波のたまずさ ─ 女人平家物語 ─

小枝芙苑

序章

序章

 平安時代末期。平家一門において、武勇で名を馳せた能登守教経のとのかみのりつね


 しかし、彼の生涯については不明瞭であり、妻子の有無も確認できない。一ノ谷で討ち死にしたとも、壇ノ浦で入水したとも言われる。


 また、安徳天皇を奉じて祖谷山へ落ちのびた、という伝承もある。


◆ ◇ ◆


 あっと思ったときには、童子の小さな身体はすでに海へ引きずりこまれていた。助けを求める間もなく、ゆっくりと波間へ沈んでいく。


 青磁の色をした童水干の袖が、海の色と溶けあって揺れていた。


(息が、できない――! だれか、われを助けて!)


 叫ぼうとして、がぼっと海水を飲んでしまった。ツンとした苦しさが身体中をかきむしり、恐怖で頭の中が冷たくなった。


 仲秋のさわやかな日射しを受ける海面は、みるみるうちに遠ざかっていく。


(だれか! ……母君、母君!)


 首にかけていた錦の小袋が、ゆるんだひとえのあわせから、するりと海へ流れだした。


 つい先年、亡くなったばかりの母の形見が入ったその小袋をつかもうと、紅葉のような手をのばしたとき、絞り口から淡い光が漏れはじめた。


 光は小さな泡となって、ぷくぷくと水中に広がり、それをエサだと勘ちがいした小魚の群れが集まってきた。


 光の泡を追って、絵筆でざっと刷いたように右へ左へと泳ぐ小魚たち。


 いつのまにか苦しさも忘れて、統制のとれた美しい光景に目を奪われていると、群れを割るようにしてひとりの女人が現れた。


 薄絹の領巾ひれを肩からまとい、髪にはいくつもの翡翠の玉を下げ、六波羅の屋敷に暮らす女たちと同様に、長い袴と小袿を身に着けていた。


 女人は童子を値踏みするようにながめると、目尻を下げた。


――これはこれは、かわゆらしい童よの


 琵琶の音に似た豊かな声が、頭の中で響いた。


 海の中だというのに、その女人は垂髪を水流になびかせることもなく、静かに立っていた。光の泡は女人へまとわりつき、妖しいほどに光り輝く。


――そなた、それをどこで手に入れたのじゃ?


 錦の小袋へ目をやり、女人は手をかざした。とたん、口がひらいて中身が飛びだし、吸いこまれるように女人の手へ収まってしまった。


――これは、わらわの眷属、竜神の鱗の欠片であろう


 鱗の欠片といわれたものは、童子の祖父が隠岐守として現地へ赴任したときに、島の海岸で偶然に見つけたものだ。それを娘である童子の母へ土産として与え、さらに童子が譲りうけ、以降、肌身離さず持ち歩いていた。


「それは、われの母君からいただいたの。返して」


 海の中にいることを忘れて、童子は口をひらいた。


(あれ? 息ができる! それに、水も入ってこない。どうして?)


――そなたはいま、生者と死者のあわいにおるからな


 女人は童子の問いに答えると、好奇心に輝く幼い瞳から鱗の経緯を読みとった。


――ほほう、由良比女ユラヒメに仕える竜神じゃな。彼の地には、由良比女を祀る社があったはずじゃ。なるほどのう……


 童子は自分の置かれた不思議な状況よりも、母の形見へ強く執着した。


「ねえ、はやく返して。それは、母君からいただいた、大事なものなの」


 普段から乳母が手を焼く負けん気の強さをにじませて、童子は愛らしい声で言った。女人は目を細めてほほえみ、童子のいとけない豪気を愛でた。


――そなた、母が恋しくはないのかえ?


 童子が一瞬、頼りない表情をしたことを、女人は見のがさなかった。


――淋しいのう。わらわには、子がおらぬ。どうじゃ、わらわの子にならぬか。そなたの母代わりになってやるゆえ


「われの母に? どうして?」


――そなたをこのまま、黄泉国よもつくにへ送るのは、あまりにも惜しい。海神わだつみノ宮で、ともに暮らそうぞ。竜神の背に乗れば、自由に空を駆けることもできるぞ


「え……われは黄泉国へ行くの?」


 人が死んだら、行くのは極楽浄土ではなかったのかと、童子は困惑した。


 亡くなった母君は極楽浄土にいるのだから、自分が黄泉国へ行ってしまったら、会えなくなるではないか。


 童子は、ぶんぶんとかぶりを振った。


「いやだ、黄泉国へは行きたくない!」


――そうであろう。わらわの子になれば、行かずともよくなるのじゃ


 童子は考えた。この女人の子になれば、いつか死ぬことになっても、黄泉国へ行かなくていい。そのときには極楽浄土へ行って、母君に会えるのだ。


(それに、竜神の背に乗れるって言ってた! きっと楽しそう!)


 女人は童子の顔が明るくなったことを見てとると、もう一度、誘いかけた。


――わらわの子になるかえ?


 童子は、こくりとうなずいた。


――では、さっそく参ろうぞ


「……いますぐなの? いま、行かないといけないの?」


 うろたえる童子に、女人は小さく首をかしげた。


「われはまだ、馬に乗る稽古をしているの。馬に上手に乗れなくても、竜神には乗れるのかな? それに、弓だって太刀だって、いっぱい覚えないと。……だって、われは平家の子、武門の子だから!」


 女人は、いよいよ童子を愛しげに見つめた。


――威勢のよい童じゃ。そうよのう……しばし、人の世に還してやろう。その代わり、わらわが迎えに行ったら、からならず海神ノ宮へ来るのじゃぞ?


 そう言うと、女人は袂から小さな珠をとりだして、童子へ差しだした。


――これは、竜神の頸にある宝珠じゃ。そなたが陸に住まうあいだ、竜神の加護を与えてやろう。それ、このまま、飲み下すがよい


 おそるおそる竜の宝珠を受けとると、童子はそっと口に含んだ。


 ほのかに甘く、手にしたときには硬い塊だったそれは、口の中でぷるんとやわらかくなって、つるりと喉をすべり落ちた。


 すぐに童子は目蓋が重くなり、うつらうつらと眠くなった。


「あなたは、だれなの……?」


 遠くなる意識の中で、童子は新しく母となってくれた人の名を聞いた。


――わらわは、そなたたちから市寸島比売命イチキシマヒメノミコトと呼ばれておるな。海を守る神として、祀られておる


「イチキシマ……厳島神社のこと……?」


――なんでもよい。……愛し子よ、しばしの別れじゃ。今日の約束を違えるでないぞ。また会える日を、楽しみにしておるからの


「……ん、また、いつか……」


 そう答えた童子が目を閉じた瞬間に、いきなり息苦しさがもどってきた。背中を大きく波打たせながら、口から海水を吐きだす。


 童子は胸のあたりを背後から抱えるように強く圧迫されていて、その腕にぶらさがるように手足をだらりとのばしていた。


「若君が息を吹き返されたぞ! ご無事だ!」

「若君、若君!」


 海水を含んだ水干はひどく重くなっていて、身体も頭も、ずいぶんとだるかった。


 一門あげての納経のために厳島を訪れたというのに、こんなに大事を起こしてしまっては、父に叱られるかもしれないと思いながら、童子はふたたび意識を失った。

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