福原炎上(一)

 寿永二年(一一八三)。


 朝廷は北陸の雪解けを待って、維盛これもりを総大将とした追討使を編成し、木曽義仲討伐へ向けて出立させた。しかし、倶利伽羅峠、篠原の合戦で敗戦に敗戦を重ねた追討使は、ほうほうの体で都へ逃げもどってきてしまう。


 やがて、六月には延暦寺の協力をとりつけた木曽義仲がいよいよ京へ迫り、平家は西国での再起を図るため、七月の終わりに京の都から落ちのびることを決めた。


 平家一行は鳥羽から鴨川を下って淀へ渡り、そこで一泊したのちに、福原の旧都へ入った。木曽軍が京を占領したのは、その二日後のことだった。




 うるさいほどの蝉の声を浴びながら、玉虫は数人の女房たちと福原の屋敷で片づけに追われていた。風を通すために御簾を上げていたが、そよとも流れてこない。


 福原の町はいま、みなが右往左往しながら屋敷の後始末をつけようとしていた。


 六波羅や西八条の屋敷という屋敷を焼き払ってきたように、福原にも火を放つことが決まっている。


「都というのは、大軍を養うことができないうえに、防衛するには不向きなんだ」


 都落ちの数日前、兄のもとへやってきた教経はそう言った。


 そのころ平家内部では、このまま都に残って木曽軍を迎え撃つか、それとも西国へ退くかということで意見が割れていた。


 そのなかで教経は、戦略的撤退として都を棄てることを主張していた。


 都にいては、木曽軍だけでなく寺社の僧兵たちの動きにも警戒しなければならないし、外部からの働きかけによって裏切りや分裂も生じやすくなる。いっそのこと、飢えに苦しむ都を明け渡してしまえば、こちらは無傷のまま彼らを枯渇させることも期待できる。


 だからといって、平家の栄華の象徴である屋敷まで、彼らへ与えるつもりはなかった。帝や女院の里内裏にもなった邸宅を、源氏の武者どもに踏み荒らされるのは許せることではない。


「おれたちは、かならず都へもどる。坂東武者どもに、目にもの見せてくれるわ」


 そう言った教経は、東の空を睨みつけた。都を去りゆく不安など微塵も感じさせず、むしろ挑むような覇気を立ち昇らせていた。


 はたして、飢えに苦しみつつ都入りした木曽軍は、すぐさま略奪行為をはじめた。


 それでも満足に食料を得ることができず、義仲を見限って北陸へ帰ってしまう兵や、そもそも義仲を主君と認めておらず、過去に仕えていた都の主人のところへもどる者などもいて、教経の見込み通り、戦わずして木曽軍は人数を減らしていった。


 福原からは太宰府を目指す舟旅になるため、できるだけ荷物は減らさなければいけない。持っていくものと置いていくものを選ぶことに玉虫が悩んでいると、ばたばたと大きな足音を立てながら菊王が走ってきた。


「姉上、大変! 小宰相さまがご挨拶にいらしてる!」

「え……、どうして?」

「知らないよ。もうここへ来るよ。早く片づけて!」

「わかったから、菊王はあちらへ行ってなさい。のぞき見なんてしないでよね!」

「はいはい、約束はできないけどね」

「菊王!」


 舌を出しながら肩をすくめて逃げる菊王をにらみつけて、玉虫はぐいぐいと荷物を端へ追いやった。女房たちも、噂の小宰相が来ると聞いて、そわそわしている。


(こんなときに、なんのご用かしら。通盛さまのお屋敷だって、お忙しいはずなのに)


 心のうちで愚痴をこぼしながらも、御簾を下ろし、几帳を立てかけ、かろうじて迎えるかたちをととのえた。


 ややあって、初老の女房がひとり現れて簀子縁で口上を述べると、その背後から小宰相が姿を見せた。夏の盛りだというのに、その場はうららかな春を思わせるような、心地よい空気へと変わっていく。


 玉虫はすぐさま庇の間へ招きいれ、ふたりは初めて顔をあわせた。


 小宰相は玉虫へ向かって上品に首をかしげ、鈴を振ったように軽やかな声で、おっとりと話しかけてきた。気のせいか、うるさかった蝉たちの声までもがまろやかに変化する。


「玉虫さま、このたびは、お互いに大変なことになりましたね」

「ええ、ほんとうに……。小宰相さまは上西門院さまともお別れになったのですから、さぞ心細いことでしょう」

「お心遣い、ありがとうございます。──でも、わたくしには、殿がおりますから」


 恥ずかしそうにほほえむ小宰相に、玉虫の胸がちくりと騒いだ。


 つらい旅になるからと、妻や子どもを都へ置いてきた者は少なくない。建礼門院に仕える女房たちも、平家にゆかりのない者は大半が暇乞いをした。いま、玉虫のもとにいる女房たちも、明日にはほとんどが都へもどることになっている。


 小宰相は通盛の妻であること以外に、平家にはなんのつながりもない。上西門院の女房として都に残るものだと、みなが思っていた。それなのに、彼女は女院のもとを去り、乳母とふたりで通盛についてきたのだった。


「ほんとうに、仲が睦まじくいらっしゃるのですね」

「そんなこと……。わたくしのほうが、より一層、殿をお慕いしているだけです」


 あまりにも真っすぐに、軽やかな笑顔で通盛への気持ちを口にする小宰相が、玉虫には無神経に思えて苛立ってきた。


(教経さまのお気持ちも、わたしの気持ちも、この人は知らないんだわ)


 小宰相に罪はないことだとわかっていても、これからの旅の不安も重なって、玉虫は感情のまま口をすべらせた。


「でしたら、通盛さまのお屋敷へいらしたほうがいいのではないですか? あちらも、いまはお忙しいでしょうし」

「……ええ、そうですね」


 小宰相は乳母をちらりとふりかえり、薄く笑ってため息をついた。


「あちらには、北の方さまがおいでなので……」

「あ──、心ないことを申しあげてしまいました」


 数年越しの恋を実らせた通盛たちの仲睦まじさは、都でも評判だった。けれど、通盛には本家から迎えた正室がいて、平家一門に囲まれたこの旅では、血縁のない小宰相の立場は弱かった。


 迂闊な発言を悔む玉虫に、小宰相は小さく首を振った。


「いいえ、お気になさらないで。こちらこそ、お忙しいところにお邪魔してしまったようで、申しわけございませんでした」


 ふたりで頭を下げながら、目があうと小宰相はにっこりと笑った。


(まあ、なんて可愛らしいこと)


 小宰相は玉虫よりもずっと年上で、教経と変わらない年ごろだと聞いたことがある。それなのに、彼女はなんとも可愛らしく、つい手を差しのべたくなるような、可憐ないとけなさを感じさせた。

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