按察使局

 年が明け、玉虫が十二歳になったその正月、東南の方角に彗星が現れた。


 これは凶事であると人びとが噂するなか、帝の后である中宮徳子が病に倒れた。食が細くなり、無理に口をつけようとすれば吐いてしまう。熱っぽさがとれず、日がな一日、床に臥せることが多くなった。


 徳子は清盛の娘であり、母は玉虫が仕える「二位殿」と呼ばれる平時子である。一門の行く末を背負った娘の大事に、両親はあわてふためいた。


 いくつもの寺で読経がはじまり、陰陽師たちは夜を徹して祈祷し、医師はさまざまな薬を試した。


 しかし、手を尽くしても徳子はいっこうに回復する気配がなく、娘を案じた時子は目に見えて憔悴していった。その様子に玉虫たちも不安を感じはじめたころ、徳子が懐妊していることがわかった。


「そうじゃないかと思っていたのよ、ねえ」

「あら、崇徳院への御追号があるまでは、院の祟りだとか言っていたわよ、あなた」

「そうそう、都を追いだされた小督おごうさまの生霊とも言っていたわねえ」


 徳子が六波羅へ宿下がりをすると、時子の住む八条櫛笥亭くしげていの女房たちは、出産時に着用する白い着物や、赤ん坊のための産着を縫いはじめた。


 庭のいたるところにヨモギが植えられたこの屋敷は、蓬壺ほうことも呼ばれている。


 早春に芽吹いたヨモギがぐんぐんと成長していくこの季節には、母屋もやにまで香りが立ちこめ、若々しく爽やかな気配であふれる。玉虫が女房たちと過ごす渡殿からも、壷庭の池に青々とした姿を映すヨモギを見ることができた。


 いま、時子は娘のために六波羅へ移っていて、主だった女房もそれに同行している。主人のいない屋敷に残った女房たちは、いきおい軽くなった口で噂話をしながら針仕事に精を出した。


「そういえば、白河殿の女房たちは、維盛これもりさまとお花見に行かれたそうよ」

「まあっ、わたくしも維盛さまにお目にかかりたいわ。うらやましいこと!」

重衡しげひらさまや、資盛すけもりさまもいらしたとか。いいわねえ……わたくしたちも、どなたかお誘いくださらないかしら」


 白河殿とは中宮徳子の妹のことで、そこに仕える女房たちが、平家の内でもとくに覚えめでたい公達と花見に行ったと聞いて、女たちは羨望のため息をついた。


 重衡の華やかな容姿は牡丹にも例えられ、とりわけ維盛は「桜梅の少将」との異名を持ち、光源氏の再来とも言われるほどの美貌を持つ。


 その彼らが同席していたとあっては、なおさらだった。


「それでね、お土産に中宮さまへ見事な桜の枝をお持ちになったらしいのだけど、お礼の歌を作った女房へ、資盛さまから私的なお歌が届いたのですって」

「あら、素敵! ああ、一度は宮中へお勤めしてみたいわねえ」

「ほんとうに。こちらのお屋敷へおいでになると言えば、時忠さまや、宗盛さまばかりですものね。もう少し、きらびやかな方においでいただきたいわね」


 次々に飛びだす名前を、玉虫は忘れないように頭のなかでくりかえした。さすがに時子の弟である時忠や、時子が産んだ宗盛の名前は覚えているが、教経の同世代となると人数も多くて覚えきれない。


 それでも女たちの話題にあがる名前はだいたいが決まっていて、平家であれ藤家であれ、いつでも将来性のある若い公達の噂話でもちきりだった。


(こういうときに、教経さまのお名前が出ることってないのよね……)


 玉虫は針を運ぶ手を止めて、たびたび彼女の屋敷を訪れる教経を思いだした。


 おなじ平家一門とはいえ、教経は分家の次男でしかない。もう十年近く民部権大輔にとどまり、忘れられたかのように昇進せずにいると聞いた。宮中の花形ともいえる近衛府に勤める彼らに比べると、教経の民部省というのはあまりにも地味だった。


「そうそう、宗盛さまと言えば──」


 ひとりの女房が、とっておきの話だと言わんばかりに声をひそめた。


通盛みちもりさまが、宗盛さまの姫をご正室としてお迎えになるそうよ。まだ十かそこらの幼い姫さまなんですって」

「通盛さまって、おいくつだったかしら。二十……六か、七くらい?」

「どちらもお気の毒よねえ。それだけ幼い姫では、真実のご夫婦になるまで何年かかることかしら」


 教経の兄の名前が出てきて、玉虫は耳をそばだてた。


 年の離れた結婚や、まだ月経もない少女の結婚も珍しいものではなく、現に白河殿も九歳で嫁ぎ、十一歳で未亡人となっている。


 けれど、やはり現実的に考えると、女たちも肩をすくめてしまうものらしい。


(……結婚するって、どういう感じなのかしら。兄上や教経さまよりも、もっとお年が上だなんて、なにをお話すればいいのかわからないわね)


 自分の身に置き換えて考えた玉虫は、おなじ年ごろの姫を気の毒に思ってしまった。


「通盛さまのご結婚がお決まりになれば、次は教経さまね」

「それはもう、按察使局あぜちのつぼねさまも本腰を入れてお探しになるでしょうよ」

「かわいい、かわいい、若君ですものね」


 珍しく教経の話になったと思ったのに、女たちはよほど関心がないのか、すぐに教経の継母の話題にうつった。


 按察使局は中宮徳子に仕える上臈の女房で、従妹も同僚として勤めている。教経の母が亡くなった数年後に後妻に入り、すでに難しい年ごろになっていた兄の通盛よりも、まだ十にもなっていなかった弟の教経へ肩入れした。


「通盛さまが本家からご正室をお迎えになるのだから、教経さまにも、それなりの姫でないと納得されないでしょうねえ」

「あら、按察使局さまなら、いくらでも伝手がおありでしょうから、すぐにでも見つけておいでになるわよ」

「そうよねぇ、女院さま方とのご縁には恵まれておいでですものね」


 按察使局の大叔母のひとりは、待賢門院と呼ばれた鳥羽帝の中宮だった人で、崇徳院と法皇を生んだ。いまひとりの大叔母の娘は法皇の皇太后となり、二条帝を生んでいる。


 さらに母方の祖母は待賢門院の女房として仕え、法皇の姉である上西門院の乳母も務めた。その祖母の妹は、法皇の乳母であった。


 つまり、按察使局の血縁女性は宮中と深く関わってきた。その豊富な人脈を頼れば、それなりの家格の姫を望むこともできるかもしれない。


 ところが、女のひとりが器用に針を動かしながら、ため息をついた。


「でも、平家の公達とはいえ、教経さまは、ちょっと、ねえ……」

「あまりにも武者ぶりがすぎますわね。もう少し雅やかで、優しげなお顔であればいいのでしょうけど」

「こう言ってはなんですけど、粗野と言いますか、ねえ?」


 玉虫は、同意するようにうなずく女房たちの顔を、そっと見わたした。


 ついさっきまで、うっとりとした顔でお花見へ行った女房たちのことを話していたというのに、教経と按察使局の話になったとたん、揶揄するような口調に変わり、気どった顔をしている。


(そんな、武者ぶりがすぎるって……。平家は武門なんだから、あたり前じゃない。教経さまが近衛府にお勤めになったほうが、よほど帝をお守りできるわよ)


 われ知らず不機嫌になった玉虫は、むっつりと口をへの字に曲げた。


 昨年、鳥羽の西大路で襲われかけたときの、教経の堂々とした姿を女房たちに見せてやりたいと思った。あのときの教経は、美しく飾り立てた近衛府の武官よりも、よほど勇ましく頼もしかった。


「本家筋ではないとはいえ、将来性もいまひとつですしね」

「ほんとうに──あ、いたっ」


 指に針を刺したらしい女房が、大げさに手を引いた。あらあらと心配してのぞきこむ女たちを横目に、玉虫はほんの少しだけ、留飲を下げた。




 その年の十一月、中宮徳子は六波羅池殿において皇子を出産した。翌十二月には親王宣下、立太子と続き、いよいよ平家は栄華を極めることになる。


 さらに翌年の秋、教経は能登守に任官した。とはいえ、民部省から国司というのは既定路線で、やはり女たちの口から教経の話題が出ることはなかった。

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