿も楽しみにしておいでなのですよ。もちろん、わたくしも」
「──そのようなお話が、あるのですか?」
玉虫の鼓動が早くなった。まさか当人の知らないところで、そういう話が進んでいるのだとしたら──?
おそるおそる問い返した玉虫に、小宰相はぼんやりと答えた。
「お話、ということはありませんけど……、そういうことなのだろうと、殿は考えておいでなので、わたくしもそう思っていましたのよ。このような状況では、あまり派手なことはできないでしょうけど、できるかぎりのことをして差しあげたいと」
「あ……」
玉虫は、周囲から誤解を受けているのだと理解して頬を染めた。
通盛の妻である小宰相や、ずっと側仕えをしている菊王とはちがい、女院の女房である玉虫がこの屋敷にいる理由はなかった。
かろうじて、菊王の姉であるという、理由にもならないつながりしかない。戦の場で教経がそばに女を置いているとなれば、そう見られてもしかたなかった。
あらぬ誤解に恥じらう玉虫の様子を、小宰相は肯定だと受けとったらしい。
「わたくしも、教経さまからは何度かお文を頂戴しましたけど、とても正直で誠実そうなお人柄だと感じました。殿の弟君ですもの、きっと良い方なのでしょうね」
ほのぼのと笑う小宰相に対して、玉虫はざわざわと胸がさわいだ。
(ええ、そうよ。教経さまは、とても正直で誠実な方よ。だから、わたしには見向きもなさらないし、これからもそれは変わらないわ)
表情をなくした玉虫を、小宰相が不思議そうに見ている。
「玉虫さま?」
「わたしは……教経さまから、お文を頂いたことはありません……一度も……」
そう言ってしまってから、玉虫はあわてて笑顔をとりつくろった。
「あの、だから教経さまとはなにも……ええ、なにもないのです。子どものころから、勝手に兄のようにお慕いしているだけで、いまも実の兄が太宰府に残っているので、つい教経さまを頼りにしているだけで、ほんとうに……それだけなのですよ」
玉虫は早口で言いつのり、小宰相は少し考える素振りを見せてからうなずいた。
「そう……。それは残念だわ。わたくしときたら、つい先走ってしまって」
「いいえ。お気持ちは、とてもうれしかったです」
ざらついた心のまま、玉虫は小宰相の気が済むまで話し相手を務めた。
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