巨椋池(三)
鳥羽殿へ入る北楼門が見えてくると、玉虫たちは馬を下りた。都と変わらぬ立派な御所や御堂を見ながら、南楼門から外へ出て、鳥羽ノ津で小舟に乗り換える。
うだるような暑さのなか、川原には子どもらが裸で水遊びをしている姿が見えた。
鴨川を少し下って対岸へ渡り、しばらく歩くうちに、葦原に囲まれた水辺が目に入ってきた。
四つの川が流れこむこの遊水池は、都の貴族たちが宇治への船旅を楽しむ遊興の場であると同時に、豊かな水場は庶民たちにとっては恵みの漁場でもあった。
「わあ、きれい! 蓮の花がいっぱい咲いてる!」
蓮の群生地としても有名な巨椋池の光景に、玉虫は声をあげた。
むこう岸が見えないほどの大きな池に花ひらく蓮の群れは、話に聞く極楽浄土を思わせた。水玉をころがす濃い緑の葉っぱのあいだから、すっと茎をのばして、白や薄紅の花をそこかしこに咲かせている。
「教経さま、ここで泳ぐのですか?」
「いや、舟を出して島へ渡る」
巨椋池には中州のように島がいくつもあり、教経はそこへ舟をつけると言う。漁師から舟を借りて、玉虫たちは水面へ漕ぎだした。
「菊王、舟にはよく慣れておくんだぞ。平家は海戦を制してこそだ」
「はい。でも、海で戦をすることなんて、あるんですか?」
このころ、西国は海路もふくめて、ほぼ平家が掌握しているといってもよかった。その状況で、水軍が必要になるほどの戦が起こるとは思えない。
「西国には、いまだに海賊が多いからな。検非違使庁にも、被害の報告はめずらしくない。ほとんどは、その土地の
そう言いながら、教経は立ちあがって舟を大きく揺らした。突然の出来事に、玉虫たちは悲鳴をあげて舟べりにつかまった。
「教経さま! 危ないです!」
「ははは、海の波はこんなものじゃないぞ」
全員がうんざりとしてうなだれると、ようやく教経は気が済んだのか腰をおろした。
「まわりを見てみろ。心が晴れるようじゃないか」
舟から見渡せば、
しかし、夏の盛りのいまは、照りつける日射しと、それを反射する水面の輝きに目がくらみ、まるで白昼夢を見ているようだった。ゆらりと立ち昇る熱気で遠くの景色がゆがみ、ちゃぷちゃぷと水面が揺れる音を聞いていると、夢ともうつつともわからなくなってくる。
やがて、教経がぽつりと言った。
「──おれは昔、死にかけたことがある」
ひとり言のつもりだったのだろう。みなが注目すると、教経は少し驚いた顔をした。それから、舳先が水面を割っていく様子をしばらく見つめたあと、話しはじめた。
「子どものころに、海でおぼれたことがある。……そのときに、夢を見た。
「なんとお返事したのですか?」
玉虫の問いに、教経は首をかしげてうなった。
「……それが、よく覚えていないんだ。行くと言ったような、いやだと言ったような」
「頼りない話ですね」
「まあ、ずっと昔に見た夢だからな。──でも、海神ノ宮へ行かずに、ここにいるということは、断ったんだろう。気がついたら、浜辺で郎党たちに抱きかかえられていた」
そう言って、教経は胸もとへ手をあてて軽くさすった。
「どうかしましたか?」
「いや、どうもしない。ただ、あのときの夢を思いだすと、いつもこう……胸になにかが引っかかっているような気がするんだ。
飲み下す仕草をくりかえす教経に、菊王が心配するように聞いた。
「教経さま、強飯を丸呑みされたんですか……?」
米を蒸しただけの、いわゆる「おこわ」を丸呑みしたのかと言われて、教経は「失礼なやつだな」と笑った。
「湯漬けじゃあるまいし、おれはそこまで行儀が悪いわけじゃないぞ? 行儀が悪いっていうのは──こういうことを言うんだよ!」
最後まで言い終わる前に、教経は菊王をかかえて池へ飛びこんだ。その勢いで舟は大きく揺れて、派手に水しぶきがあがる。玉虫が悲鳴をあげているあいだに、教経は菊王を引っぱっていちばん近い島へ泳ぎついた。
「玉虫も飛びこんでみるか!」
「無理です! ぜったいに、無理!」
舟べりにしがみついたまま、玉虫はぶるぶると頭を振った。それから教経が烏帽子をとろうとしているのを見て、目を丸くした。
(──え、うそ。とっちゃうの?)
玉虫はあわてて下を向いた。
男性が烏帽子をとることは、女性が不特定多数へ顔を見せるのに等しい。見てはいけない教経の姿を想像するだけで、自分のことのように恥ずかしくなった。
舟がついても顔を上げない玉虫に、教経はおもしろそうに言った。
「なんだ、玉虫は。自分は平気で顔を出すくせに、おれが烏帽子をとるのは見ていられないのか。不作法なのはおなじことだろ、おかしなやつだな」
「そうですけど……」
ちらりと教経を見た玉虫は、すぐに目をそらした。
「ははは、そんなに恥ずかしいか」
教経は楽しそうに笑うと、口調を改めて続けた。
「いつも清元が言っているのは、そういうことだ。自分が平気だからといって、相手に気まずい思いをさせるのは、そろそろやめることだな」
「──あ」
人目を気にしない自分の行いを、やっぱり教経も快く思っていなかったのだと、玉虫はしゅんとうなだれた。その様子に、教経は苦笑する。
「まあ、おれが言っても説得力がないな。いまのは、おれが子どものころに兄上からよく言われた言葉だ。──玉虫を見ていると、いまさら兄上がそう言いたくなった気持ちがわかってな。玉虫は昔のおれとおなじだから、清元も気苦労が多いだろうな」
教経は笑いながらそう言うと、烏帽子を従者に渡して、脱いだ直垂と小袖を木の枝に吊るした。ぼたぼたと水滴が落ちてきて、水たまりをつくる。
従者たちは慣れているのか諦めているのか、黙って直垂の形を整えていた。
(わたしが教経さまと、おなじ?)
教経の言葉に玉虫は、ほわりと気分が高揚した。なんだかうれしいことを言われたような気がする。上半身まであらわにした教経を、玉虫はえいっと見あげた。
「はいっ、おなじです! 教経さまと、わたし」
「ぼくも! ぼくも教経さまとおなじです!」
姉と張りあうように、菊王はいそいそと濡れた水干を脱ぎすてた。もし、烏帽子をかぶる年齢であれば、それも迷わずに外しただろう。
子犬のように教経へ懐く姉弟に、従者たちもまんざらでもない笑顔を見せた。自分たちの主人が好かれて、彼らも悪い気はしない。
「玉虫、これを預かってくれ。失くすと困る」
教経は首から下げていた錦の小袋を手渡した。それから従者たちも誘い、菊王を連れてざぶざぶと池へ入っていく。
筋肉が盛りあがった張りのある背中を、玉虫は笑顔で見送った。
(教経さまといっしょだと、すごく楽しい!)
少しくたびれた錦の袋を、玉虫は両手で大切に包みこんだ。
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