◆書籍発売御礼◆飴の代償(後)
「情報、買っていかない?」
朱亜に誘いかけたとき、珠麗としては、勝率は半々だと思っていた。
普通、ついさっき「無関係だ」と断じた相手から、有益な情報を得られるなどとは思わないだろう。
けれど朱亜は恋する娘。好いた男を知るためなら、手段を選ばない可能性もある。
それに、欲しいのはたった三文なのだ。
三文だったら、「実は左のほうが握力が強い」みたいな情報でも、嬉々として買い取ってくれるかもしれない。
珠麗はそこに賭けた。
というか、賭けるしかないのだ。
これに敗れたら、もう土下座してでも抱きついてでも、三文を奪いに掛かるしかない。
ところが――。
「買うわ。いくらあればいいの?」
朱亜が素早く財嚢を取り出し、収められてた「あるもの」を卓に置いたので、珠麗はぎょっとした。
粗末な卓に投げ出されたのは、きらきらと輝く金子であった。
「はっ!?」
「礼央様のことならなんでも知りたいわ。なんでも買う。足りない? なら言ってちょうだい。いくら必要なの?」
金一両で、珠麗の守料なら三月ぶん近く賄える。
とんでもない額を寄越し、さらに財嚢に指先を突っ込む朱亜を見て、珠麗は度肝を抜かれた。
「あなた……」
ここで、金子を騙し取れるあくどさがあれば、珠麗も生きやすかったのだろう。
けれど、恋に一生懸命な女性を騙すのは、さすがに気が引けた。
罪悪感とともに芽生えるのは、朱亜に対する同情と、奇妙な使命感だ。
こんな純粋な女性が、礼央に入れ込んでいていいはずがない。
彼は結構な遊び人なので、朱亜は目を覚ますべきだ。
気付けば、珠麗は朱亜の手を取り、こう告げていた。
「金子なんて要らないわ。ただし、銀を一匁だけちょうだい。そうしたら、私の知っている礼央のすべてを話してあげる。あなたは現実を知るべきよ」
ただし、この数年で磨かれたふてぶてしさで、ちゃっかり銀子だけは要求してみる。
即座に頷いた朱亜に、珠麗は唇を舐め、切り出した。
「まずね、あいつはとんだ怠け者だわ。辰の刻よりも早く起きているところを、見たことがない。起こす当番に当たってご覧なさい、最悪よ。引っ張ってもつついても、まるで起きやしないんだから」
礼央に対して幻滅させるべく、冒頭から、彼のだらしなさを訴える。
外では冷然とした頭領を演じているようだが、家でのヤツは結構ぐだぐだだ。
働き者の珠麗は、彼のそうした有様をいかがなものかと思っていたので、それを朱亜に告げることで、悪行をチクってやったような高揚感があった。
「あたしの前で眠っているところなんて、見たことがないわ……」
だが、朱亜は沈んだ顔で呟いただけだったので、珠麗は慌てて反論した。
「べつに見て嬉しいものじゃないもの、いいのよ、そんなもの見なくて」
「でも、寝顔よ……? きっと、彼の寝顔は、すごく美しいはず」
「あなた、毒蛇とか、邪鬼が寝ているところを見て嬉しいの? 美しくなんか全然ないわよ。なんていうの、今にも怨念飛ばしそうな凶悪な雰囲気よ。私なんて見るたびに、邪鬼退散の印を切りたくなるわ」
朱亜を慰めたくて、つい話を盛ってしまう。
実際のところ、色男である礼央の寝顔は、実に美麗だ。
だが、珠麗は彼を起こすにあたり、何度も酷い目に遭ったことがあり、つい恨みのほうが勝ってしまった。感情は大いに視覚に影響するのである。
と、またもや壁がみしりと軋んだ音を立てる。
ぼろ長屋はやあねえ、と内心でこぼしながら、珠麗はますます身を乗り出した。
「それにね、やつはかなり根に持つ性格よ。粘着質なの。私は何度嫌味を言われたことか」
「……あたしは礼央様に、過去の思い出を振り返られたことなんてないわ」
「ねちっこく過去の失敗を蒸し返されて、なにが嬉しいのよ! しつこい男なんて最低だわ。いいこと、これは豆知識なんだけど、ああいう粘着質なヤツは、閨でもしつこいと相場が決まってるのよ。花街ではね、下手でねちっこい客は、妓女の中での格付けが最下位になるんだから!」
はっはっはっ! と笑いながらこき下ろしてやったら、なぜだか朱亜は顔を強ばらせた。
こちらに視線さえ合わせず、青ざめて珠麗の後ろの壁を見つめている。
「ね、ねえ」
「ああ、ごめんなさい、ちょっと下品だった?」
「いえ、そうじゃなくて」
「あっ、そうか。閨事情ならあなたの方が真実を知ってるはずよね。私が知ったかぶる筋じゃなかったわ。実際のところ、興味もないし!」
やはり、いくら人をこき下ろすにしても、話を盛りすぎるのはよくないかもしれない。
事実をその通りに伝えたほうが、結局のところ、人の心には届きやすいのだろう。
「とにかく、あいつの性格が悪いっていうのは本当よ。強引だし、俺様だし、意地悪だし。まあ多少面倒見がいいようなときもあるけど、そうすると今度は口うるさいし」
「ね、ねえ」
なぜだろう。
一生懸命身を乗り出せば乗り出すほど、朱亜は顔を引き攣らせて後ずさってゆく。
「だから、礼央は絶対やめておいたほうがいいわ。もっと自分を大切にしてくれる人を選びなさいよ。私なら、もし彼に金の鉱山を贈られたって、ちょっとお断りだわね」
「――へえ」
そのときふと、隙間風というには強すぎる風が、ごうっと音を立てて室内に吹き渡った。
卓にひとつだけ灯していた蝋燭の火が、ふっと掻き消える。
ぎょっとした珠麗は慌てて背後を振り返り、小さく悲鳴を上げる羽目になった。
「そんな風に思われていたとは。悲しいかぎりだなあ?」
なぜだか人一人分の穴が空いた壁の向こうに、月明かりを背負った礼央が佇んでいたのだから。
「り……っ、り……っ!?」
なぜ彼がここにいるのだろう。
というより、なぜ壁に穴が空いているのだろう。
先ほどの軋むような音がそうだったのか。
いやしかし、壁というのはそんな風に壊れるものだったか。
「え……っ、あの、壁……? え……っ?」
狼狽しきりつつ礼央を見つめ、ふと彼の薄い唇が、笑みを湛えていることに気付く。
どこか色気を孕んだ、美しい笑みであったが、夜空を背景に微笑む姿には、なぜだか背筋が粟立つような迫力があった。
「珠珠」
名前を呼ばれるだけで、ぎくりと体が強ばる。
無意識に後ずさったぶん、ゆっくりと礼央が距離を詰めてきた。
(め……めちゃくちゃ怒っている、気がする)
それはそうだろう。
先ほどから珠麗は、礼央のことを「粘着質」だの「下手でしつこい」だのあることないこと吹き込んだうえ、さんざん性格の悪さをこき下ろしていたのだから。
(ど、どこから聞かれてたかしら……っ。いや、どの一言ももれなく致命的な気がする!)
彼の自尊心の高さは知っている。
部下の反抗を許さぬ態度も知っている。
そういえば、ふざけて珠麗の前で豚の鳴き真似をした男のことを、彼は「聞くに堪えない」などという理由で半殺しにしていたっけ。
芸が拙かっただけで半殺しなのだ、明確な意図を持って「聞くに堪えない」悪口を紡ぎまくった自分は、いったいどう処理されてしまうことか。
「あ……っ、あの、あのあのあのっ」
布で隠した珠麗の真っ白な肌に、ぶわりと冷や汗が滲んだ。
まずい。
これは大変まずい。
利息増加どころではない、命の危機だ。
す、と礼央が片手を伸ばしてくる。
珠麗は両手で顔を庇い、半泣きで叫んだ。
「ごめんなさいすみませんごめんなさい、今のは――」
「なんて美しい、珠のような肌だ」
が、首でも絞められるのかと思いきや、礼央はすいと珠麗の頬を撫でてくる。
「……は?」
完全に硬直した珠麗をよそに、彼は妙に手慣れた動きで、するりと彼女の顔を隠していた布を奪い取った。
はら、と黒髪が零れ落ちた瞬間、室の片隅で朱亜がぎょっと息を呑む。
「濡れる黒髪。瞳はまるで、夜空を二つ切り取って、丹精込めて磨いてから嵌め込んだかのよう。この瞳に映る男は幸運だな」
「は……? は……っ?」
この、垂れ流すように賛辞を紡ぐ男は誰だ。
珠麗は衝撃のあまり、彼に顎を掬い取られても、呆然と動けないでいた。
「吸い付くような肌。触れればどんな男も、胸を高鳴らさずにはいられない。ほっそりした体を全部腕の中に隠して、誰も知らない場所に閉じ込めてしまいたいよ」
顔をそっと近付けた礼央が、耳元で囁く。
「誰より愛おしい、俺の珠珠」
「――……っ」
こうした言葉にまったく免疫のなかった珠麗は、一気に耳までを赤く染め上げ、礼央を突き飛ばした。
「なっ、ななっ、なんなの!? なにを急に、そ、そんな、小っ恥ずかしい愛の言葉を――」
「そう」
だが、己を庇うように抱きしめた珠麗の前で、礼央は動じもせずに、薄く微笑む。
「愛の言葉」
「へ?」
「俺はおまえに、愛の言葉を告げたんだが、珠珠?」
意味がわからなくて、ぽかんとした珠麗に、礼央はことさらゆっくりと告げた。
「万が一俺がおまえに愛を告げてくるなんて事態があったら……なんだっけ?」
それを聞いた瞬間、珠麗はざっと血の気を引かせた。
――万が一礼央が私に愛を告げてくるなんて事態があったら、私は裸になって逆立ちで邑を一周してもいいわ。
「あ……っ、あの、そっ、それは……こ、言葉の綾――」
「よし、裸にするのを手伝ってやろう」
涙を浮かべて反論するも、礼央は滑らかに帯に手を突っ込み、緩めようとしてくる。
「ぎゃあああ! やめて! やめてください! ごめんなさい! 申し訳ございません!」
珠麗は全力で抗ってなんとか魔の手を抜け出し、素早くその場に五体投地した。
「私が愚かでした! すみませんでした! あれらの発言はすべて嘘です!」
「嘘? 俺は、嘘をつかれるのは大嫌いなんだが」
礼央は珠麗の前にかがみ込むと、自然な手つきで前髪を掴み、ぐいと顔を持ち上げた。
「てめえの口から出した言葉は、てめえ自身で責任を持たなきゃなあ?」
「ひい……っ」
珠麗の全身がぶるぶると震え出す。
礼央はそれを、ひとしきり愉快そうに眺めてから、やがてこう切り出した。
「とはいえ、心優しき頭領としては、邑の皆に、視覚の暴力を振るうのも忍びない。誰がおまえの裸なんか見たいもんか。なあ、珠珠?」
「そそそ、そうですね! 私も、そう思います!」
珠麗はぶんぶんと、首が取れそうな勢いで頷く。
だが、礼央が続けた言葉に、ぴたりと首の動きを止めた。
「だから――来月から守料は月五十匁、ってことで勘弁してやろう」
「ごじゅ……っ」
今の、倍だ。
(ただでさえ、結構カツカツなのに……っ)
いや。だがそういえば、裏栞制作の仕事はだいぶ軌道に乗ってきた。
店主が珠麗の腕を気に入ってくれて、礼央経由の依頼以外にも仕事を寄越してくれるようになったのだ。
彼は礼央とは違い、実に気のよさそうな青年だ。
彼に縋って、もっと仕事を増やしてもらえば、あるいは。
(すんごい、ギリギリ感……)
半年前、守料が二十五匁に上がったときも、そうだった。
礼央は鬼のように厳しい、けれど辛うじて払える、本当にギリギリのところを攻めてくるのだ。
――いったいどこまで、この男はこちらの実情を把握しているのか。
背筋をぞくりとさせながら顔を上げれば、礼央はふっと目を細めて見返してくる。
「それとも、脱ぐ?」
「払わせてください!」
気付けば、珠麗はそう叫んでいた。
「あれ、礼央兄ー。今月の支払い分も、あと三文足りないみたいだよ」
とそこに、一緒に踏み入ってきていたらしい宇航が、のんびりと声を掛ける。
珠麗は慌てて身を乗り出した。
「ち、違うわ! 今月分はちゃんとあるの!」
情報売買によって、今まさに銀一匁を稼ぎ出したところだ。
「ね!」
珠麗は礼央の前に座り込んだまま、顔だけで朱亜を振り仰いだ。
もし今月分が未達扱いされたら、本当にまずい。
来月からは一層厳しい戦いになるのだから、せめて今月分で利息など発生させないようにしなくては。
「…………っ」
しかしなぜなのか、朱亜は財嚢を開くどころか、顔を引き攣らせて、こちらを見返すだけだった。
それはそうだ。
彼女にとって、目の前の光景は、到底受け入れがたいものだったのだから。
朱亜から見て、礼央というのは、来る者拒まず去る者追わず、を地で行く男である。
こちらからしな垂れかかれば拒絶することはないが、べつに去っても追うことはない。誰にも気を許していないのだ。
だからこそ、敵さえ排除すれば、消去法で恋人の座を確保できるのだと信じていた。
だが。
(寝顔を見せて、しつこいと言われるほど会話を持って、守料で脅してまで傍に縛り付けて……?)
これを執着と呼ばずに、なんと呼ぶのだ。
薄く笑みを刷いた男から漂う、苛立った雰囲気。
これが嫉妬でなくて、なんなのだ――。
「おまえ」
ふと、礼央の黒曜石のような瞳が、朱亜を射貫く。
反射的に背筋を伸ばした彼女に、男はわずかに首を傾げた。
「なぜまだここにいる?」
「…………!」
恥辱よりも反発よりも、恐怖で背筋が粟立つ。
同時に、朱亜は本能的に悟った。
この場に留まっていて、自分のためになることなど、なにひとつ無いと!
「お……お邪魔しました!」
朱亜は、くりぬかれた壁穴から、脱兎のごとく逃げ出した。
「ちょっと!?」
突然駆け去ってしまった希望の綱に、珠麗もまた絶叫する。
だが、立ち上がろうとした彼女の肩を、礼央がすっと、指の数本で押さえつけた。
「おや、どこに行く?」
なぜだろう。
全然力を入れているようには見えないのに、まるで体が起こせない。
「先が思いやられるなぁ、珠珠。たった二十五匁も稼げないなんて」
「ち、違うの……。あの子! あの子が一匁を払う予定だったのよ! ねえ、彼女を追いかけてよ。あなたの恋人なんでしょ? そうしたら二十五匁以上――」
「今月は未達ということで。五十匁にトイチの利息な」
なにがいけなかったのか、言葉を遮って寄越された礼央の宣言に、珠麗は潰れたカエルのような声を上げた。
たった三文足りないだけで、全額に対して利息をかけるとは。
しかも、五十匁が早速適用されているなんて。
「そ、そんな、来月って言ったのに……話が……」
えぐえぐとなりながら反論を試みるが、礼央はふっと目を細めるだけだ。
「へえ。脱ぎたい?」
「なんでもありません」
「いい子だ」
これ以上踏み込んでは、より悲惨な末路もありえる。
珠麗はぐっと言葉を飲み込んだ。
とそこに、礼央が「そうそう」と声を掛ける。
「昼に売っているのを見かけてな。好きだろう? いい子のおまえにはこれをやろう」
手を持ち上げられ、ぽいと投げて寄越されたのは、油紙に包まれたサンザシ飴だった。
珠麗の大好物だ。
だが、好物を前に、彼女の顔は一層引きつった。
この飴のせいで。
たった三文のこの飴のせいで。
珠麗は借金地獄のどん底まで突き落とされたのだ。
(しかも、昼に我慢してれば、人から買ってもらえたっていうのにいい……!)
そろそろ血の涙が出そうである。
「二度と……もう二度と、サンザシ飴なんて買わない……っ」
拳を地に叩きつけ、低く呻いた珠麗に、礼央はご機嫌な猫のように喉を鳴らした。
「それがいいんじゃないか? 飴なら俺が買ってやるし」
飴売りの男相手にやに下がってんじゃねえよ、と付け足された言葉は、幸か不幸か、地に突っ伏す珠麗の耳には届かなかった。
***
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