巻第二 福原遷都

観桜の宴(一)

 治承四年(一一八〇)春。


 帝が譲位して上皇(高倉)となり、中宮徳子の生んだ皇子が践祚した。


 それに合わせて、玉虫は時子の推薦もあり、国母となった徳子のもとへ出仕することになった。しかし、そのままの身分では中宮への目通りができないことから、時子の弟である権中納言時忠の猶子に迎えられた。


 猶子と言っても、上臈として出仕するための形ばかりのことだからと、玉虫は時忠が手配してくれた玉虫付きの女房たちと、これまで通り西八条で過ごしている。


 宮中への出仕もひと月ごとの交代なので、毎日のように八条櫛笥邸くしげていへ通っていたときよりも、時間を持て余すようになった。


 おかげで、物語を読んだり、碁や双六、和歌や筝の練習など、玉虫は女房たちの手で権中納言家の姫らしく仕立て上げられている。それはとりもなおさず、中宮付きの女房として恥ずかしくないように、という時忠の配慮でもあった。


「いやあ、玉虫が上臈とはな。二位殿も思いきったことをしてくれる。よほど玉虫が気に入っていたのだろうな」


 いつものように清元と酒を飲みながら、教経のりつねは玉虫のつたない筝の音にも満足したようで、上機嫌な声で言った。清元は恐縮しきりで頭を下げている。


 女童として勤めた数年間のうちで、玉虫が時子と顔をあわせたことなど、数えるほどしかない。それでも、その可憐な容姿は時子へ忘れがたい印象を与え、妍を競う宮中でこそ有益だと思わせたのだろう。


「中宮さまのもとへ上がるだけでも畏れ多いのに、まさか上臈の女房とは……。もう、いまから玉虫がなにかしでかすのではないかと心配で、先が思いやられます」

「ははは、それは楽しみだな。それに、玉虫はあの器量だ。すぐに話題になるだろう。うるさいほど男どもが寄ってくるぞ」

「いやいや、とんでもない。玉虫には、どこかの受領の妻にでもおさまってくれたら、それで充分です」

「なにをもったいない。時忠どのが腰結役までしてくれたのだから、受領と言わず摂関家でも平家でも、望めば良い結婚ができるだろうに。──いや、時忠どのはそれが狙いなのかもしれないな。あの方のところには姫が少ない」

「はあ……」


 あいまいに返事をする清元は、妹にめぐってきた幸運を受けとめかねていた。六位ふぜいの下級役人の娘が、まさか公卿の養女として迎えてもらえるとは、望外の僥倖だった。


 しかし、それ以上に困惑していたのは、当事者である玉虫だった。


 いまも几帳の陰からふたりの会話を聞きながら、時忠から贈られた豪奢な筝を見てため息をついた。


(あんなに立派な裳着の儀をしていただけるなんて。わたしには不相応だわ)


 いくつもの役職を兼ねていて多忙な時忠は、それでも玉虫のために心をこめて儀式を整えてくれた。それはそれは高価な衣や調度品をそろえ、自ら腰結の役を行い、華々しく玉虫のお披露目をした。


 それ以降、噂を頼りに玉虫のもとへ恋文が届くこともあったが、それらはすべて時忠が対応してくれている。教経の憶測も、あながち根拠のないことではなかった。


「なあ、玉虫。おれの二番目の弟だけどな、おれに似てなかなか腕白なんだよ。でも、裏表もないし、いいやつだぞ。玉虫よりふたつ年下になるが、どうだ」


 冗談めかして弟を薦めてくる教経に、玉虫はぴりっと眉をあげた。


「それじゃあ、まだ十二歳じゃないですか。弟君とはいえ、子どもの相手はお断りです」

「玉虫だって、まだ子どもだろう」

「わたしに結婚を勧めたのは、教経さまです。まだ子どもだと思っておいでなら、そういうことをおっしゃらないでください」


 玉虫のとげとげしい口調に、教経は口をつぐんだ。


「……ふむ、それもそうだな。わるかった」


 自分の矛盾に気づいた教経はすぐに謝ったが、玉虫はまだムカムカしていた。


 ここのところ、ほんの些細なことが気に障り、しかもそれがなかなか治まらない。玉虫を見る周囲の目が急激に変わってしまい、そのことへの戸惑いに、彼女は自分自身を扱いかねていた。


通盛みちもりさまのご正室の姫さまのこと、他人ごとだと思っていたのに)


 年の離れた従叔父と結婚した姫を思いだし、彼女はいま、どういう気持ちで過ごしているのだろうかと思った。教経の言うことが事実なら、いつか時忠の思う相手と結婚させられてしまうかもしれない。


 不安をおぼえる玉虫をよそに、教経と清元は、近々予定されている新院(高倉上皇)の厳島御幸や、帝(安徳)の即位礼について話していたが、咲きはじめた庭の山桜の香りがただよってくると、ふと話題を変えた。


「玉虫は、今度の法勝寺の観桜の宴には同行するのか?」

「──あ、はい。中宮さまから、その日は出仕するように言われています」

「そうか。おれも兄上に誘われて、行くことになった。母上も来い来いとうるさいしな」

按察使局あぜちのつぼねさまですね。いつもお世話になっています」


 中宮のもとへ出仕するようになってから、新参の玉虫は教経の継母である按察使局の指導を受けている。


 按察使局はもともと、法皇の后だった健春門院に仕えていた。健春門院は時子の妹であり、中宮には叔母にあたる。宮中の事情に明るく、平家一門ともゆかりの深い彼女は、玉虫の指導係として適任だった。


「むこうでおれを見かけても、いつもみたいに飛びだしてくるんじゃないぞ?」

「教経さまこそ、わたしを見まちがえて文など寄越さないように気をつけてくださいね」

「ほう、おれが見まちがえるほどに化けるつもりか。期待しておくよ」

「わたしも、教経さまがどんな薄様を選ぶのか、楽しみにしておきます」


 いつも時忠が見せてくれる自分宛ての恋文は、美しい薄様を牡丹や梅などの季節を感じる枝に結びつけてある。


 あの雅やかで繊細な感性は、普段の教経からは期待できるとは思えない。おなじように、玉虫が御簾の内でおとなしくしていることも、教経からすれば期待できないのだろう。


 なんとなく、教経と言外の会話を交わしたような気がして、玉虫はイライラしていたことも忘れて頬がゆるんだ。

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