観桜の宴(二)

 法勝寺は都から二条通りを出て、鴨川を渡った場所にある。白河帝が院政を敷いた場所であり、宮中とのゆかりが深い。


 大きな池の中州には、圧倒的な高さを誇る八角九重塔が建ち、その見事な佇まいは都のどこにいても目に入った。敷地内には山桜が数多く自生していて、それらがいっせいに満開を迎えるころ、女院や中宮が御幸しての観桜の宴が催された。


 けむるように咲く山桜の下で、男たちは池に小舟を浮かべて管弦遊びを楽しみ、女たちは並べた牛車の中からその様子をながめた。車の簾から見せる、女房たちの華やかな出衣が美しさを競いあい、宴に興を添えた。


 それが終わると白河南殿へ移り、宴会が開かれる。酔った男たちが片方の肩だけを脱いでくつろぎはじめると、按察使局は玉虫へ声をかけた。


「玉虫、玉虫。上西門院さまへ御挨拶へ伺います。あなたが先導なさい」


 按察使局の祖母が上西門院の乳母であったことから、昔語りでも、ということらしい。すでに約束は取りつけてあり、玉虫が按察使局の先導ということで口上を述べた。


 やがて複数の衣擦れの音が近づいてきて、女院のお出ましにしては騒々しいといぶかっていると、ひとりの女房をなだめながら通り過ぎていく女たちの姿が見えた。


「だから、わたしたちといっしょに車を降りていればよかったのよ」

「女院さまのお声がけがあるまで意地を張るなんて、あなたらしいわね」


 いやいやをするように、小さく首を振るその女房の玲瓏な横顔に、玉虫は思わず息を呑んだ。


(わあ……なんてきれいな人なの。咲きこぼれた桜みたい──そう、天女が桜の衣をまとって降りてきたようだわ)


 取り囲むように歩く女房たちのあいだから、陶器のようになめらかな白い肌が輝いて見える。ほんのりと上気した頬には色香がただよい、ぽってりと紅をさした唇は、つぼみのように慎ましやかで愛らしい。


 それらをくっきりと引き立てるように、艶やかな濡れ羽色の黒い髪が、ゆったりと優雅に背中を流れていた。


 恥じ入るようにわななく彼女は、いまにも天へ還ってしまいそうに見えて、その繊細な美しさには、玉虫だけでなく按察使局も感心するように見入っていた。


「扇を広げていたのなら、顔をはっきりと見られたわけでもないのでしょう?」

「ほら、小宰相こざいしょうさま、せっかくのお花見なのですから、気持ちを切り替えましょう。女院もご心配なさるわ」


 よろよろと遠ざかる女たちの後ろ姿を見ながら、玉虫は状況を把握した。


(ああ、あの方がお噂の小宰相さまなのね。道理でお美しいはずだわ。こちらへ来るときに、殿方にお顔を見られたのかしら? あんなに怯えてしまって、お気の毒なこと)


 小宰相と言えば宮中一の美女と名高い女房で、玉虫ですらその名前を知っている。噂にたがわぬ美しさを垣間見た幸運な男たちは、さぞや胸を高鳴らせたことだろう。


 それからややあって、女院との対面がかなった按察使局は昔語りもそこそこに、なにかにつけて教経の名を出し続けた。いかに教経が優れた若者かということ、いずれは武門としての平家を盛り立てていく存在になるということを、しつこいほどにくりかえす。


 女院のもとを下がったあとも「すこし遠慮してしまったわ」と、まだ言い足りないような口ぶりで、玉虫は女房たちと目をあわせて肩をすくめた。さすがに、昔語りがただの口実だったことくらいは、玉虫にもわかる。


 西八条の女房たちが、按察使局の話題になると含みのある言い方をしていたのも、なるほどと納得できた。


 玉虫たちが中宮のもとへもどると、そこでも平家を中心とした公達が集まり、酒宴を楽しんでいた。


 男たちの朗詠や歌舞が披露されるなか、按察使局は教経を呼び寄せ、御簾の内へ入れて几帳越しに対面をした。


 普段は六波羅様ろくはらようとも言われる華美な直垂ばかり着ている教経が、今日は品のよい狩衣を身につけている。襟首をはだけて中の単を見せているのが、いかにも若者らしい。


(なんだか……教経さまじゃないみたい)


 玉虫は、その見慣れない姿に、そわそわと落ちつかなくなった。


 按察使局も教経が狩衣を着崩していることに目を留め、わずかに眉をひそめながらも親しげに声をかけた。


「お久しぶりですね、教経どの。元気にしていましたか」

「ええ……はい。──母上も、お元気そうでなによりです」


 あらぬ方向を見ながら答える教経に、玉虫は首をかしげた。按察使局があれやこれやと話しかけるのも、聞いているのかいないのか、ぼんやりとした返事しかしない。


「──だからね、教経どの、近いうちに上西門院さまへ御挨拶にお伺いするといいわ。わたくしが、ちゃんとお話しておきましたからね」

「そうですか。まあ、折をみて……」

「そんな呑気なことで、どうするのです? せっかくわたくしが、祖母の縁を頼って女院さまとの繋がりを得たのですよ。わたくしの気持ちを汲んでいただきたいですね」

「はあ……それは、ありがたく思います」


 ぱらりと扇をひろげて、教経は口もとを隠しながら気のない風で答える。いかにも公達然としたその姿はまるで別人で、玉虫は目をまるくした。


「ええ、そうでしょう。ですからね、明日にでも行っておいでなさい。わたくしの言うようにしておけば、万事うまくいきますよ」

「……」


 黙ったまま、几帳のこちら側をちらとも見ようとしない教経に、玉虫はやきもきしはじめた。せっかく衣装にも気をくばり、教経を見返してやろうと思っていたのに、もしかすると玉虫がいることすら気づいていないかもしれない。


(べつに、教経さまから文がほしかったわけじゃないけど……。少しくらい、わたしを見てくれてもいいじゃない)


 この日、玉虫が数日前から悩みに悩んで選んだ唐衣は、初々しさを感じさせる明るい桜萌黄の襲だった。その若々しい春色の配色が、このぎこちない空気の中では場違いにすら思えてくる。


 しかし、按察使局はいっこうに引くことなく、いま思いだしたとばかりに玉虫へ声をかけた。


「ねえ、玉虫。小宰相どのは、ほんとうに美しかったわね。さすがは、宮中一と言われるだけありますよ。──教経どのも、あのような方をご正室に迎えるといいのではないかしら」


 名前が出たことで、やっと玉虫の存在に気づいた教経が、わずかにこちらを見たような気がした。けれど、すぐに視線を落とすと音を立てて扇を閉じ、明らかに気分を害した表情になった。


「母上、所用を思いだしました。そろそろ、失礼いたします」

「あら、そうなの。通盛どのにも、よろしくお伝えくだ──あ……」


 按察使局の言葉を終わりまで聞くことなく、教経は御簾を上げて出ていってしまった。


「──まあ、どうしたのかしら。宴席が気になってしかたないのかしらね」


 困った子だわ、とぼやく按察使局へ愛想笑いを返しながら、玉虫は最後まで自分をちゃんと見てくれなかった教経の態度に肩を落とした。

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