印南野の姫鬼(一)

 六月、平家は上皇と幼い帝をともない、福原への遷都を強行した。


 しかし、山と海にはさまれた狭隘な福原では、都の造成も思うように進まず、京に残る者も少なくなかった。


 玉虫ははじめて訪れた福原で、はじめて羊にふれた。屋敷の片隅で飼育されていると聞いた教経が見たいと言い、清元が案内するところへ無理についてきたのだ。


 羊は思っていたよりも大きく、そして汚れていた。それになにより、横長の目が怖い。


「もっと可愛い生き物かと思っていたのに」


 柵越しに羊へふれた玉虫は、がっかりしたように言った。いつも手にする羊毛は、ふわふわとして軽いのに、目の前の羊の毛はごわごわしている。


「なんだ、玉虫もはじめて見たのか」

「はい。いつも羊毛だけ届くから、あんな感じでやわらかい生き物だとばかり……」


 手ざわりを確かめるように何度も手をのばす玉虫に、清元が教えてくれた。


「刈りとった毛は、汚れを洗い落としてから、しっかりと櫛で梳くんだよ。絡まったままだと、糸を縒ることができないからな」


 兄の説明を聞いているのかいないのか、玉虫がどこを見ているのかわからない羊の目をのぞきこんでいると、教経が大きさを測るように両腕を広げて清元を見た。


「これ、背中に乗れるんじゃないのか?」

「そうですね、子どもなら──。なんでも、われわれの祖先は、物心がつく前から羊の背に乗って、弓の練習をしたそうですよ」

「ほう、おもしろいな」

「あちらの馬は、日本の馬より体高があるようですから、子どもには羊がちょうどいいんでしょう」

「大陸では、なんでも大きいんだな」


 感心する教経へ、玉虫は思いだしたように言った。


「教経さま、小さいものもあります。いま、お持ちしますね!」


 屋敷へ入った玉虫は、当然のように菊王の水干に着替え、目的のものを手にしてふたりのもとへもどった。清元が渋い顔をするのもかまわず、教経へそれを見せる。


「これです。ご覧になりますか? 日本の弓より、ずっと小さいんです」


 手で握る部分が大きく凹んだ小振りの弓を、教経は興味深げに観察した。


 七尺(二一〇メートル)はある日本のものに比べると、その半分もあるかないかというくらいの大きさだ。教経たちが使う重籐しげとうの弓は、本体へ糸を巻いた上に、さらに装飾を兼ねた籐を巻きつけるが、玉虫の持つそれは、動物の骨や腱を使っていた。


「まったくちがうんだな」


 教経は手にとることを遠慮しているのか、腰を曲げて顔を近づけてくる。ふと、さわやかな薫物たきものの香りがただよってきて、玉虫は意外に思った。


(あれ……いままで気づかなかったけど、こんなに良い香りを使っていらしたんだ。荷葉かな。──ちょっと甘めに仕上げてある? いい香りだわ)


 玉虫が鼻先をひくひくとさせていると、清元が戒めるように無言で首を左右に振った。


「おもしろい形だが、雀小弓みたいだな。これで戦ができるのか?」


 子どもが玩具にして遊ぶ小さな弓を引きあいにして、教経はいぶかるように聞いた。


 玉虫は清元をちらりと見て、兄がなにも言わないのを確認してから、姿勢を正して矢をつがえた。静かに呼吸をして、柑子の樹を囲う丸太状の柵へ狙いを定める。


 驚いている教経や、見守る兄の姿が視界から消え、柵だけがぐわっと近づいてくるように見えた瞬間、続けざまに矢を射かけた。


 風を切る音だけが小気味よく響く。


 すべてが柵へ刺さったことを確認すると、玉虫は深く息を吐いた。


「……え、玉虫は弓もできるのか? しかも、たいした腕前じゃないか」


 目を丸くして手を叩く教経に、めずらしく清元は誇らしげな笑顔を見せた。


「あちらでは、女も馬に乗って弓を使います。日本の矢のように甲冑を射抜くことはできませんが、素早く次の矢を放つことができます」

「ふむ……いいな、これは。馬の上でも扱いやすそうだ」

「そうですね。ただ、あちらのように乾燥している土地ではいいのですが、こちらでは湿気が多すぎて、この弓はすぐにだめになってしまいます」

「ああ、それは残念だ。……それぞれに、最適な場所があるということか」


 柵から矢を抜いてもどってきた玉虫は、教経を見あげた。


「教経さまにも、きっと最適な場所が見つかると思います」

「──そうか。そうだといいがな」


 苦笑する教経の前から、清元が玉虫を引きはがした。


「玉虫、さしでがましいことを言うんじゃない。教経さまは、ひとかどの武者として充分に頼りにされておいでだ。菊王も言っていただろう」

「……はい」

「ははは、気にすることじゃない。おれが退屈しているのは、事実だしな。先日の以仁王の件でも、園城寺攻略に父上たちや本家が出陣するのはいいとして、小松家の維盛これもりどのや資盛すけもりどのが名前を連ねるのに、おれたちは留守番ときた。ああ、つまらん。──ところで菊王は、今日はいないのか?」


 話題を変えようとしてくれたのか、教経は姿の見えない菊王の所在をたずねた。


「はい、通盛さまのおつかいで、京へ行っています」

「京へ──?」


 少し考えこんだ教経へ、玉虫が言った。


「上西門院さまのところへ、文をお届けにあがっているのです。この春から、ずっとです」

「……それは、女院さまへの便りなのか、それとも、あちらの女房と──?」

「どうでしょう。菊王はなにも言いませんけど、女院さまではないと思います」

「そうか。兄上が……」


 小さくうなった教経から、玉虫は目をそらした。本当は、菊王が女院の女房へ恋文を届けていることを知っている。その相手が小宰相だということも。


 でも、言いたくなかった。


(いやだな、わたし……。でも、教経さまが小宰相さまを思いだすのは、ほんの少しでもいやなんだもの)


 それなら、菊王が文使いをしていること自体を言わなければよかったのに、それはできなかった。そこまでの隠しごとはしたくなかったのか、もっとほかに理由があったのかは自分でもわからない。


(もうっ、なんなのよ。……どうしたいの、わたし?)


 唇をとがらせた玉虫は、清元が自分を見ていることに気づいて、叱られるのではないかと縮こまった。


 菊王の行き先は兄も知っていて、だから、玉虫がわざと黙っていることも知っているはずだった。しかし、清元はため息をついただけで、なにも言わなかった。


 奇妙な沈黙が三人のあいだに流れ、そしてその沈黙を破るように、教経が「よし!」と声を張った。


「ちょっと遠駆けでもするか。玉虫、その格好ならちょうどいい、いっしょに来るか?」

「はい! よろこんで!」

「清元、妹を借りるぞ。──いや、この水干姿は……弟みたいなものか」


 弟と言われた玉虫は渋い顔をして、清元は困った顔で笑顔を浮かべた。

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