印南野の姫鬼(二)
徒歩の従者を連れて、玉虫と教経は左手に海を見ながら西へ向かって大路(山陽道)を駆けた。大昔に国家事業として整備された道も、今は水路での移動が専らになり、ずいぶんと寂れている。
青々と生い茂る松原と、白い砂浜が美しい須磨ノ浦を過ぎると、玉虫たちは鉢伏山の断崖を見あげながら、海岸沿いの狭い道を進んだ。
ほんのわずかな平地に、貧しい漁村が密集している。
(源氏物語に出てくる須磨や明石って、ほんとうに淋しいところなのね)
連なる山々には谷筋が通り、馬で降りることができないほどの急斜面がこちらへむかっている。視線を海へ転じると、おだやかに白く波打つ海面と、その先にゆったりと横たわる淡路島が見えた。
「教経さま、どこまで行くおつもりですか?」
「
「──印南野って……野は嵯峨野、さらなり。ですか?」
「ん? ああ、枕草子だな。そう、それだ」
枕詞などでも耳にする印南野は、帝が狩りを楽しむための|禁野(禁猟区)でもある。枕草子では、嵯峨野に次ぐ素晴らしい原野であると言われた。
明石の川を越えてしばらく行くと、道はゆるやかな上り勾配になり、教経が大路を外れて北上するのを追いかけた。進むほどに田畑がなくなり、潮の匂いも感じなくなったころに、夏草が勢いよくのびる原野へついた。
今年は雨が少なく、八月に入ってようやく二ヵ月ぶりの降雨をみた。それでもこの地には、立ちこめる草いきれと、海原のように青く続く草原が広がっている。はるか遠くに稜線が連なり、海もわずかに水平線が光って見えるだけだった。
山に囲まれた京や、海が迫る福原ともちがう、雄大で壮大な風景がそこにあった。
「どうだ、広いだろう。ここへ遷都することも考えていたらしいんだけどな」
「そうなんですか?」
「ああ。福原とちがって、ここなら土地に困ることはない。京よりも温暖で、福原のように山風や海風にさらされることもない」
「それならどうして、福原に決まったのですか?」
「ここは高台になっていて、水に乏しいんだよ。だから、このあたりは池がたくさん造られた。あの大きな池は、天智帝の御世の造営らしいぞ」
教経が指さす先では、カイツブリが水面に羽根を休め、キリリキリリと鳴いていた。
「ええと……」
「五百年ほど前だな」
「そんなに古くから──!」
玉虫は胸の高さまでのびる青草をかきわけ、背のびをして遠くに光る海を見た。夏の太陽を反射した波がきらきらと輝き、暑さで輪郭が溶けたような淡路島がぼんやりと浮いているのが見える。
教経が腰刀で草を刈りはじめると、夏の匂いがいっそう濃くなった。
「喉が渇いただろう。休憩しよう」
従者たちもいっしょに刈りとった草を敷きつめ、そこへ腰を落ちつけて持ってきた瓜を分けあった。教経たちは旨そうにかぶりついたが、玉虫は手にした瓜を困ったように見つめた。いくら玉虫でも、大口をあけて食いつくわけにはいかない。
「おっと、わるかった。小さくしてやろう」
教経が小さく切り分けてくれたものを、玉虫はありがたく口にした。
喉の渇きと小腹が満たされると、教経は草の上にごろりと寝ころがった。じりじりと肌を焦がす強い日差しは、噴き出す汗をすぐさま乾かしていく。食べ終わった瓜の皮へ、羽虫やアリが残った水分を求めて集まっていた。
やがて、ぬるい風が頬をなでるように流れると、教経が言った。
「──ここで、西国の武者が鬼に遇ったという言い伝えがあるらしい」
「どんなお話ですか?」
教経の顔を見おろしながら、玉虫は聞いた。
「うん、西国の武者が京へ上る道すがら、このあたりで鬼に遇うんだ。その鬼には娘がいて、まだ人を食べたことがないので、おまえを食わせろと言ってくる。そこで武者は、姫鬼と力比べをして、自分が負けたら食わせてやると言ったらしい。でもまあ、鬼といってもまだ娘だからな、武者には勝てないわけだ」
教経は寝そべったまま、腕押しや、すね押しの真似をしてみせた。
「すると、鬼の仲間もやってきて、首引きをすることになる。──よし、玉虫が姫鬼になれ。おまえたちは鬼の仲間だ」
起きあがった教経は、周囲を見張っていた従者を呼び寄せて首引きの用意をはじめた。
「ええっ? いまから、首引きをするんですか? ここで?」
「おう、せっかく印南野へ来たんだ。伝説を再現してみよう」
すっかり乗り気になった教経は、馬の轡から差し縄を外して、輪っかにした。それから玉虫と向かいあってすわり、玉虫の背後に従者たちが並んだ。輪にした縄を、教経といちばん後ろの従者の首に引っかけ、玉虫たちは両肩にかかった縄をしっかりとつかんだ。
「ころんだほうが負けだからな。本気で引っぱれよ? 手加減したら、帰りは全力で馬を走らせるぞ」
徒歩でついてきた従者たちは、ひぃっと悲鳴を上げた。
「ほら、さっさと引け。玉虫も、しっかり踏んばれよ」
そう言われたところで、玉虫が縄を引いたくらいでは教経はびくともしない。背後の従者たちがおそるおそる引きはじめても、あぐらをかく教経は涼しい顔をしている。
やがて熱の入った男たちは、鼻の穴をふくらませて上半身で引っぱりあった。
(これ、わたしはいなくてもいいんじゃ……)
玉虫が縄に手をかけたまま、きょろきょろと周りを見ていると、教経が鼻から息を吐きだしながら声をかけてきた。
「そうだ、玉虫。姫鬼が武者に勝てなかったのは、姫鬼が武者に一目惚れしたせいなんだと。かわいい鬼だな」
「やだっ!」
悲鳴を上げた玉虫に驚いた従者たちが前につんのめり、そのまま玉虫は勢いよく押しだされてしまった。
後ろへのけぞった教経が玉虫を抱き止める格好になり、ぽかんとしている。玉虫も、どうして自分が驚いたのかわからず、やはりぽかんとしていた。
「──っと、大丈夫か。急に大きな声を出すから、何事かと思ったぞ」
「大丈夫、です……申しわけありません……」
教経の胸もとに鼻先を押しつけたまま、玉虫は動けなくなった。いつもより教経の声が近くに聞こえて、胸が銅鑼を打ち鳴らすように激しく踊っていた。
(動かなきゃ、早く立ちあがらないと。でも……いま、顔をあげたら、教経さまとすごく近くで目があう……だめ、それはだめ!)
教経の直垂からは、汗の匂いに混じって、夏の夜明けのようにさわやかな香りが立ち昇っていた。青草の匂いと、汗の匂い、それに甘味を強くした個性的な荷葉の香りに、玉虫は頭の芯がくらくらとした。
「おまえたち、玉虫を起こしてやれ。腰が抜けたのかもしらん」
従者たちは「玉虫さま、失礼します」と言いながら、そっと玉虫を引き起こした。顔を真っ赤にして立っている玉虫へ、教経は苦笑いをした。
「なんだ、負けたことがそんなに悔しいのか。大声を出すからだろう」
「そ……そうです、悔しいんです! 見ないでください!」
玉虫は両手で頬を包みながら、くるりと背中を向けた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう! わたし、教経さまが好き。そうよ、ずっと好きだった。──いつから? ううん、そんなことどうでもいい。わたしは、教経さまのことが好き)
そう自覚したとたん、玉虫は顔を見せていることがたまらなく恥ずかしくなった。
いますぐに帰りたい、帰って几帳の陰に隠れてしまいたい。いったい自分は、どうしてこんなに遠くまで来てしまったのだろうと激しく後悔した。
後ろを向いたまま黙りこんだ玉虫に、教経は縄をほどきながら眉尻を下げた。
「……うちの姫鬼さまは、ご機嫌を悪くしたようだな。ちょうどいい、日が暮れる前に帰るとするか」
帰り道、玉虫はいかにも負けて悔しいのだという体を装った。
そうしないと、話しかけてくる教経へ素っ気ない態度をとってしまうことの言いわけができない。「負けん気の強いやつだな」と笑う教経の横顔が夕日に照らされ、まぶしくてしかたなかった。
(教経さまは、わたしのことを菊王とおなじようにしか思っていない)
それは割っただけの瓜を渡されたことで、悔しいほど理解できた。あのとき教経は、玉虫が曲がりなりにも女性であるということを失念していた。
しかし、それを責めることはできない。素足を見せた水干姿で馬に乗り、弓矢まで使いこなす自分を、だれが女として扱ってくれるだろう。自業自得というやつだ。
(──それでも、教経さまが好き。好きなの!)
玉虫は夕日に染まる海を見ると、きゅっと目を細めた。それから「まぶしいですね」と言って、ぽろりと涙をこぼした。
夏が終わり九月に入ると、伊豆の源頼朝および北陸の木曽義仲、甲斐の源氏が挙兵したとの報せが入った。
これに対して朝廷は、追討使として平維盛ほか二名を総大将として、駿河国へと派兵する。ところが、富士川で甲斐源氏と対陣した追討使は、戦わずして潰走するという醜態をさらした。
これ以降、源頼朝は東国での基盤を固めていくことになる。
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