巨椋池(二)

 翌日の朝、菊王が浮かれた様子で出かけていくのを、玉虫は無言で見送った。兄もすぐに所用で出ていき、それを見とどけた玉虫は下人の目を盗んで馬を持ちだした。


 きりりと髪をひとつに束ね、勝手に拝借した菊王の水干を身につけている。


「馬くらい乗れるんだから」


 玉虫は羅生門から真っすぐに通る大路を、慣れた様子で馬を走らせた。


 鳥羽殿(離宮)に向かって真南に整備されたこの道を進めば、鳥羽ノ津まで行ったとしても、一里(約四キロメートル)もない。それまでには、ふたりに合流できるだろう。


 けれど、子どもがひとりで洛外にいては、まったく安全ではないことくらいは、玉虫にもわかっていた。


(早く追いつかないと、危ない人に見つかると困るわ)


 ほとんど人通りのない鳥羽の西大路を、玉虫は砂ぼこりを巻きあげて駆けぬけた。


 目立たないように地味な水干を選んではいたけれど、男装してもなお玉虫の華麗な容姿は人目を引いた。


 幅の広い道の両脇には田畑が続き、ぽつぽつと粗末な民家が建っている。その民家の陰から、馬を操る数人の男たちが飛びだしてきて玉虫の後を追いはじめた。


(やだっ、逃げなきゃ!)


 玉虫は手綱をしっかりと握り、速度を上げた。


 都の外では、古代から続く軍事氏族が武士団を形成して己の土地を護っている。そのなかには武力にものを言わせて、強盗などを働く不善の輩となっている者も少なくない。彼らは玉虫の身なりと容姿を見て、高値で売れると踏んだ。


(早く、もっと早く――!)


 はやる気持ちとは裏腹に、せいぜい馬一頭分の距離しか引き離すことができない。男のひとりが馬の足もとへ矢を放ち、驚いた馬が棒立ちになった。


「あぁっ!」


 玉虫の悲鳴に、男児ではないと気づいた男たちの目の色が変わった。ふり落とされまいと手綱を握る玉虫の襟へ、毛むくじゃらの男の手がのびてくる。


(もう、もうっ! どうしてわたしって、いつもこうなのよ!)


 興奮する馬の向きを変えながら、玉虫は自分を捕まえようとする手をかわした。男たちは円を描いて玉虫を囲み、進路を妨害してくる。


 もうどうにもできないという絶望で、玉虫の目にぶわりと涙が盛りあがったとき、ポーンという高く鳴り響く音がした。そして、男のひとりが「ぎゃっ」と声をあげて、崩れるように落馬した。


「姉上!」


 菊王の甲高い声がして、玉虫はすがる思いで視線をめぐらせた。


 しかし目に入ってきたのは、鬼の形相で強弓こわゆみを引き絞る教経の姿だった。手綱から手を放しているのに、上半身は少しもぶれることはなく、男たちに向けてぴたりと矢を狙いすましている。その背後では、徒歩かちの従者らが厳しい顔で長刀を構えていた。


「次は征矢そやを射るぞ。それとも、太刀で相手をするか?」


 落馬した男のそばには、音が鳴るように細工してある鏑矢かぶらやが落ちていた。殺傷能力はほとんどないが、当たればそれなりに怪我はする。それに反して、教経が言った征矢は確実に射抜くために使われる。


 男が小さくうなって身体を動かすと、教経が鋭く「動くな」と制止した。


 いつものような大きな声ではなく、ずっと低く抑えているのに、震えあがりそうなほどの気迫を感じた。


「玉虫はさがっていろ」


 ささやくように言われて、玉虫はじりじりと後退した。教経の従者が轡をとって、まだ興奮している馬をなだめてくれる。


 従者とおなじく、徒歩でついてきた菊王は、不安そうに姉を見あげていた。


「――さて。このまま、おまえたちが消えてくれるなら、今回だけは見逃してやってもいい。この子たちの前で血を流すのは、本意ではないからな。だが、退くに引けないと言うのなら、この門脇家の教経が相手をしてやろう」


 教経がさらに弓を絞ると、男たちが「あっ」という顔で及び腰になった。その弱気を感じとった馬が、そわそわと足どりを落ちつかなくする。


 返答を催促するように、教経が彼らの足もとへ矢を放ったのを合図に、男たちはわれ先にと逃げだした。地面に這いつくばっていた最後の男の尻を、従者のひとりが長刀の先で軽く突くと、男はカエルのように飛び跳ねて仲間を追いかけた。


「なんだ、つまらん。このあたりは、すっかり腰抜けばかりになったな」

「ああいう輩を見つけるたびに、教経さまが見境なく襲いかかるからでしょう」

「そりゃあ、なにごとも実地が大事だからな。あいつらみたいな荒くれ者を相手にしたほうが、動きが読めないだけに、いい訓練になる」


 玉虫は、従者と話す教経の後ろ姿をぼうっと見ていた。


(教経さまって、すごい人なんだ。あんなに悪そうな人たちが、名前を聞いただけで逃げていくなんて)


 菊王が言っていた「気炎を吐く」という言葉が、よく理解できた気がした。たった一言で、男たちが動きを止めるほどの威圧感。武者とは、これほどまでに頼もしいものなのかと、はじめて思った。


 男たちが見えなくなると、教経は玉虫へ向きなおった。


「きのう、来るなと言ったのに、どうして来たんだ?」

「――え?」


 そんなことを言われた覚えはないと、玉虫は首をかしげた。


「御簾の向こうから、ものすごい顔でこっちを見ていただろう。あの顔を見て、よからぬことをしでかしそうだと思ったんだ。だから、来るなよ、とおれも目で合図した」

「ええっ? そんな……ちゃんと言ってくださらないと、わかりません!」

「言われないとわからないようじゃあ、まだまだだな。――なあ、菊王? おれの兄上は口数の少ない人だからな、こっちから察するしかない」


 菊王は、こくこくとうなずいた。主人の望むところは、言われなくても察するようにということなのだろう。


(わたしは教経さまにお仕えしてるわけじゃないのに、そんなの無理よ)


 そう思ったけれど、主家につながる教経に、玉虫は言い返すことをあきらめた。それに、もともとは自分の行動が招いた災難だった。


「あの……助けていただいて、ほんとうにありがとうございました」

「まったくだ。だいたい、ついてきてどうする。いっしょに巨椋池で泳ぐのか?」

「いいんですか!?」


 ぱっと表情を明るくした玉虫に、教経は真顔で言葉を失った。従者たちも呆気にとられている。菊王がおろおろと全員を見わたし、がばっと頭を下げた。


「すみません! 姉上の言うことは聞き流してください!」


 ややあって教経の口もとが大きくゆるみ、身体を揺らして笑いだした。作業を終えて帰る農夫たちが、その豪快な笑い声に驚いてこちらを見ている。


「玉虫、よぉく考えろよ? おれたちは、下袴一枚になるんだぞ。玉虫はどうする。小袖姿で泳ぐ気か? いくら子どもとはいえ、いただけないなあ」

「あ……」


 下着だけの自分を思い浮かべた玉虫は、真っ赤になってうつむいた。これまでに泳いだことがなく、なにも考えていなかった。ただ、誘われてうれしかっただけだ。


(わたし、いつも赤くなってる。もう、やだ!)


 玉虫の様子に、教経は目尻を下げて「まあ、それはともかく」と言った。


「このまま玉虫を帰すと、清元がうるさい。おれが連れ出したことにするから、いっしょに来るか」


 いつもの「しかたない」と言わんばかりの笑顔で問われ、玉虫はふたたび顔をあげて陽光に瞳を輝かせた。


「はい!」

「くるくると忙しいやつだな。今回だけだぞ」

「はい。――菊王も、兄上によけいなことを言わないでね」


 そう言いながら玉虫が轡を並べて進みはじめると、菊王は「ぼくの水干……。ぼくは徒歩なのに……」などと恨み言をつらつらと言いたてながらついてきた。

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