巻第一 西八条
安元の大火
安元三年(一一七七)四月。
京の都を大火が襲った。方丈記に詳しい「安元の大火」である。
平家の一門郎党が軒を連ねる西八条の一角で、衵姿の少女が庭に降り立ち、赤く染まる夜空を見あげていた。
その日は朝から風が強く、いまも少女の長い髪を巻きあげながら猛然と吹き荒れている。
「きれい……」
乱舞する火の粉がまたたく星に似て、少女は思わずつぶやいた。
その夜、都の東南で出火すると、風はたちまち炎を捕らえて膨れあがり、そのまま街をなめ尽くすように西北へと向かった。
少女の住む方角へは目もくれず、内裏を目指して炎は広がっていく。
その下で家屋が破れ、数百、数千の人びとが煙に巻かれて倒れていることにまで、少女は考えがおよばなかった。
やがて、複数の蹄の音が屋敷の東門へ近づいてきたかと思うと、訪いを入れる若々しい男の声が聞こえてきた。ややあって、少女の兄が応対する気配を感じる。
少女の父は、太宰府の下級役人として母とふたりで現地へ赴任しており、いまは年の離れた兄が屋敷の留守を預かっていた。
少女はすぐに訪問客への興味を失い、ふたたび夜空を見あげた。
いよいよ炎は燃えさかり、黒煙が追いすがるように立ち昇っている。赤と黒が奇妙に交わるその光景を見ているうちに、喉の奥から言葉が這いだしてきた。
「ああ……真っ赤だわ──!」
自分のものとは思えない大人びた声に、少女はどきりとした。たしかに自分の口から出た言葉なのに、遠くにいる別の自分が言っているように聞こえる。
しかし声の正体を詮索するよりも先に、朱に染まる夜空が黒い煙に覆われるさまに言い知れぬ恐怖を感じて、少女はぶるっと肩を震わせた。
そしてその震えが伝わったかのように、背後に茂る橘の木が枝葉を揺らしたかと思うと、
「──
「あっ……」
少女の装いから、屋敷の下仕えではないと判断したのだろう。あとは鎧兜をつけるだけという非常時の装いをした青年は、眉をひそめた。
ようやく、火事のせいで都中が緊迫していることに気づいた少女は、不安を感じて尻込みをした。
ただでさえ、都とはいえ洛内の治安は良いわけではない。ましてや今夜のように混乱の渦中にあっては、敷地内でも安心はできなかった。
「今夜はこの騒ぎに乗じて、不善の輩が押し入ってくるかもしれない。危ないから中にいた方がいい」
太いけれどよく通る声で、青年は少女を屋敷の中へうながした。その声は、今しがた訪ないを入れていた声とおなじに聞こえた。
なんと名乗っていたか、たしか、
「
「ああ、聞こえていたか。どうも、おれは声が大きすぎるらしい。──さあ、早く中へ入れ。清元の妹御でまちがいないな?」
「はい。
数えで十一歳の玉虫は、精いっぱいの澄ました声で答えた。
今をときめく平家の総領である平清盛の正室に女童として仕えている、という玉虫なりの矜持が、彼女の背筋をのばした。
けれど、清盛の甥である教経は、玉虫の背のびも意に介さず、あっさりと言った。
「名は知っている。二位殿が、たいそう器量の良い、舞の上手な娘を召し上げたと聞いたからな。それが
「……はい」
夜目にはわからないと思いながらも、玉虫は光の加減で薄茶にも金にも見えてしまう目を伏せた。
玉虫の祖先は、聖武帝の御世に遠い西方の国から唐国を経て渡ってきたといわれ、今では清盛の推し進める日宋貿易で通辞として平家に仕えている。
宋国には祖国の人びとの居留地があり、貿易船で日本を訪れる者も少なくなかった。そのため、玉虫の祖先は日本人との婚姻をくりかえしながらも、ときおりは祖国の者と交わり、その血を絶やすことなく受け継いできた。
さいわい、
目の前にいる教経も、よく見えないとはいえ不躾に顔をさらしている玉虫よりも、外の喧騒と赤々と燃える夜空へ神経をとがらせている。
「もう、京中では略奪がはじまっているだろう。まさか西八条を襲う輩がいるとも思えないが、この屋敷には唐物の倉もあるからな。おれたちが寝ずの番をしているから、子どもは安心して休んでろ」
「教経さまが、寝ずの番を?」
「そうだ。本家や他のやつらは、宮中や洛内の警護に出ている。おれは衛府務めではないからな。西八条を守ることになった。──ほら、さっさと屋敷へ入れ。なんだ、歩けないなら、おれがおぶってやってもいいぞ」
いつまでも動かない玉虫へ、教経は意地悪く言った。そして、ゆったりと足を踏みだしたとたん、玉虫は驚いた顔をして「けっこうです!」と言い捨てて、身をひるがえし
(おぶるだなんて、赤ん坊じゃないわ!)
思わずとり乱してしまった気まずさと、からかわれたことへの憤りで、玉虫は鼻息を荒くした。そして、すっかり夜露で濡れてしまった袴をとり換えようかと考えたとき、玉虫はあることを思いついた。
教経の言葉に驚いて、逃げるような格好になってしまったけれど、仕返しをしてやりたい。ちょっと驚いてくれたら、それでいい。
玉虫はいそいそと着替えを済ませると、兄と教経がいるであろう寝殿へ向かった。庇の間で教経へ湯漬けを供している兄を見つけ、玉虫は咳払いをしてから声をかけた。
「兄上、寝ずの番にわたしも入れてください」
顔を上げた清元は、男児の着る水干姿で現れた玉虫を見るなり顔をゆがめた。下がるように言おうとしたところで、教経が先に言葉を発した。
「ん、清元には弟が二人いたのか。菊王とおなじ年ごろに見えるが」
菊王というのは玉虫のひとつ下の弟で、教経の兄に侍童として仕えている。今も火事と聞いて、幼いながらも兵衛府に勤める主人のもとへ駆けつけていた。
「いや、教経さま……これは、弟ではなく……」
「なんだ、清元の息子か? それにしては、ずいぶん大きいな。それとも、腹ちがいの弟でも見つかって引きとったのか?」
「それが……その……」
髪をひとつに束ね、小振りの
絞った袴の裾からあらわになった玉虫の白い素足が目に入り、清元は苦々しい顔で視線をそらした。もう、妹であると正直に告白することも恥ずかしい。
しかし教経は、清元の険しい表情を、幼い弟のわがままに対する苛立ちだと解釈したらしい。湯漬けの椀を置いて玉虫へ手招きすると、自分のそばへすわらせた。
「たしかに、子どもの来る場面じゃないが、勇敢で頼もしいじゃないか。この子も、菊王のようにだれかに仕えさせるといいんじゃないか。なかなか見た目も良いし、欲しいという家はいくらでもあるだろう」
「それはいけません!」
清元はあわてて拒否すると、玉虫へ向かって「おまえは下がってろ」と言いつけた。しかし玉虫は、心の中で兄へ舌を出し、教経を見あげた。
「わたしも、菊王のようにお仕えすることができますか?」
「おまえが望むなら、おれが口を利いてやろう。──ああ、いっそのこと、おれのところへ来るか? 身体の線が細すぎるが、これから鍛えるといい」
そう言いながら、教経は玉虫の肩から背中にかけて、その大きな手で肉付きを確かめるように無遠慮になでまわした。
「きゃあっ!」
「玉虫!」
玉虫と清元が同時に叫んだ。
三人はぴたりと固まり、ゆっくりと互いを見あわせる。
やがて居心地が悪そうに身じろぎをした教経は、湯漬けの残りをかきこみ、ふうっと息をつくと笑いだした。
「は……ははっ! 玉虫? 玉虫なのか、さっき、庭にいた?」
顔をのぞきこまれた玉虫は、今度ばかりは耳まで真っ赤になってうつむいた。
(仕返しをしようと思っただけなのに……! もう、わたしったら、いつもこうなんだから)
平謝りをする兄に追いたてられ、玉虫は長刀をつかみとると小走りで逃げ去った。
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