観桜の宴(三)

 玉虫が西八条の屋敷へもどったのは、夜更け近くだった。おなじころに帰ってきた菊王をつかまえて、玉虫は教経の素っ気ない態度を愚痴混じりに話して聞かせた。


「なんだか、別の人みたいだったわ」

「ああ、それね……。通盛さまも、按察使局さまは苦手だって、おっしゃっていたよ。教経さまも、そうなんじゃないかな」

「そうなの? そっか……うん、わかる気がするわ」


 玉虫はうなずきながら、下女へ湯漬けを頼んでいる菊王を几帳越しにながめた。


 育ち盛りの菊王は、ぐんと背がのびて玉虫と変わらないくらいに大きくなっている。それでもやはり玉虫にとっては、自分のあとを追いかけていた小さな菊王のままだった。


(按察使局さまも、そうなのかもしれないわね……。でも、あの感じでは苦手に思うのもわかるわ)


 先輩としての按察使局は、とても頼りになる人だった。てきぱきと先を読んで、玉虫たちへ的確に指示を出してくれる。


 宮中での仕事なら、それはとても助かるけれど、親と子のあいだでも同様なら、子どもにしてみれば窮屈でたまらないだろう。しかも継母であれば、なおさら遠慮が先に出て無下にもできないのではないだろうか。


(──うん、今日の教経さまは、しかたないわ。わたしのことなんて、かまってられないわよね)


 自分で自分をなぐさめるように言い聞かせた玉虫は、菊王が運ばれてきた湯漬けをがつがつと腹へおさめながら、じっとこちらを見ていることに気づいた。


「なによ。べつに、かまってほしかったわけじゃないわよ?」

「ぼくはなにも聞いてないけど。ふうん……かまってほしかったんだ。だれに?」

「──! だから、ちがうって言ってるでしょ!」

「はいはい、ちがうちがう。それよりさ、小宰相さまって美人だった?」


 玉虫を軽くあしらった菊王は、そうだよねと言わんばかりに聞いてきた。玉虫とよく似た濃い睫毛に縁どられた目には、きらきらとした期待があふれている。


 子どもだと思っていた弟が、そういう興味を持ったことに玉虫は戸惑いながら、ひと言だけ「そうね」と答えた。しかし菊王は無邪気で、なぞなぞの答えを当てた子どものように喜んだ。


「ほら、やっぱり! そうだよねえ……。通盛さまも教経さまも、ぽかんとしててさ。おふたりとも、しばらくは夢を見たあとみたいなお顔だった」

「──え、なに? 小宰相さまをご覧になったの?」


 なぜだか、玉虫の胸がどきんと鳴った。


「うん。車から簀子縁へ降りるところだったみたいで、ほんの少しだけど、お顔を拝見したみたいだよ。ぼくも見たかったなあ。宮中一の美人だって言われてるんでしょう?」

「ええ。ええ、そうよ。……ほんとうに、見惚れるようにきれいな方だったわ」


 山桜が舞い散る庭に降り立った、麗しい零れ桜の天女。その姿を垣間見た男たちの衝撃が、玉虫には手にとるようにわかった。それほどまでに、彼女は美しかった。


(教経さまが、小宰相さまをご覧になった──。そうよね、夢を見たような気持ちになるのもわかるわ。わかるけど……)


 喉もとがふさがるような違和感をおぼえて、玉虫は咳払いをくりかえした。それなのに少しもすっきりせず、身にまとった桜萌黄の唐衣が疎ましく思われた。


「姉上? 具合でも悪いの?」

「ううん、少し疲れただけ。牛車で移動するのって、いっしょに乗ってる人たちに気を遣うから窮屈なのよ。──話につきあってくれて、ありがとう。もう休むわね」

「うん、ぼくも休むよ」


 玉虫はとにかく唐衣を脱ぎ捨てたくて、足ばやに部屋へもどった。見てもらえなかった桜萌黄は、その重さのぶんだけ、玉虫の気分にも影を落としていた。




 観桜の宴からまもなく、新院の厳島御幸があり、四月には新帝の即位礼が行われた。宮中との繋がりを増す平家に対して、五月、法皇の第三皇子である以仁王が平家打倒の令旨を出すという事件が起こる。


 事件自体はすぐさま鎮圧されるが、その令旨は全国の源氏を鼓舞し、時代を変える大いなるきっかけとなったのだった。

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