巻第三 都落ち

春の宵夢(一)

 養和二年(一一八二)。


 二年前の異常気象から、翌年には全国的な飢饉に襲われた。これもまた、方丈記に詳しい「養和の大飢饉」である。


 賀茂河原や羅生門付近はもとより、市中のいたるところに死体があふれ、腐臭は貴族の邸宅内にまでただよったという。


 仁和寺の法印が、亡くなった人の供養のついでに人数を数えたところ、ふた月で四万を超えたという話は飢饉の凄まじさを物語っている。


 しかし、そのことにより源平ともに兵を動かすことができず、一時的な小康状態が保たれた。




 平家にとって、つかの間の小休止のなか、高倉上皇および清盛の一周忌も終わった春になると、通盛みちもり小宰相こざいしょうの結婚がとりざたされた。


 なにかと暗い話題が多かっただけに、この縁組は人びとの関心を引いた。


「なんでも、小宰相どのが乗った車へ、文使いの者が文を投げこんだのだとか。その文をうっかり落としてしまったのを、上西門院さまがご覧になったのですって。それで女院さまが、あまり意地を張るのもどうかとおっしゃったそうよ」

「まあ、横着な文使いですこと」

「でも、おかげでこうしてお二人が結ばれたのですから、お手柄とも言えますわね」


 渡殿に設けられた局で休憩しながら、同僚の女房たちの噂話に玉虫は肩身を狭くした。


(菊王ったら、こんなところで噂されるなんて。いくら取り次ぎの方がいなかったからって、ほかの方に頼むとかあったでしょうに……)


 菊王は、どうせ返事がもらえないのだからと、文を投げこんで帰ってきたらしい。


 よくよく聞くと、取り次ぎの女房に会いに行くことが目的になっていたようで、その日は彼女に会うことができず、とにかく文が小宰相に渡ればいいだろうと考えたのだと言っていた。


(よくそんなことで文使いが務まったわね、まったく)


 結果、思いがけない幸運をもたらしたことで、菊王は通盛から「あまり失礼なことをしてはいけないよ」という小言をもらうだけで済んだ。


「小宰相どのは、一度もお返事をなさらなかったそうよ」

「あの方は、言い寄る殿方も多くございましたもの。いちいち相手にしていられなかったのでしょう。うらやましいわねえ」

「それがね、通盛さまだけなんですって。ほかの方には、時候の挨拶くらいはなさっていたとか」

「まあ、どうしてかしら。意固地なこと」

「そうそう、通盛さまがお見初めになったのも、観桜の宴のときに小宰相どのがいつまでも車から降りずにいたのを、女院さまのお声がけでやっと出ていらしたときにご覧になったらしいのよ。もとから頑固な方なのね、きっと」


 止まらない女房たちの話を聞きながら、玉虫は教経のりつねのことが心配になった。


 観桜の宴に現れた零れ桜の天女へ、同時に恋に落ちた兄と弟。その不平等な結末を、教経はどんな思いで受けとめているのだろう。


 しかしその一方で玉虫は、ほっと胸をなでおろす自分も自覚していた。


 今回のことは、ただの恋の話ではない。通盛には、本家から迎えた正室がいるにもかかわらず、一門はふたりの正式な結婚を認めた。


 それはやはり、按察使局あぜちのつぼねが目論んだように、上西門院を通じて法皇との繋がりを強固にしようという思惑があったにちがいない。


 玉虫には知る由もないが、高倉上皇と清盛が亡くなったいま、治天の君として院政を敷く法皇と、本音では帝の新政を継続したい平家のあいだには、溝が深まりつつあった。


(教経さまには申しわけないけど……。もう、どうしようもないわよね)


 玉虫は自分の中のチクチクとした棘に目をつむった。そしてそろそろ休憩を切りあげようと思ったとき、按察使局の不機嫌な声がとんできた。


「あなたたち、いつまでくだらない話をしているの。あちらで女院さまのお相手をなさい」

「はい、すぐに……」


 玉虫たちが立ちあがると同時に、その中のひとりが大げさに頭を下げた。その女房は普段から按察使局とそりが合わず、なにかと反発しているひとりだった。


「按察使局さま、この度は通盛さまのご結婚、おめでとうお悦び申し入れます」

「……ありがとう」


 そのまま、むっつりと黙ってしまった按察使局に、玉虫たちは祝いを述べた女房を恨めしく思った。


 按察使局が小宰相を教経の正室に、と考えていたことは周知の事実で、今回の結婚を快く思っていないことは、だれの目にもあきらかだった。


(火に油だわ。よけいなことをする人ね)


 自分を憐れむ空気を感じとったのか、按察使局はつんとあごを上げて言いはじめた。


「──まあ、なんですわね、あまりに強情な女人では、殿方も気疲れするというもの。いつまでも返事をなさらないというのも、ご自分の価値を吊りあげようとでもお考えになったのでしょう。宮仕えが長くなると、女も小賢しくなりますわね。あなたたちも、よくよくお気をつけなさい」


 いつもよりも早口でまくし立て、ざっざと衣擦れの音も大きく、按察使局はその場から姿を消した。

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