◆書籍発売御礼◆飴の代償(前)
「ねえ、ちょっと。珠珠とやらはいる?」
扉越しに、鼻にかかった声を掛けられたのは、珠麗が粗末な貧民窟の長屋で、卓に向かって腕を組んでいるときだった。
目の前には、丁寧に積み重ねられた銅銭。
珠麗は、この日までに得た稼ぎを、それはもう真剣に数えていたのである。
(五十六……五十七……うう、何度数えても、あと三文足りない)
銅銭六十文で、銀一
すでに、甕の中に隠してある銀子は二十四。
礼央に課された守料は月に銀二十五匁なので、あと三文――たった銅銭三文を稼げば、今月の支払いはなんとかなる。
(たった三文よ……ほんのはした金。サンザシ飴をひとつ買うくらいの)
普段だったら、なんなく稼げる額だ。
というか、誤差の範疇と言っていいほどだ。
そう、誤差なので、今日の昼、珠麗は売り子の男が勧めるままに、サンザシ飴を買ってしまった。
着ぶくれした豚のような外見の自分なのに、「嬢ちゃん、かわいいねえ!」などといっぱい褒めてもらって、つい調子に乗ってしまったのだ。
それが間違いだった。
三文ははした金だが、今すぐに用意しろと言われると、意外に難しい。
だって、礼央の取り立ては、あと四半刻でやって来てしまうのだから。
窓から注ぐ細い月光に、珠麗はぶるりと身を震わせた。
いや、あと四半刻もせず来てしまうかもしれない。
そのとき、耳を揃えて守料を納められなかったら、珠麗は一巻の終わりだ。
以前、礼央からは、「銭が足りないなら、守料は体で払ってもらってもいい」と言われていた。
間違いなく臓器か血を売られる方向だ。
珠麗はどの内臓とも仲良くしていたかった。
「ちょっと。いるんでしょ?」
(三文……たった三文。ああ、なんで私は飴を買ってしまったの? 今夜を乗り越えてからにすればよかったのに)
「蝋燭の明かりが漏れてるわよ。あたしを待たせる気? さっさと出てきなさいよ」
(二段階納付ってどうかしら。そうよ、明日になれば、裏栞の儲けが手に入る。明日の朝一番に届け出れば、その時差はたった半日……いえ、四刻。四って、四捨五入すれば切り捨てられるんだから、時差は無いも同然じゃない)
だが、その手の理屈が通じる礼央ではないのだ。
足りないのがたった三文であっても、きっと利息は銀二十五匁すべてを対象に発生する。
あの鬼みたいに高い利息。
「出てこいって言ってるでしょ、豚女!」
扉をどんどんと叩かれて、ようやく珠麗ははっと顔を上げた。
切羽詰まりすぎていて、全然外からの声に気付かなかった。
「あっ、どうも、すみません!」
礼央からは何度も「不用心に扉を開けるな」と注意されているのだが、人との交流が絶えない長屋暮らしにすっかり慣れてしまった珠麗は、なかなかその言いつけが守れない。
だって、この貧民窟、特に礼央が融通してくれたこの長屋に住む人々は、皆、荒くれ者だが気立てはよく、なんだかんだと珠麗の世話を焼いてくれるのだから。
今回も、特に深く考えることなく扉を開けた珠麗だったが、そこに、見知らぬ女性が立っているのを見て、目を瞬かせた。
この寒村には似合わぬ豪奢な衣をまとい、複雑に結われた髪には、上等な簪を刺している。
朱櫻楼の女たちには到底足下にも及ばないが、この寒村ではかなり華やかと言えるだろう顔立ちの――おそらくは、商家の娘だろうか。
「ええと、どちらさま……?」
「あんたなんかに名乗る名はないけど、特別に教えてあげる。あたしは
太夢館といえば、玄岸州で一、二を誇る商家だ。
それなりに後ろ暗い稼業にも手を染めている商家のため、礼央もときどき出入りしているし、珠麗も贋作を納入したことがある。
いいとこのお嬢さんが、お供も連れずになぜこんな場所に……と珠麗は怪訝に思ったが、
「聞いたわよ。あなた、豚みたいに肥えた醜い女の分際で、礼央様にまとわりついているらしいじゃない」
「ああ!」
朱亜の発言を聞いて、疑問を一気に氷解させた。
「今年三人目の
「は?」
朱亜は胡乱げな眼差しを寄越したが、珠麗はちっとも動じない。
なにしろ、「この流れ」には、もうすっかり慣れているのだから。
「あれでしょ? 『私の恋人である礼央様に豚女がまとわりついているせいで、ちっとも逢い引きができないじゃないの、許せない!』ってやつでしょう? 最近は数も減ってきてたんだけどなあ。今回はお取引先か……見境いなしね」
絶句している朱亜を、立ち話もなんなので長屋に引き入れてやる。
もともとおしゃべり好きな珠麗は、ごく自然に椅子を勧め、いたわりを込めて相手を見つめた。
「あなたはどうしたの? 逢い引きの約束を突然反故にされた? 急に態度が変わった? それとも閨で、その気になってくれなかった? どれもつらいわよね。でも言っとくけど、それと私、全然関係ないから」
最初にきっぱりと断りを入れておく。
朱亜は完全に珠麗の発言に呑まれ、目を白黒させながら告げた。
「な……。なにを……。だって、彼、一時はあれだけ愛し合ったのに、突然姿を見せなくなって、ようやく文が一通届いたと思ったら、『今は白豚を可愛がるのに忙しいから』って」
「あいつ、私を
珠麗は顔を顰めたが、自身のむくむくに着ぶくれた格好を見下ろして、それもやむなしと割り切った。
白豚めいた装いは、防寒にはうってつけなのだ。
「それであたし、お父様の行商でこの近くまで来たから、噂を聞いてまわったのだけど、たしかに礼央様は、最近ずっと、あなたを傍に置いているって……」
「で、腹を立てて、長屋までやって来たってことね。その根性に感服するわ。でも落ち着いて考えてほしいの。あなたが言うところの豚女が、まさかあなたの恋人の愛人になれるなんて思う?」
初めてこうした「突撃」を受けた際には、それはもう驚き、慌てふためいたものだったが、最近では説得も慣れたものだ。
肝心なのは、こちらから切り出し、会話の主導権を奪うこと。
堂々と質問すると、朱亜は顎を引き、それからおずおずと答えた。
「それは……思いがたいけど……世の中には特殊な趣味の男性もいるし」
「さらっと人のこと特殊枠に入れてくれるじゃない」
ぼそっと呟き、珠麗は鼻を鳴らした。
だが同時に、この朱亜という娘は大層素直な性格なのだな、とも思う。
蝋燭の明かりのもと改めて見れば、ぱっちりとした目がたしかに愛らしいし、全身から漂う快活な雰囲気は清々しい。
どことなく、後宮の妹分・紅香に雰囲気が似ていているだろうか。
珠麗はなんとなく気持ちが和むのを感じ、朱亜が卓で組んでいた手を、ぽんと叩いた。
「とにかくさ。あなたは私に忠告だか恫喝だかしにきたのだろうけど、私と礼央は全然、そんな関係じゃないのよ。全然。彼と私の間に関係があるとすれば、それは『無関係』くらいのものよ」
我ながらうまいことを言ったのではないか、と誇らしげに胸を張ると、不意に、ぼろ屋の壁がミシリと軋んだ。
古い家屋だし、やはり改修が必要なのかもしれない。
朱亜も怯えたように壁を見やり、見知らぬ土地のぼろ長屋にいることを急に不安に思ったのか、縋るように珠麗を見つめてきた。
「そう……そうなの?」
「もちろんよ。この真実に輝く瞳を見てよ。私、嘘はつかないんだから。万が一礼央が私に愛を告げてくるなんて事態があったら、私は裸になって逆立ちで邑を一周してもいいわ」
再び、壁が軋んだ。
今日は風が強いから、そのせいだろうか。
きっぱりと宣言されると、朱亜は途端に「そう……」と肩を落とす。
勢い込んでやって来たものの、自分が勘違いをしていたと知り、どうしてよいかわからなくなってしまったようだ。
「じゃあ……あたし、帰るわね。邪魔をしたわね――」
「まあまあ、待ちなさいよ」
立ち上がった朱亜を、珠麗は呼び止めた。
貧民窟で、年の近い女子と話せる機会はあまりない。
珠麗はすっかり朱亜が気に入ってしまったのだ。
それに――。
「とはいえ、私が礼央のすぐ近くで働いていることは事実だわ。私は、礼央の好みとか、嫌いなものにも詳しいの。どう? この情報、買っていかない?」
ちら、と、朱亜の贅沢な装いに一瞥を向ける。
珠麗は今すぐに、三文を稼ぐ必要があったのだ。
「あれえ。先客がいるや」
礼央の少し先を歩いていた宇航は、珠麗の暮らすぼろ長屋を見て、首を傾げた。
彼は、礼央ほどではないとはいえ、夜目が利く。
扉の前に立ち、室内に向かって何事か叫んでいる娘の姿を、余すことなくとらえることができた。
「この時間には礼央兄が取り立てに訪ねるから、ほかの住人は邪魔しないようにって、ちゃんと言い聞かせておいたのに。もう」
あどけない話し方とは裏腹に、宇航には少々、神経質なところがある。
統制が取れていないことにむっとしたらしい部下をちらりと眺め、それから礼央は、長屋に向かって目を細めた。
「……銀と翡翠の簪。太夢館の娘だな」
「え?」
「数回、
たったそれだけの言葉で、宇航は「あー」と経緯を察する。
面倒そうな様子を隠しもせずに、幼い顔を顰めた。
「もっと手練れた女を選べばいいのに。あの子、多少遊んではいそうだけど、こうも惚れ込まれちゃたまんないでしょ、礼央兄?」
「目元が、少し似ていた」
「最低」
誰に、とも言わない礼央の発言を、宇航はばっさりと切り捨てた。
「まあいいや。お立ち退き願おう。ああいう子、カッとなると刃物でも振り回しかねないし」
宇航が思うに、礼央はこの長屋の安全に、本人が思っている以上に気を使っている。
長屋の住人は、彼が「無害」とみなした人間だけ。
そんな彼らでさえ、少し珠珠と「交流」しすぎただけで、容赦なくほかの場所へと追い払われる。
礼央はまったく無意識のようだったが、その執着はかなりのもので、補佐役として事態の処理に追われる宇航としては、少しでも厄介ごとの芽は摘み取っておきたかった。
が。
「いや、いい」
意外にも、即座に駆け出そうとした宇航のことを、礼央が制止する。
「あの女には人を害する度胸はないし、もう、珠珠自身が引き入れてしまった」
なんと、彼の掌中の珠は、まったく女を警戒することなく、さっさと長屋に相手を引き入れてしまったのだ。
「警戒心がないにも程がある……」
「それに」
呆れた宇航をよそに、礼央がふと、薄い唇を綻ばせる。
「嫉妬した女に責め立てられた時、あいつがどんな反応を見せるのか、興味がある」
「うわ、性格が悪いにも程がある」
その発言に、宇航は顔を引き攣らせたが、次いで、「それはそうかも」と思い直した。
言われてみれば、これまで「突撃」をかました女たちは、巧妙に礼央の目をかいくぐってきていたので、その現場に二人が居合わせたことなどない。
結果だけを見る限り、珠麗は特に害されることもなければ、腹を立てることもなく、淡々と女たちを追い返してきたようだった。
だが、これだけ女たちに嫉妬されておいて――つまり、「礼央の特別」だとさんざん周囲から突き付けられて、彼女はまるで心を動かさないというのだろうか。
「見当違いの誤解」にうんざりするか、それとも、多少は礼央の執着に気付いて、動揺したりもするのか。あるいは、「私は礼央の恋人なんかじゃない」と主張するたびに、自身の言葉に傷ついたりするのか。
(珠珠の性格なら圧倒的に「うんざり」だろうけど)
宇航は、男前の主をちらりと一瞥し、首を捻った。
(でも、礼央兄が落とせなかった女なんていないし)
これまで、どれだけ虚勢を張っていた女だって、礼央が口説けば、必ず心を開いた。
いいや、危うい魅力を放つ彼は、たいていの場合、じっと見つめさえすれば、それで事足りていた。
珠珠と暮らしはじめて、一年と少し。
あの豚女――のふりをした絶世の美女が、礼央に対してどんな気持ちでいるのかということは、宇航にも多少、気になった。
そうして二人は気配を殺し、そっと壁越しに耳を澄ませてみたのだが――。
「でも言っとくけど、それと私、全然関係ないから」
壁越しにでもあっけらかんとした言葉に、黙り込む羽目になった。
宇航はにわかに冷や汗を浮かべ、隣の主を見やる。
礼央は特に表情を動かす様子はなく、無言で壁に背を預けていた。
「あなたが言うところの豚女が、まさかあなたの恋人の愛人になれるなんて思う?」
自虐的な言い回しで紡がれる言葉には、しかし、悲壮感はかけらもない。
「私なんて礼央にふさわしくない」というよりも、「
「あの……礼央兄……」
「私と礼央は全然、そんな関係じゃないのよ。全然。彼と私の間に関係があるとすれば、それは『無関係』くらいのものよ」
宇航がなにか気の利いた言葉を掛けようとするより早く、珠珠が朗らかに次の弾薬を放り込む。
礼央はやはり無表情だったが、彼がなにげなく壁に置いていた手に、ふと力が籠もり、壁がミシリと鳴った。
(げっ)
まずい。
「万が一礼央が私に愛を告げてくるなんて事態があったら、私は裸になって逆立ちで邑を一周してもいいわ」
もうやめてやれよ。
宇航は顔を引き攣らせ、こわごわと壁を見つめた。
礼央は拳を握っているわけではないし、壁土を剥がしているわけでもない。
ただぐっと強く手を押し付けている、それだけで、泥壁の奥にある木材が、悲鳴を上げているのだ。
「とはいえ、私が礼央のすぐ近くで働いていることは事実だわ。私は、礼央の好みとか、嫌いなものにも詳しいの。どう? この情報、買っていかない?」
とそのとき、少し会話の風向きが変わる。
ここで珠珠が、礼央のことを褒め称えれば――いや、そこまではしなくても、意外に細やかな観察眼を発揮すれば、「よく俺のことを見ているのだな」と礼央も少し機嫌を直すかもしれない。
宇航はそこに一縷の望みを懸けたのだったが、まさかここから、事態が悪化の一途をたどるとは思いもしなかった。
***
明日20時投稿の後編に続きます。
「小説家になろう」さんでは、こちらとはまた違うSSを投稿しておりますので、
よければご覧くださいませ。こちらも前後編、2日連続投稿です。
◆「白豚妃再来伝~後宮も二度目なら~」
書籍刊行御礼SS「飯炊く彼女」
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