巨椋池(一)
夏になると、四月の大火や六月に起こった政変を理由に、安元から治承に改元された。
大火からこちら、教経は玉虫の兄を訪ねては、日が暮れる前から酒を飲みかわすようになった。ふたりとも玉虫の七つ上の同年ということで、気が合ったらしい。
張りのある教経の声は、酔うほどにますます大きくなり、玉虫が過ごす対の屋にまで楽しげに今様を歌う声や、兄となにやら論じている声が聞こえてくる。
そうなると、玉虫もそちらが気になってしかたがない。
わんわんと鳴く蝉の鳴き声にまぎれて寝殿へ向かうと、
「玉虫、ばれないとでも思っているのか」
「ええと……ばれてもいいかな、と思っています」
ひょっこりと几帳から顔を出す玉虫に、教経は「しようのないやつだ」というように苦笑いをして見せた。教経は顔の造作がなにもかも大ぶりで、普段は威圧感のある大きな目が笑うとなくなってしまうところが、玉虫はたまらなく好きだった。
「まあまあ、清元。堂上家の姫君というわけでもないんだし、そう目くじらを立てることもないだろう」
「いけません、教経さま。仮にも、二位殿のお屋敷に上がっているのですよ。粗相などしてもらっては困ります。行儀作法は、日ごろからきちんと身につけておくべきです」
「はあ……口うるさい兄を持つと大変だな、玉虫」
気の抜けたため息をつきながら、教経は玉虫へ同情を示した。
味方を得たと感じた玉虫は、几帳からいざり出て御簾のそばへ寄った。しかし、しばらくすると
「あ、教経さま! いらしてたんですね!」
「おう、菊王。今日はもう終わりか」
「はい、
少しの遠慮も見せず、弟の菊王は上機嫌で教経のそばへすわった。それだけでも玉虫にはおもしろくないのに、さらに教経が「お勤めごくろう」と言いながら、弟の頭を労わるようになでるのを見て、すっかり気分を悪くしてしまった。
(わたしだって、もっと教経さまと仲良くしたいのに……!)
どうにかして教経の気を引きたいと思った玉虫は、そっとその場を抜けて、自分の手筥から使い古した木製の独楽に似たものと、ふわふわとした塊を持ちだした。
そして、菊王へ酒をすすめては兄に止められる教経へ、少しだけ巻きあげた御簾の下から手にしたものを見せて声をかけた。
「教経さま、これがなにかわかりますか?」
うっすらと赤く染まった目もとを流して、教経は差し出されたものを手にとった。
「
綿花のような白い塊を鼻に近づけて、教経は顔をしかめた。
「わあ、あたりです。それ、羊の毛です」
「……羊? ああ、法皇さまに献上したとかいう、あの生き物か?」
数年前に、清盛は宋から運んだ羊と
その管理も玉虫の家が請け負っており、先祖たちがしたように、刈りとった羊毛で糸を紡いでいるのだった。
「この、木でできた紡錘車に羊毛を引っかけて、くるくる回すだけ糸ができます」
玉虫が器用に羊毛を縒っていく様子を、教経は興味深げにながめた。
「姉上はとても上手なんです。ぼくは全然できなくて」
「われわれの祖先は、羊やほかの動物を引き連れて、移動しながら生活していたそうですよ。季節によって、住む場所を変えていたとか」
「ほう、それはおもしろそうだな。でも、移動しながらだと、野盗に襲われたりしないのか? 動物もいるなら、逃げるのも大変そうだが」
教経の疑問に、清元は余裕の笑みを見せた。
「それが、戦闘力は相当なものだったみたいです。騎馬武者とおなじく、馬を操りながら弓矢で攻撃するので、近寄ることができなかったそうです」
清元の話を聞いた教経は、眉をあげて興味を示した。
「清元の祖国には、騎馬武者がいたのか。そうか、だからこの国にも馴染めたんだな」
「──それは、どうでしょう。騎馬武者ではなかったと思いますが」
教経の単純な解釈に、清元は苦笑した。それでも祖先に興味を持ってくれたことが、菊王も玉虫もうれしい。
「わたしは祖国に生まれたかったわ。女でも馬に乗って、弓矢を使うのよ。こんなふうに陰に隠れていなくていいんだもの。きっと素晴らしい国だと思うわ」
「それに、とっても、とっても広いって聞きました! ずっと遠くまで見えるそうです」
見たこともない、行ったこともない、遠い遠い先祖の国を誇らしげに語るふたりに、教経は何度もうなずいて耳を傾けた。
「教経さま、子どもの話を本気にしないでください。雨もめったに降らない、岩と砂だらけの国ですよ。作物も育ちにくく、夏の暑さも、冬の寒さも、都の比ではありません」
「清元は、行ったことがあるのか」
「まさか! 天竺よりも遠い西の国です。ここから太宰府へ行くことが、子どものおつかいに思えるほど、長い旅が必要です」
「大陸は、そんなに広いのか……見てみたいものだな」
酒をあおり、教経は濃い緑の生い茂る庭先へ視線を向けた。御簾越しでもわかるほどに目もとを朱く染め、とろりとした目つきで異国の大地に立つ自分の姿を思い描くように遠くを見ている。
「あちらはあちらで、戦が絶えないようですけどね。こちらとは、規模がちがいます」
清元の言葉を聞いて、教経はひざを叩いた。
「そうと聞いたら、ますます見てみたくなった。武門に生まれたからには、戦に出て手柄を立てたいからな。──いまのように、寺社の強訴や海賊討伐くらいしか見せどころのない世では、おれの価値など石ころ同然だ」
つまらなそうに言った教経は、腰をかがめて頭を下げながら巻きあげられた御簾をくぐり、簀子縁へ出た。
すっかり日が暮れた夏の庭は、まだ日中の暑さがじっとりと立ちこめている。藍色の空を見れば、気だるそうにまたたくいちばん星があった。
(教経さま、なんだか窮屈そう。男の人って、自由に生きているのだと思ったけど)
玉虫は意外に思った。玉虫とおなじように感じたのか、菊王がはじけるように立ちあがる。
「そんなこと、ありません。教経さまのように気炎を吐く方がいないと、平家は武門としての誇りを忘れてしまう──と、通盛さまがおっしゃっていました」
「……そうか、兄上がそう言ってくれたか」
教経は肩越しにふりかえり、かすかに笑った。
「よし、それならいよいよ稽古に励まないとな。菊王、明日は宿直か?」
「いいえ、非番です」
「清元、明日は菊王を借りるぞ。
「わあ、ありがとうございます!」
「どうぞ、お連れください」
てきぱきとまとまっていく話に、玉虫はそわそわと身体を揺らした。
(菊王だけ、ずるいわ! わたしだって、いっしょに行きたい!)
玉虫が恨みがましく見つめていると、教経がちらりと視線をくれたような気がした。
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