太宰府落ち(一)

 吉備の児島を経て、玉虫たちが太宰府へ入ったのは、八月も終わるころだった。


 ようやく舟を下りることができた喜びもつかの間、田畑が広がるばかりの鄙びた風景を見るにつけ、女たちは都を離れた淋しさをいっそう募らせた。身体にも髪にも潮の匂いがしみついているようで、それもまた、わが身の零落を思わせる。


 内裏の造営もままならず、地元の豪族の屋敷を仮住まいとするなか、玉虫は両親のもとへ身を寄せることにした。そのことを按察使局へ伝えると、拍子抜けするほどにあっさりと「そう」とだけ言って、すぐさま引き返していった。


(──わかりやすい方だわ)


 この都落ちには帝だけでなく、帝の異母弟である第二皇子も同行している。皇子の母は按察使局の従妹にあたり、もとは建礼門院の女房として仕えていた。


 すでに都では、皇子の同母弟が新帝(後鳥羽)として践祚していたが、平家内では第二皇子を東宮とみなしていて、都落ち以来、按察使局はこの幼い兄弟へ熱意を傾けていた。


(いまは教経さまのご結婚どころじゃないものね。それに、東宮は按察使局さまにとって血縁でいらっしゃるし……)


 うるさく言われなかったことに感謝しながらも、玉虫は按察使局の後ろ姿を冷ややかに見送った。


 玉虫が兄の清元とふたりで両親の屋敷を訪れると、数年ぶりに会う子どもたちの成長をいたく喜んでくれた。母は玉虫のために新しい衣装をそろえてくれて、髪を念入りに櫛で梳いてもらうだけでも、ずいぶんと生き返った心地がした。


 兄はむずかしい顔で父と話しこんでいたが、その数日後、教経が顔を見せた。


 両親の手前、玉虫が顔を見せずに屋敷の奥でそわそわしていると、清元が同席するようにと呼びにきた。


「教経さまに、倉の唐物をご覧に入れようと思ってな。おまえも見たいだろう。福原の羊たちも、こっちに連れてきてある」

「いいんですか?」

「ああ。──福原を出てから、教経さまにもお会いしてないだろう?」

「……はい」


 清元の後ろをついて歩きながら、玉虫は恥ずかしさでうつむいた。


 玉虫が教経を思いきれずにいることを、清元はちゃんと知っている。けれど、おなじように教経が小宰相を忘れられずにいることも、兄は知っているはずだった。


(わたしと教経さまを会わせて、どうする気なのかしら。もう、どうにもならないことくらい、兄上だってわかってるくせに)


 久しぶりに見た教経は、都にいたころよりも日に焼けて、より精悍な顔つきになっていた。男たちほどではないにしろ、日に焼けてしまったのは玉虫たちもおなじで、そそくさと几帳の陰に身を隠した。


「玉虫、ひさしぶりだな。舟は大丈夫だったか?」

「おひさしぶりです、教経さま。わたしは馬に乗り慣れているせいか、平気でした。それに、巨椋池おぐらいけで教経さまが舟を揺らしたときよりも、ずっと海は穏やかでした」

「──ああ、そんなこともあったな。まさか、ほんとうに海へ出ることになるとはな」


 教経は、なつかしむように笑った。思いがけず先を見通した自分を楽しむ笑顔からは、都への郷愁や先行きの不安をまったく感じさせない。


「教経さまは、不安に思われることはないのですか?」

「ないな。兄上には、楽観的すぎると小言をもらうこともある」


 率直に聞いた玉虫の問いに、教経は迷うことなく答えた。


「これまでの平家は、朝廷とあまりにも近づきすぎた。武門だというのに、その武力さえも朝廷頼みになっていた節がある」

「はい……」

「わからないか? 東国にしろ西国にしろ、朝廷の威光があってこその平家に従う家人が多くいたということだ。だからこれからは、真実、平家へ忠誠を誓う者と、そうでない者がはっきりしてくる」

「……」


 玉虫が教経の話を理解しようと努めていると、清元が会話を引きとった。


「どうなさるおつもりですか」

「そんなものは簡単だ。平家ここにありと、武力を見せつけてやればいい。いつまでも小松家に任せていては、弱腰の平家だと見かぎられるだけだ」


 教経は、敗戦を重ねる小松家の維盛、資盛すけもりの兄弟へ思うところがあるらしい。


 それに加えて、いつでも出陣の用意があるのに、なかなかその機会に恵まれなかったことにも、不満を募らせているようだった。


 それから教経と清元は、伝え聞く都の状況について話をはじめた。


 源頼朝は平家を追い落とすつもりはなく、東は源氏、西は平家が押さえてはどうかと言っているだとか、木曽軍の都での狼藉には法皇もお怒りだとか、もちろん、自分たちが解官されたことや、新帝の践祚についても伝わっていた。


 そのなかで、玉虫が身を乗りだして食いついた話があった。


「木曽義仲の軍勢には、女武者がいたらしいな」

「義仲の愛人だと聞いております」

「なんでも、強弓を引く大女とか。見てみたいものだな」


 玉虫は、たまらず口をはさんだ。


「その女人は、鎧兜をつけているのですか?」

「そうみたいだな。馬を操って、なかなかの戦上手らしいぞ」

「まあ……。わたしも、お会いしてみたいです」


 玉虫のうっとりとした口ぶりに、教経と清元はいらぬことを話してしまったと、目をあわせて苦笑した。


 清元は話題を変えるために、教経を倉へ案内した。玉虫も日焼けした顔を扇で隠しながら、あとについていく。


 兄が陶磁器や織物など、日宋貿易の輸入品をひとつひとつ教経へ見せながら説明しているあいだも、玉虫の頭の中は女武者のことでいっぱいだった。


(木曽殿の女武者……。恋しい人のそばを離れず、戦に出る女武者。──素敵だわ)


 あの重たそうな鎧兜を、自分も身につけることができるだろうかと想像した。それが無理なら、せめて小具足だけでもつけて、教経の助けになりたいと思った。自分なら、馬に乗ることもできるし、弓を引くこともできる。


 戦がどういうものか、玉虫にはわからなかったけれど、太宰府までの舟旅を耐えたのだから、まだ頑張ることができる気がした。それくらい、玉虫は無知だった。


 玉虫がよからぬことを考えているとは知らず、教経は唐物を手にとりながら大陸の文化について清元へ質問を重ねていた。大陸と一口に言っても、そこには人も文化も多種多様に存在していて、千差万別の生き方がある。


「おもしろい生き方ができそうだな、大陸は」

「──ほんとうに、そう思われますか?」

「ああ、いつか行ってみたいものだな。そのときは、案内を頼むぞ」


 楽しそうに言う教経に、清元は口調を改めて言った。


「教経さま、じつは、数日後に宋へ渡る唐船が出ます。もし……、もし、わずかでも大陸へ興味がおありでしたら、われらと一緒に、あちらへおいでになりませんか」

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