春の宵夢(三)
翌日、玉虫は自分の対の母屋で几帳に囲まれたまま、ほとんど動かずに過ごした。少しでも動くと、また着物を汚してしまいそうで怖い。それに、昨夜のこともあり、兄と顔を合わせるのも気まずかった。
薄暗い母屋でなにをする気にもなれず、ただ脇息にもたれかかったままぼんやりと時間をやりすごしていると、御簾のむこうに菊王がやってきた。このごろは玉虫よりも背が高くなり、丸かった顔が面長になってきている。
先年の墨俣川合戦や、北陸追討で通盛に随身したこともあって、幼かった印象はまったく消え、ときおり無愛想になることもあった。それでも、やはり根は変わらず、気のいい弟のままだった。
「姉上、具合はどう? 平気?」
「ありがとう。平気じゃないけど、大丈夫よ」
「そう、よかった……」
菊王はそれだけ言うと、口をつぐんだ。目をぱちぱちとさせ、大きな瞳をうろうろと動かしている。
「なにか、聞きたいことでもあるの?」
「うん……いや、どうしよう?」
「どうしようじゃないわよ。はっきり言いなさい」
不愉快な痛みにイライラしていた玉虫は、自分の強い口調に驚いた。菊王も目をぱちくりとさせている。玉虫が「ごめんなさい」と謝ると、口ごもりながら聞いた。
「昨日の夜なんだけど……教経さまと、その……なんていうか……」
「ああ、そのこと──。なにもないわ。お白湯を差しあげただけよ」
「そうなの?」
「そうよ?」
御簾越しに玉虫の気配を探り、そこに嘘がないことを確認した菊王は、落胆したように大きくため息をついた。
「──なあんだ。姉上が教経さまと結婚すれば、ぼくは義理の兄弟になれたのに。通盛さまだって、きっとお喜びになったのになあ」
「なにを言ってるのよ。教経さまは、わたしのことなんて相手になさらないわ」
玉虫は、教経が「消えろ」と言ったときの、怒ったような顔を思いかえして気が滅入った。
あのとき、ほんの一瞬だったけれど、教経はやるせない感情を、目の前にいる玉虫で晴らすことに傾いていた気がする。それなのに、玉虫は身をゆだねるどころか、貝のように硬く閉ざしてしまった。
たとえ玉虫が時忠の猶子になっているとしても、たかだか下級役人の、しかも遠い昔に異国から流れついた一族の娘でしかない。あのような場面で、こちらから否やを言える立場ではなかった。
(あれでは、教経さまのお気持ちをもてあそんだと思われてもしかたないわ。──あさましく、思い上がった兄妹だと思われたかもしれない)
身もだえするような恥ずかしさで、玉虫は脇息にもたれたまま突っ伏した。その感情に呼応するように、下腹が強く痛みだす。
しかし、玉虫の気分とは裏腹に、菊王はのんきに言った。
「そうかなあ? さっきまで教経さまがいらしてたんだけど、兄上にすごくお怒りだったよ?」
「そうでしょうね……」
「すごい剣幕で、姉上の気持ちも考えろって、兄上を責めておいでだった」
「──え?」
玉虫は、ぱっと顔をあげた。
「兄上もけんか腰でさ、姉上のことを考えたからだって言いかえしてたよ」
「教経さまは、なんて?」
思ってもいなかった話の展開に、玉虫は上半身を起こして菊王へ詰め寄った。
「うーん……少し黙ってたけど、結婚を考えるにしても、ほかにもっといい相手がいるだろうって、困っておいでだった。──それに、教経さまご自身の気持ちもあるって、おっしゃっていたかな」
「そう。そんなことを……」
玉虫は、教経と清元が自分のことで言い争ったことに驚いた。
けれど教経は、清元が玉虫の意向を無視して、強引に事を進めようとしただけだと思っているのだろう。
(教経さまは、わたしの気持ちにまったく気づいてらっしゃらないのね)
玉虫は菊王に気づかれないように、扇の陰で小さくため息をもらした。それと同時に、清元が「入るぞ」と言いながら現れた。気まずい表情で菊王の隣にすわると、玉虫にむかって頭を下げる。
「昨日は、申しわけないことをした。お前の気持ちを考えたつもりだったが、おれの独りよがりだった。──教経さまにも、失礼なことをしてしまった」
「兄上……」
やはり清元は玉虫の気持ちに気づいていたのだと、玉虫は気恥ずかしく思った。
「教経さまも、おまえに謝りたいとおっしゃってくださったのだが、物忌みだからとお断りした。わるく思わないでほしい」
玉虫は「わかっています」とうなずいた。月の障りが終わるまでは、人に会うことができないのだし、いまはかえってそれがありがたかった。
「教経さまは、玉虫も同意しているのなら、と思われたそうだ。でも、玉虫が同意していようがいまいが、教経さまご自身に気持ちがないのだから、勢いに流されてはいけないと思いとどまられたらしい」
「……そうですか」
誠実で、残酷な教経の気持ちを聞かされて、玉虫はそれ以外に言葉が出なかった。
もしも玉虫が臆することなく、衣へかけられた手にその手を重ねていれば、ふたりは流れのままに、たまゆらの夢におぼれていただろう。
(そしてきっと、後悔するんだわ……)
昨夜のことが、どうころんでいたとしても、玉虫が教経を好きで、教経が小宰相を好きでいるかぎり、不毛なことにしかならないのだと、玉虫は理解した。
その後、五月になると元号が養和から寿永へと改元された。
日本中が過酷な飢饉に翻弄されるなか、京への食糧供給減のひとつである北陸道を抑える木曽義仲の存在は、次第に無視できないものとなりつつあった。
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