山ざくら(二)
寒い寒いと言いながら入ってきた清元は、蔀をすべて下ろすようにいいつけ、それから教経を見ると表情を明るくした。
「教経さま、ちょうどよかったです。頼まれていたものがご用意できましたよ」
「ああ、あれか。早かったな」
「それはもう、手をつくしました。少し、お待ちください」
「いや、あとでも──」
いそいそと席を外す清元へ、教経は決まりが悪そうな顔をした。酒を運んできた下女が高燈台へ明りを灯すと、ほわりとその場が明るくなった。
やがて母屋の奥からもどってきた清元は、薄様を数枚、教経へ見せた。なかでも、淡い蘇芳に白を重ねた
(あんなに素敵な薄様を、教経さまがお使いになるの?)
自分が知らない教経の一面を見たようで、玉虫は心が波立った。清元は一枚ずつ確かめながら、教経へ手渡していく。
「上等な薄様ですよ。折り枝は、ご自分でご用意なさってくださいね」
「……清元、いまここで渡すことはないだろう。見ろ、菊王が食いついている」
渋い顔をする教経に、菊王は満面の笑みで聞いた。
「教経さま、恋文でもお書きになるんですか? どなたですか? ぼくがお届けしてもいいですよ?」
「大丈夫だ、恋文ではない。お礼を伝えたいだけだ」
「えー、でもお礼なら、
通盛の文使いをさんざん務めてきた菊王は、自信を持って言い切った。教経はため息をつくと、菊王をひざの上に呼び寄せて頭をぐりぐりと押さえつけた。
「これは、おまえが兄上のお使いをしている──小宰相どのへのお礼に使うんだよ。兄上が熱心になっている方へ、わざわざ恋文を出すほど無神経じゃないぞ」
「でも、その薄様を見たら、だれもお礼だとは思わないですよ?」
押さえつけられながら、なおも反論する菊王に清元がきつく言った。
「菊王、いいかげんに口を慎め」
「……はい。教経さま、申しわけございませんでした」
口をとがらせる菊王を、教経は頭をなでて解放した。
男たちの浮かれた会話を几帳越しに聞いていた玉虫は、教経が小宰相の名前を出すことを一瞬ためらい、そしてはにかんだのを見た。
(あんなの、教経さまじゃないわ。あんな薄様だって、ぜんぜん似合わないんだから!)
玉虫がこちらでいくら不機嫌になろうとも、男たちはいっこうに気づかない。菊王には慎めと言いながら、清元も話を終わらせるつもりはないようだった。
「この時季なら、折り枝は紅梅でしょうか。まだ蕾ですが、庭によい枝があればお持ちください」
「だから、ただのお礼だと言ってるだろう」
「そのように綾な薄様を選ばれるほどのお礼とは、よほどのことですね」
「いや、まあ……さきにお礼を寄越したのは、あちらなんだが──うん、あまりにも丁寧なお礼をいただいたので、お返事を差しあげないのも失礼かと思ってな」
歯切れの悪い教経に、玉虫はますます不機嫌になった。そういうことなら、なおさら陸奥紙でも充分なのに、わざわざ薄様を用意したところに本音が出ている。
しかし、清元がさらに踏みこむと、教経は表情を曇らせた。
「あちらから、お礼ですか」
「ああ、あれだ──玉虫、五節舞では迷惑をかけたな。小宰相どのが、おまえにもお礼を言っていた」
教経は、きょうはじめて玉虫を見た。
按察使局が目論んだとおり、小宰相の耳へ入っただけでなく、教経へお礼まで届いたらしい。このまま話が進んでしまうのではないかと、玉虫の不安がふくらんだ。
「──わたしは、言われたようにしただけですから」
「まったく、母上の思いつきには困ったものだな。余計なことばかりしてくれる。いつまでおれを子ども扱いすれば気が済むのか」
イライラと歯ぎしりをする教経に、清元が瓶子の酒をすすめた。
「玉虫が舞姫の代わりをしたことは存じていますが、ほかにもなにかあったのですか?」
「あったもなにも……。あの人はおれの結婚相手に、小宰相どのを考えておいでだ」
「え! 通盛さまは?」
声をあげた菊王を、清元が目で制する。教経は苦笑いをした。
「大丈夫だ、おれは承知していない。母上の手を借りて、どうこうする気はないからな」
「そっか……。安心しました!」
ほうっと胸をなでおろす菊王にあわせて、玉虫もそっと安堵の息をもらした。しかし、教経は按察使局のやりように不満があるようで、清元の注ぐ酒を次々に飲み干していく。
「いくら藤大納言どのが妹君のご猶子になっているとしても、たったそれだけのつながりで、小宰相どのが礼を言う必要はないんだ。たぶん、母上が藤大納言どのに、なにか言ったのだろうな。──小宰相どのにも、ご迷惑をおかけしてしまった」
「そういうことですか……。とはいえ、お相手は宮中一の美女と名高い小宰相さまですからね、ご結婚のお話はさておくとしても、お近づきになれるのはうれしいのではございませんか?」
「う……まあ、それは……男なら、おれでなくともそう思うだろうな」
教経は
(なによ、あのうれしそうな顔!)
口をへの字に曲げて、玉虫は教経にそんな顔をさせる小宰相をうらやんだ。
年が明けた、養和元年(一一八一)。
新帝の即位にともない、治承から養和へ改元されたこの年は、平家にとって大きな転換期となった。
正月には上皇が崩御し、閏二月には清盛が薨去した。清盛が亡くなった翌月、維盛と
しかし夏から秋にかけて、反乱軍鎮圧のために北陸へ出兵した通盛は、救援要請を受けて出陣した教経の到着を待つことなく、あえなく撤退してしまう。
そのような中で、十一月には中宮徳子に院号宣下があり、以降は建礼門院と称されるようになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます