春の宵夢(ニ)

 それから数日後、教経がいつものように玉虫たちの屋敷を訪れた。


 すでに桜の季節は盛りを過ぎて、葉桜が花びらをはらはらと落としている。


 教経は御簾も蔀もあげさせて、春の名残を惜しむように庭をながめた。ときおり玉虫の筝に合わせて琵琶を弾いたかと思えば、力強い声で朗詠し、瓶子を傾けて酒を飲む。


 そのうちに庭は夕闇へ沈み、高燈台の灯りが教経の顔をほんのりと照らした。教経は酔っているのか、何度もおなじ話をくりかえしている。


「いやいや、めでたい。あれだけの美女を射止めたのだから、兄上もなかなかどうしてやるじゃないか。なあ、清元」

「平家にとっても、よいご縁でございましたね」

「まったくだ。今回のことで、袖を濡らした男どもが都にはわんさかいるぞ」

「教経さまも、そのおひとりではございませんか」

「──そりゃあ、一度でも小宰相を目にした男なら、例外なくそうなるだろうな」

「それほどまでの女人でしたか」

「うむ……」


 教経は土器かわらけを口へ運び、言葉をにごした。


 几帳越しに同席していた玉虫は、その目が庭から舞いこんできた桜の花びらを追いかけていることに気づいた。冗談めかして小宰相への恋心を吐露しているけれど、通り一遍の気持ちではなかったことくらい、玉虫にもわかっている。


 教経は清元がすすめるままに酒を重ね、でたらめに琵琶をかき鳴らし、声が嗄れるまで調子よく今様を謡い続けた。そしてしまいには、直垂の胸もとをくつろげて横になってしまった。


 首筋まで朱く染め、ずいぶんと酔っているように見える。


 うつらうつらと目蓋が下がりはじめた教経を、清元は無言で見つめていたが、やがて静かにひざを進めて耳もとへささやいた。


「教経さま、今宵はこのまま泊まっていかれるとよいでしょう。──玉虫、衣をご用意して差しあげなさい」


 玉虫が言われるままに衣をとりにいくと、もどってきたときには教経は薄い畳の上に寝かされていた。蔀もすべて閉じられ、燈台の灯芯も短く切られているのか、室内は薄暗くなっている。


 軽くいびきをかいて眠る教経へ衣をかけた清元は、玉虫をふりかえった。


「玉虫、いくつになった」

「……十六です。それが、どうかしましたか」

「そうか、もうそんな年だったか。──あとは、おまえがお世話して差しあげなさい」

「え……兄上?」

「もともと酒には強いお方だ。じきにお目覚めになるだろう。菊王にも、ここへは近づくなと言っておく」

「それは──」


 玉虫には答えず、清元は足音を忍ばせて出ていくと、そっと妻戸を閉じた。


 残された玉虫は、寝返りを打とうとした教経に驚いて几帳へ隠れた。その動作にあわせて、燈台の明かりがジッと音を立てて揺れる。


(どうしてこんなことを──? 兄上は、わたしの気持ちをご存知だったの?)


 玉虫はそう考えて、頭を振った。清元が玉虫の気持ちを知っているかどうかは関係ない。いまはただ、小宰相の結婚で空いた教経の心の穴を、あわよくば妹で埋めることができるかもしれないと思っただけなのだろう。


 万が一、教経が勢いにまかせて玉虫に手をつけてしまっても、教経はきっと玉虫を粗略に扱うことはしない。玉虫は権中納言家の猶子になっているのだから、正室として迎えることになんの不都合もなかった。


 受領の妻がいいところだと言っていた清元も、いまとなっては玉虫にその資格があるのなら、わざわざ地方へ行かせることはないと思いなおしたにちがいない。


(──わたしは、どうしたいの……? こういう形でも、教経さまに受けいれてもらいたいの?)


 するすると煤をくゆらせながら、燭の明かりは頼りなく室内を照らしている。


 ぼんやりとした薄明りのなか、まったく無防備な姿で眠る教経を見ているうちに、ふと玉虫はその肌にふれてみたいと思った。


 はだけた直垂の胸もとに、夏の印南野でしたように鼻先を押しつけたい。投げだされた太い腕にすがりついて、ほのかに甘い荷葉の香りにおぼれたい。


 そうして教経の思うままになり、薄桃色に肌を染める自分を想像した。


(わたしは、わたしは──)


 耳もとでうるさいほどに鼓動が鳴り響き、玉虫が吐息を押し殺していると、教経がつぶやくのが聞こえた。


「……さ、ゆ。清元、白湯をくれ」


 玉虫は息をひそめたまま教経のそばに寄り、提子ひさげの白湯を注いで差しだした。


 しかめっ面で起きあがった教経は、目を閉じたまま土器を受けとろうとして、指先に感じた柔らかい肌の感触に驚いたように手を引いた。


 顔をあげて目をひらき、そして玉虫の姿を見ると、眉を寄せた。


「──玉虫だけか。清元は?」

「兄は……もう、休んでいます」

「……」


 ひったくるようにして白湯を飲むと、教経はため息をついた。そして奥歯をかみしめるように顎を動かし、乱暴に土器を置くと玉虫を見すえた。


 まっすぐに、強く睨みつけるような視線を向けられて、玉虫は後ろめたさを感じて思わず目をそらしてしまった。


(教経さま、怒ってる……?)


 玉虫はしくしくとお腹が痛むのを感じた。この場から逃げたくてたまらない。


 教経も兄の思惑に気づいて、あきれているのだと思った。心の隙につけこみ、平家一門に連なろうとするあさましい兄妹だと、気分を悪くしたのではないだろうか。


 しかし、ためらいがちに片手を浮かせた教経は、そのまま玉虫の衣の裾へ手をかけようとした。とたん、玉虫はいよいよ耳が破れるのではないかと思うほど、どくどくと胸が鳴った。


(……やっぱり、いやよ。こんなのは、いや!)


 玉虫が身体を硬くしたまま目をきつく閉じると、教経はしばらくその姿勢で止まってしまい、やがて手を下ろして舌打ちをした。


「下がれ。いますぐだ」

「あ、兄を──兄を呼んでまいります」

「必要ない、勝手に帰る。とにかく、玉虫はおれの前から消えろ」

「……はい」


 恥ずかしさと、消えろと言われた悲しさで、玉虫はどうやって自分の部屋へもどったのかも覚えていなかった。清元から言われていたのか、妻戸のむこうに控えていた女房がひとり、ついてきていた。


 なにも言わず、玉虫の寝支度を手伝っていた女房は、小袖と袴になった玉虫を見て小さな声をあげた。


「あ──玉虫さま、おめでとうお悦び申し入れます」

「なに? どうしたの?」

「初花でございます。お召し物を変えましょう」


 体内からこぼれ出た血で汚れた袴に、玉虫はおかしな笑いがこみあげてきた。


 たったいま、教経から女として拒否されたばかりだというのに、この身体は女になったのだと訴えている。なんという皮肉か。


「玉虫さま、お痛みはありますか」

「少し……ううん、とても痛いわ。なんなの、この痛み」

「大丈夫でございますよ。薬湯をお持ちしますね」


 下腹の痛みはますます重くなり、立っていることも厭わしくなってきた。母親が不在のいま、慣れた手つきで手当てをしてくれる女房の存在が頼もしく思えてくる。


 玉虫に月の障りがきたことは、この女房が時忠に報せるのだろう。そうなれば、時忠は本格的に結婚の話を持ってくるかもしれない。


 けれど、もうそれでもいいと、玉虫は思った。


(葉桜みたいに、自分の気持ちに中途半端にしがみつくのはいや)


 萌え出づる若葉へ、いつまでもすがりつく桜の花びらが、玉虫には未練がましく、ひどくみっともないものに思えた。


 出された薬湯を口にした玉虫は、後を引くその苦味に顔をしかめた。身体が温まるごとに痛みは引いていったが、その夜は結局、ほとんど眠ることができなかった。

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