山ざくら(一)

  山ざくら霞のまよりほのかにも

       見てし人こそ恋しかりけれ


──美しく咲いた山のさくらを霞のたなびいた間からながめるように、ほのかにあの日お見うけしたあなたが恋しいことであるよ(古今集・恋一・四七九・紀貫之)




 京の都に初雪が舞った日。


 屋敷からほど近い東市ひがしのいちが、閉門を知らせる鐘を三つ鳴らす夕暮れ時、清元の留守中に教経が訪ねてきた。下男から、簀子縁で雪を見ていると聞いて、玉虫と菊王は驚かせてやろうと母屋からそっと息をひそめて近づいた。


 教経は立ったまま空を見あげて、舞い散る雪をながめている。白い息を長く細く吐いたかと思うと、小さな声でなにかをつぶやいた。しかしその声は、重く湿った灰色の空に吸いこまれていく。


 玉虫たちが顔をあわせて首をかしげたとき、ふたたび、教経がつぶやいた。


「山ざくら、霞のまより──」


 最後まで聞く前に、玉虫の胸が跳ねあがった。しかし、なにも気づかない菊王が、笑いながら庇の間を飛びだしていった。


「教経さま、山ざくらだなんて、いまは冬ですよ? そんなに春が恋しいのですか?」


 驚いた顔を見せた教経は、すぐに破顔した。


「ははは、そうだったな。やっぱりおれに、風流は似あわないな」

「ええ? 風流のつもりだったんですか?」

「ああ、雪が落ちてくるのを見ていたら、観桜の宴を思いだしたんだよ。それで、ついガラにもないことしてみたくなった。おかしいだろ」


 ふたりが笑いあいながら入ってくるのを見て、玉虫は几帳の陰に身を置いた。


(ちがうわ。教経さまは、小宰相さまを思いだしていたのよ。だって、あれは恋の歌。──やっぱり教経さまは、小宰相さまのことがお好きなんだわ)


 玉虫は、熱っぽい目で粉雪を追いかける教経に胸を痛めた。


 巻きあげられた御簾と、上下とも開け放った蔀が庭を四角く切りとり、そこから見える庭の光景は薄墨で描いた絵巻のように美しい。


(小宰相さまを拝見したときも、おなじ目をしてらしたのね……。いやよ、あんな目でほかの人を見ないで。恋歌なんて、口ずさまないで──!)


 玉虫がいることも知っているはずなのに、几帳のこちらには目もくれず、簀子縁に落ちてくる雪を愛おしそうに見つめる教経を、玉虫は恨めしく思った。いまも頭の中では、あの恋歌をくりかえしているにちがいない。


 奥歯を噛みしめた玉虫は、胸のつかえを吐きだすように菊王へ聞いた。


「ねえ、菊王。最近は、通盛さまの文使いはしているの? 京へもどってきたから、ずいぶんと楽になったでしょう」

「え? ああ、うん。でも、小宰相さまって、一度もお返事をくださらないんだよね。いつでも待ちぼうけだもん」


 匂わせるだけでよかったのに、菊王が小宰相の名前を出してくれたことに、玉虫は心のうちで手を打った。


「あら、通盛さまのお相手って、小宰相さまだったのね」

「言ってなかったっけ? 法勝寺の宴でお見初めになってから、ずっと文をお届けしてるんだ。いつも散々待たされてさ、結局、見かねたほかの人がお返事を代筆してくれるんだけど、通盛さまはそれでも大変なお喜びようでさ。──って話、やっぱりしたよね?」

「そうだったかしら。聞き流してたのかも、ごめんね」


 簀子縁へ目を向けたままの教経の表情が、すんと冷えていくのが見てわかった。罪悪感と自己嫌悪で、玉虫の心も冷えていく。


(……いまのわたし、きっとひどい顔をしてる)


 泣きそうな気持で、玉虫は几帳のむこう側にすわる教経を見つめた。


 あまりもの寒さに、菊王が火桶をすすめながら「蔀を下ろしますか?」と聞けば、教経は「雪が見たいからそのままでいい」と断る。「せめて御簾だけでも」と言っても、やはり首を縦に振らない。


 いっそのこと、吹雪いてしまえばいいのに、と玉虫は思った。そうすれば、蔀を下ろすこともできるし、教経から雪をとりあげることができる。


 けれど、教経はしばらく無言で庭をながめていたかと思うと、ふいに腰をあげた。


「──さて、今日は帰るとするか。清元も遅くなるようだし」

「ええっ、もうお帰りですか?」

「おまえたちでは、酒の相手はさせられないからな」


 もっともらしい理由を言っているが、いつものような明るさがない。


(わたしのせいかも……。教経さま、気分を害されたんだわ)


 陰になった教経の横顔に、玉虫は自分の軽はずみな言動を後悔した。


 小宰相のようなおとなの女人なら、きっと感情のままに口をすべらせることなどないのだろうと思うと、いっそう気落ちする。


 玉虫が肩を落としてうなだれていると、清元がもどってきた気配がした。すぐさま菊王が教経を引き止め、下女を呼んで酒の用意を言いつける。玉虫も仕方なく、その場に残った。

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