◆別END◆脱出成功!礼央と末永くお幸せにEND
清明節の日のことである。
明け方まではしとしとと春雨が降っていたが、昼にはそれも止み、まさに明るく清らかな春風が、天華国の隅々にまで吹き渡った。
人々は扉を柳の枝で飾り、めったに家の外に出られぬ女たちも、この日ばかりは針仕事の手を休め、先祖の供養や山遊びへと出かける。
それは、籠の鳥と言われる妃嬪たちですら例外でなく、日頃ぴたりと閉じた後宮の門も今日だけは開き、豪奢な籠に乗った妃嬪たちが、女官を伴って外出する姿が時折見かけられた。
厳重に守られた妃嬪はともかく、例年であれば、女官の中にはふらりと姿を消してしまう者も多い。
そのため、門付近の査問はこわもての番人が受け持ち、門前市にも脱走者を捕獲して褒賞を得ようとする輩が多く待機するのが常であったが、今年ばかりは勝手が違った。
なぜなら、後宮の抜本的な粛清に伴い、後宮退出を願った女官はすべて、年季終了とすることを許されていたのである。
このお触れのもと、能力の足りぬ者や違法に集められた娘たちは、続々と後宮を離れつつあった。
今こうして節句の儀にまぎれて後宮を抜け出す女がいても、無罪放免とされることは明らかだったので、誰も手出しはしなかったのだ。
皇太子であった自誠が即位してから、すでに三月。
前帝から穏やかに治世を引き継いだ若き皇帝は、皇太子時代の評判を裏切るかのように、次々と大胆な政策を推し進め、民の信望を集めている。
その彼が真っ先に下した命こそ、肥大しきった後宮の改革であった。
まずは、不正な手段で権力を掌握し、後宮の腐敗を進めていた太監長を処刑。
彼に与していた、または品性の卑しい妃嬪については、ある者は追放し、またある者は女官へと階位を落とした。
同時に、犯罪者である太監長が司っていた
前帝の妃嬪たちには一律「太嬪」の称号を与えて出家を勧め、残留を望む者については、皆貴人扱いとしてそれを許した。
治世が落ち着き次第、秀女選抜に相当する儀式を設けるので、それまでの暫定的な処置ということである。
つまり、現皇帝には、公式な妻がいない。
まれに見る美男子で、こんなにも有能な皇帝は、いったいどんな皇后を娶るつもりかと、人々は夢中になって噂し合っていた。
さて、そんなわけで、まったくやる気のない門番は、後宮からの外出者に形ばかりの質問を向けるばかりで、とある人物を乗せた二台連れの籠も、さして注意を引くこともなく、するりと後宮の門をくぐり抜けた。
だが、もし門番がその中に座る人物の正体を理解していたなら、きっと泡を食ってその場に叩頭していただろう。
二台の籠は清明節でにぎわう門前市をゆるゆると進み、やがて、
そうして、籠の中から、次々と乗客が降りてくる。
後ろの籠から降りてきたのは、今や後宮の中で独特の存在感を示すようになった三貴人。
すなわち、純貴人・静雅と明貴人・紅香、そして恭貴人・嘉玉。
そして、前の籠から降りてきたのは、町民に扮してなお、高貴な雰囲気を隠しきれないでいる男一人と、麗しい女性二人。
すなわち、皇帝となった自誠、公主・蓉蓉、そして――宝 珠麗であった。
籠を降りる珠麗に、すぐさま、傍を歩いていた夏蓮が手を差しのべる。
そうして、地味な衣装に身をやつした珠麗は、久々に感じる町の空気に、そっと目を細めた。
彼女がこうして後宮を出るのも、三月ぶりのことであった。
「君を外に出すのに、こんなに時間が掛かってしまって、すまなかったね」
風を浴びる珠麗に、自誠がそっと話しかける。
皇帝の崩御に、譲位、謀反人の処理に、緘口令の徹底。
先の陰謀の影響はあまりに大きく、有能な自誠をもってしても、「後宮から出ていきたい」という珠麗の願いを叶えるのに、これだけの時間が掛かってしまった。
だが、後宮に留まりながら、事後処理の経緯をともに見守っていた珠麗は、ばつが悪そうに肩を竦めるだけだった。
「それはだって、『烏』に攫わせるのではなく、きちんと見送りたいと言ってこうしてくれたのだから、仕方ないわ。さすがに、そのくらいは理解しているつもりよ」
そう。事件が一段落した後、珠麗が「冤罪を詫びる気があるなら、このまま自分のことも追い払ってほしい」と申し出たとき、自誠や蓉蓉は、せめて礼を尽くして見送らせてくれと、熱心に説得してきたのだ。
このまま後宮からただ姿を消したのでは、経緯はうやむやになり、珠麗の名誉は回復しない。
必ず、濡れ衣で焼き印を許してしまったことに対しての謝罪を記録に残し、妃嬪としての宝 珠麗の籍を回復させるので、少し時間が欲しいと。
「貧民窟の仲間――礼央も、『烏』の後継問題でてんやわんやで、しばらく身動きが取れなかったんだもの。ちょうどよかったんだわ」
「そう言ってもらえると、少しはほっとするが」
自誠は優しく微笑み、それから笑みを、苦いものに変えた。
「彼は、皇帝に対する忠誠の暗示を掛けないということを、後継の条件にしているようだね。先代との折り合いがなかなかつかないのは、そのせいのようだ」
「でも、暗示を許したら、きっと同じことを繰り返すんだと思うわ」
「そうだね。僕も、もうこんな過ちを繰り返すなんてごめんだ。皇帝の傍には、それを諫められる臣下がいるべきだと思うよ。次代『烏』は僕の見極めに時間をかけていいし、僕が道を違えたなら、そのときは差し違えてでも諫めてくれればいい」
かなり過激な発言であるはずなのに、自誠の口調は、どこまでも穏やかだ。
その立ち姿には、早くも皇帝としての風格が滲み、見る者を圧倒した。
かつて、濡れ衣を看過し、珠麗の焼き印を許した、忌むべき男。
けれど、だからこそ、彼は二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、厳しく己を戒めている。
彼が自分を豚と罵ったのも、せめて焼き印の位置を変えさせるためだったと理解した今となっては、彼を強く恨むことも、なかなかに難しかった。
「やあ、噂をすれば影とはこのことだ。君の『烏』がやってきたね」
と、空気を変えるように、珠麗の背後に視線を飛ばした自誠が、そう呟く。
振り返ってみれば、門前市の人込みからするりと、二人の男の影が抜け出してくるのが見えた。礼央に、おそらく付き添いの宇航だ。
小黒は餌でも見つけたのか、肩から自由に飛び立ったところだった。
清明節の、正午。
約束通りの刻限だ。
礼央たちの手を取れば、珠麗はとうとう、この後宮を離れ、玄岸州へと帰ることになる。
二人に向かって大きく手を振った珠麗に、背後から蓉蓉が呼びかけた。
「本当に、行ってしまうんですの?」
その声は、傷心に掠れている。
向き直ってみれば、彼女はその優しいたれ目に、うっすらと涙を滲ませていた。
「珠珠さん……いえ、珠麗様。わたくし、あなたに会えて、本当に嬉しかったのに。本当の本当に、嬉しかったのに。わたくしたちを置いて、行ってしまわれるんですの?」
蓉蓉と会ったのは、後宮に舞い戻ってきた後のことだ。
過去の因縁を知らぬ彼女からすれば、頑なに後宮を去ろうとする珠麗は、冷酷にも見えるのだろう。
きゅ、と袖を掴んでくる蓉蓉の視線に、胸が軋むような心地を覚えて、珠麗は口元を歪めた。
なにせ数年とはいえ貧民窟暮らしの身の上、睨まれるのなんて、へっちゃらだ。
だが、自分より年下の少女に、涙ながらに迫られると、どうしていいのかわからなくなってしまう。
「う、うん……。だって、焼き印入りの私なんて後宮に残っていても、お互い不幸にしかならないでしょ。知ってほしい人には、もう無実を知ってもらえたんだし、だとすれば、もう私に思い残すことなんてなにもないわ」
もごもごと告げると、蓉蓉たちの後ろに控えていた三貴人たちも、揃って身を乗り出した。
「もし珠麗様の焼き印を見下す輩がいたら、そんなのわたくしが、引っぱたいてやるわよ!」
最初に、頬を赤く染めて主張したのは、意地っ張りの紅香だった。
「だから……わたくしたちと一緒に残っていたって、いいじゃないの……」
だが言葉尻は、早くもしょんぼりと涙声になっている。
その背をさすりながら、嘉玉もおずおずと言い添えた。
「かつて珠麗様を見捨てたわたくしたちのことを許せないのは、その通りだと思います。けれど、わたくしたちに、償いの機会も与えてくださらないのですか?」
小動物のような瞳には、やはりうっすらと涙の膜が張っている。
懐に入れた相手の涙がなにより苦手な珠麗は、思わず逃げ腰になった。
こんなの、豚の遺骸相手に格闘したほうが百倍気楽だ。
「そ、そうじゃないわよ。私はもとから、あんたたちのことを、これっぽっちも恨んでないんだから。償いの必要が、そもそもないだけ!」
しどろもどろに告げた珠麗に、今度は静雅が「ならば」と眉を寄せた。
「すでに水に流したと言うのなら、なおさら後宮にいてくださってもよいのではないですか。外の世界は自由……けれど、貧困も寒さも溢れている。かつてあなた様を見放してしまったからこそ、わたくしは、あなた様の苦しむ姿など、もう二度と見たくないのです」
その表情には、真摯さだけが溢れている。
彼女の父親は高潔で知られた学者だったが、貧しさゆえに薬も買えず亡くなったと聞く。
きっと、精神の自由よりも、健康や安全のほうがよほど重要だと、静雅は考えているのだろう。
「う、う……。いや、その、お気持ちは、すごくありがたいんだけど」
それぞれに言い募られて、珠麗も半泣きになった。
ああ、剥き出しの敵意なんかよりも、涙を伴った善意のほうがよほど厄介だ。
前者は払いのければいいが、後者に対してそれをすると、自分がとんでもない悪人になった気がしてしまう。
(でも、やっぱり、私の住む世界は
うんうん唸りながら、それでも、珠麗は心の中でそう思い直した。
だってここには、礼央たちがいない。共にいるだけで毎日が輝き、心がわくわくとする、そんな相手が。
いいや、他人を理由に居場所を決めるなんて卑怯だろうか。
ならば珠麗はこう思う。魂が、違うと、叫んでいるのだと。
実際のところ、今の後宮の居心地は、けして悪くないのだ。
気心の知れた女官がいて、仲のよい友人がいて、美貌と権力を持った男が丁重に接してくれる。
けれど、それでも珠麗は、草木の陰に、建物と建物のあわいに生じる暗がりに、なんとも言えない闇を感じ取ってしまい、それがいやだった。
楼蘭の飲み込んだ悲鳴、数多の女たちの涙、怨嗟の眼差し、そんなものが、じっと横たわっている気がして。
後宮は美しい。
建物は荘厳な造りで、行き交う人々は皆天界人のようで、寒さとも貧しさとも無縁だ。
けれど、あかぎれもせず、爪も丸く整った自分の指先を見ていると、珠麗は恍惚よりも、違和感ばかりを覚える。
この四年で、彼女の魂はすっかり、外の世界に染まってしまったのだから。
このまま後宮に残っていたら、せっかく定まってきた自分の芯が溶けて、また、ふわふわの霞のような自分になってしまいそうで、それも怖ろしかった。
(わがまま、なのかな)
これだけ謝罪し、誠意を尽くしてくる相手を振り払ってしまうのは、頑なに過ぎるのかと、珠麗はときどき不安に駆られることがある。
表情を曇らせた珠麗になにを思ったのか、そのときふと、自誠が「まあ」と切り出した。
「すぐにでも許してほしい、笑顔でそばにいてほしいと願うのは、こちらの傲慢だ。花街と貧民窟――君が辛酸を舐めた四年ぶんはせめて、僕たちもこの苦しみに耐えてしかるべきだろう」
その麗しい顔には、苦い笑みが浮かんでいる。
彼は一歩珠麗に近付き、優雅にその手を取った。
「僕は、君への償いとしてこれからの四年を過ごすよ。先帝陛下の暴虐と、『烏』の自浄力不足で揺らいだ国と後宮を、この四年で必ず立て直す。その暁には、次代『烏』ともども――」
そうして、振り払うことも許さぬ滑らかな仕草で、珠麗の腕をぐいと引き、耳元に囁いた。
「戻っておいで」
「…………!」
唇が触れんばかりの距離で囁かれた珠麗は、ばっと耳を押さえ、後ずさる。
常人なら
「あっ、ああっ、あああっ、あんた、じゃない皇帝陛下、全然懲りてないじゃないの……!」
「はは。懲りてはいるよ。諦めていないだけ」
自誠はまるで悪びれない。
露悪的な言動とは裏腹に、本当の彼は真面目で、真摯で、誠実な男だと今では理解しているが――やはり彼は彼だった。
「落ち着いたら
「なにひとつ安心要素がないですけど!? っていうか、もう絶対捕まりませんから!」
「そろそろ自覚した方がいいと思うから言うけど、君が自信満々に断言すると、必ず逆のことが起こるからねえ。二度あることは三度あると言うじゃないか」
「ない!」
珠麗が顔を真っ赤にして怒鳴っていると、とうとう合流した礼央たちが、「なにを騒いでいる」と眉を寄せながら声をかけてくる。
まさか「皇帝陛下に口説かれています」と答えられるわけもない珠麗は、気まずさに冷や汗を浮かべた。
ここで礼央たちに「そいつらと仲良くやっているなら、俺たちはこれで」とでも見捨てられたら一巻の終わりだ。
「ちょっとその、あの、あれがそれで――」
「おまえ、まさかそれが何かの説明になるとでも?」
礼央は仏頂面で珠麗の言論を封じたが、意外にも彼女を見捨てることはなく、そのまま自誠に向き直った。
「見送り、ご苦労。こいつはたしかに返してもらった」
「言葉遣いが間違ってるようだよ、次期『烏』」
「あんたを、忠誠を捧げるべき
傲岸不遜な礼央の物言いにも、自誠はゆったりと笑みを浮かべるだけだった。
「そこじゃない。珠麗は『返した』のではなく、『預けた』だけだと言ったんだ」
「…………」
黒曜石のように鋭い礼央の瞳が、剣呑に細められる。
しばし、男二人は、静かな火花を散らし合った。
「――行くぞ」
やがて、礼央が飽きたようにふいと視線を逸らす。
冷や冷やしながら見守っていた珠麗は「うわはい!」と必要以上に元気な返事を寄越すと、粛々と礼央に連れ添った。
その隣には、当然のように、夏蓮も一緒だ。
「では、また」
背後から、自誠の静かな声が掛かる。
それを合図に、蓉蓉と貴人たちが一斉にその場に跪き、深く礼を取った。
「宝 珠麗様を、お見送り申し上げます」
そうすれば未練が残ると理解していたから、けっして後ろは振り向かない。
けれど、川べりを離れ、門前市の人混みに合流するそのときになっても、いつまでも、彼らがこちらを見つめていることが、なぜだか肌でわかった。
***
「おい、どっちに向かって歩いている」
「え? あ、ええ、ごめん……東に進むんだったわね」
「珠麗様。そちらは崖です」
「馬鹿なの?」
ぼんやりと歩いていると、たちまち三方向――礼央、夏蓮、宇航から声が掛かる。
玄岸州に向かって歩き出して四半刻ほど。
船着き場への近道をしようと、森の中を歩いていた珠麗が、崖に突っ込もうとするのは、もう二度目のことだった。
すっかり呆れたらしい礼央と宇航は、振り返ることもなく先に進んでしまったが、夏蓮が歩調を緩め、隣に並ぶ。
日頃あまり感情の浮かばない黒い瞳が、どことなく心配そうに珠麗を見つめた。
「珠麗様。もしやお疲れですか? 少し休憩させていただきましょうか」
「ううん、ごめんね、大丈夫。夏蓮こそ、山歩きなんて初めてなのに、私よりしっかり歩いていてすごいわね。大丈夫なの?」
「韋族ですので」
「強いな韋族」
無表情ながら力こぶを作ってみせる夏蓮に、珠麗はぼそりと呟く。
それから、隣を歩く夏蓮に、小さな声で囁いた。
「……夏蓮は、本当に私についてきて、よかったの?」
それは、崖に突っ込む以上に頻繁に、珠麗が夏蓮にぶつけていた質問であった。
「もちろんでございます」
夏蓮の答えもまた、いつも同じだ。
「珠麗様のお傍が、私の居場所です」
「でも、向かうのは貧民窟なのよ? 私はもう慣れっこだけど、寒いし、柄が悪いし、食事も粗末だし、おしゃれもできないし……」
珠麗は指折り数えて貧民窟の様子を描写しながら、最後に一層眉尻を下げた。
「夏蓮の妹さんもいない」
「この三月の間に、わざわざ休暇と路銀を許し、会いに行かせてくださったではありませんか。互いが無事だとわかっていれば、それで十分なのです」
夏蓮はゆっくりと答えたが、それでも浮かない表情の主人に、こう言い添えた。
「私も妹も、韋族です。韋族は、緑地を求めて、頻繁にその居場所を変えるもの。このくらいの移動、なんてことありませんし……すでに、あなた様という『家』を持っている私は、幸せ者です」
その声には、ひとかけらの迷いもない。
珠麗はしばらく夏蓮の顔を見つめていたが、やがて拳を握った。
「わ……私が、ちゃんと責任をもって、夏蓮のことを幸せにするからね」
決意を聞くや、夏蓮は目を丸くする。
それから小さく吹き出し、「はい」と頷いた。
「光栄でございます。期待しております」
「守料も納めなきゃいけないんだけど、陛下から慰謝料として金子をもらったし、私もちゃんと稼ぐから」
「はい。頼りにしております」
なにがおかしいのか、夏蓮は歩きながらくすくすと笑っている。
これはすっかり自分という主人に身をゆだねているのだなと思った珠麗は、貧民窟で頑張るぞと、決意を新たにした。
(そうよ、私がしっかりしなきゃ。貧民窟だろうがなんだろうが、幸せをちゃんと掴んで、夏蓮のことも幸せにするのよ。なにしろ、引き留めてくる皆を振り払ってまで、戻るんだもの)
そう、引き留めてくる皆を振り払ってまで――。
そこでまた、涙を浮かべる三貴人や蓉蓉、苦い笑みを刻んだ自誠の姿が思い出され、珠麗は口元を歪めた。
(……紅香たち、最後まで泣いてたな)
心の奥底が、軋む。
詫びてくる彼らの声には、いつも苛烈な後悔が込められていた。
好意を寄せてくれるその顔には、いつも真摯な思いだけがあった。
あのときはごめんなさい。
だから今度こそは。
どうか行かないで。
そうした言葉を、この三月で、自分は何回聞かされたことか。
そのたびに、謝らなくていい、でももうここにはいられない、とそう繰り返す行為は、珠麗の心を疲弊させた。
だって、濡れ衣で追放された妃嬪が、後宮に戻ってきた事例など、これまでにない。
冤罪が晴れたからと妃嬪の地位に戻るというのも、筋が通っていると言えば通っていたし、一方では、ひどい仕打ちをした男の元に嫁げないというのも、納得できると言えばできた。
決断はすべて、珠麗の心ひとつに委ねられていたのだから。
(結局、後宮を出ていくことを選んだ私は……冷酷なのかな)
謝罪を重ねる相手を退けるのは、ひどく心苦しい。
珠麗からすれば、恨みを持ち続けることよりも、許すことのほうが数倍簡単だ。
そうして、心がぐらつきそうになって、そこでいつも思い知らされるのだ。
自分はなんて、簡単に絆されてしまうのだろうと。
「己のちょろさが……憎い……」
珠麗はとうとう歩みを止めて、両手で顔を覆った。
「珠麗様?」
「うん……ごめん、なんか……」
少し、涙が滲んでしまった。
それがまた、情けなかった。
結局のところ、自分は甘いのだ。
友人に裏切られても、花街に追われても、火事に巻き込まれても、貧民窟に渡っても。
どれだけ苦労を重ね、現実を知ったつもりになっても、少し謝られれば、許してしまう。
人を許し、信じたがっている。
(礼央に見られたら、絶対馬鹿にされる)
鼻を啜って涙を抑え込みながら、珠麗はぎゅっと目をつぶった。
自分から後宮を出ていったくせに、しかも連れ帰ってもらっているというのに、後宮にほんのわずかであれ思いを残しているということを、知られたくなかった。
「ううう……」
「――蝉ほどしか脳みそがないくせに、なにを思い悩んでいる」
唸っていると、不意に頭上から声が降ってくる。
ぎょっとして顔を上げれば、そこにいたのは、不機嫌そうに腕を組んでいる礼央だった。
どうやら、珠麗が立ち止まったことで、引き返してきてくれたらしい。
「あ、ご、ごめん……ちょっとこう……煙が目に沁みて」
「火のないところに煙を立てる能力でも?」
礼央は呆れ顔で問うと、手慣れた仕草で珠麗の頬を掴み、タコのように押しつぶした。
「おら。いつまでも辛気臭い顔をされても迷惑だ。さっさと言え。なにが不満だ」
「ふ、ふはんひゃない……」
「聞き取れん」
「は、はなひて……」
「おまえがその、めそめそするのをやめたらな」
(ほら、やっぱり礼央には馬鹿にされる――)
いつだって動じない彼は、こうした弱さを見せられるのが大嫌いなのだ。
だが、恨みがましい目で礼央を見上げた珠麗は、彼が意外にも、優しい瞳でこちらを見下ろしているのに気付き、驚いた。
「言ってみろ。十割十分十厘、くだらない悩みの予感しかしないが、ただ歩くのも暇だから聞いてやる」
「……私」
声があんまりに優しいので、つられてつい、呟きが零れる。
いつの間にか、不自由なく話せる程度には、頬を掴む手の力も緩んでいた。
「自分が、情けなくて」
「おまえが情けなくないときなんてあったのか?」
「ないかも……いや、ある……」
珠麗は無意識に、礼央の手首に縋りつきながら、じわりと目を潤ませた。
「とにかく、私……それなりにつらい思いをしたはずで、礼央にもわざわざ助けにきてもらって……夏蓮も巻き込んで、これから貧民窟に帰るっていうのに……」
「ああ」
「ちょっと、悲しいの」
とうとう、こらえきれず、ほろりとひと筋、涙がこぼれた。
「それで、そんな隙だらけの、阿呆な……成長してない自分が、情けない……っ」
自分の居場所は、これから向かう貧民窟のはずだ。
追い出されて、自力で掴んだ新しい居場所。
そこに帰るのは、正しい。
かつて自分を見捨てた連中には未練なく別れを告げて、颯爽と新天地に向かうのが、きっと正解だ。
それだというのに、ちょっと引き留められただけで、後宮に名残を惜しんでしまうだなんて。
「……強くなりたいの。もっと賢くなりたい」
四年前、自分はあまりに愚かで、無頓着だった。
それで失ったものは取り返せないし、同じ過ちは二度と犯したくない。
自分の甘さが、心の弱さが、誰かを追い詰めてしまうだなんて、もうしたくないのに。
「なのに、全然、なれてない……っ」
ぼろぼろと涙をこぼす珠麗から、礼央はそっと手を放す。
彼は、白い頬を走る涙の粒を指先で掬うと、静かにそれを見つめた。
「べつにおまえは、弱くても、隙だらけでも、いいんじゃないか」
「え……?」
意外な返答に、珠麗は目を瞬かせる。
その拍子に、またもひと筋涙が零れ落ちていったが、すると今度、礼央はその涙の跡に、口付けを落とした。
「そうしたら、その隙に俺が付けこむだけだから」
「り……っ!?」
優しい唇の感触に、名すら呼びきれず、硬直してしまう。
頬を押さえ、真っ赤にゆで上がった珠麗を見て、礼央はふっと噴き出した。
「茹でダコ」
「おおおい!?」
声を裏返し、咄嗟に叫ぶものの、なんと続けてよいのかわからない。
「あ、あん、あんたね、こここっ、こういうことを、軽々しくね! 豚かタコ扱いの女にするようなことは――ふむっ!?」
盛大に言葉を詰まらせながら、なんとか非難を紡いだが、それも半ばで途切れてしまった。
今度はしっかり、礼央に唇を奪われたためだ。
「…………!? …………!?」
「――そうだなあ、軽々しいのはいけない。家に落ち着いて、宇航やそこの女官を追い払ったら、じっくり、思いの丈を、思い知らせてやろうなあ?」
「…………!?」
しばらくして、ようやく解放されたが、続く不穏な発言に、やっぱり珠麗は言葉を詰まらせることしかできなかった。
(く、口付けた! この人! 口! 夏蓮たちの前で! 口付けた!)
そして今、彼は思いの丈と言った。
もしかしてもしかすると、王都まで助けに来てくれたのは、単なる身内意識からではなかったのか。
さらに言えば、守料取り立てのためではなかったのか。
「あ……っ、あの……っ」
「なあ、珠珠。今、誰のことを考えてる?」
唇を両手で覆ったまま口をぱくぱくさせていると、ふいに礼央が意地悪く笑った。
「俺だろう?」
「…………!」
「そうとも、おまえは隙だらけで、絆されやすくて、すぐに目の前の相手に染まってしまう。だが、逆に言えばそれは、何度でも染め直しが効くということだ。それなら、何度でも染めてやればいい。俺がな」
傲岸不遜に言い切る礼央の背後では、見物を決め込んでいた宇航がひゅうと口笛を鳴らす。
「ちょろさをちょろさで解決するとか、さすが
さんざんな言われようである。
礼央の想いだとか、自分の性質だとかを一気に詰め込まれ、頭が破裂する寸前だったが、彼の付け加えた一言に、珠麗は思わず惹きつけられた。
「どうせ元の色には戻らない。すっかり新しい色に染まってしまえば、その上にまた、違う絵も描けるだろう」
真っすぐにこちらを射抜く黒い瞳が、優しい夜空のようだった。
(そうか……)
ふいに、すとんと腑に落ちる。
礼央たちとともに後宮を去ることを、ごく自然に、これでいいのだと思えた。
後宮の彼らは一度、自分を見捨てた。
だから今度は、自分が彼らに別れを告げる。
きっとそれで天秤は釣り合って――そこからようやく、新しい関係を築くことができるのだと。
破鏡は再び照らしはしない。
失ったものは、取り戻せない。
(けれど、形を変えたなにかなら、もしかして、手に入れられるのかもしれないから)
四年後、自分は後宮へのわだかまりをすっかり失くして、都に足を伸ばしているのかもしれない。
それとも相変わらず、貧民窟に留まって、楽しく暮らしているのかもしれない。
色を変えた自分の心に、どんな絵が描き出されているのかは、四年後の自分だけが知ることだ。
「ほら。いつまでも立ってると、日が沈む。さっさと森を抜けるぞ」
「う……はい……!」
礼央がさっさと踵を返してしまったので、珠麗は慌ててその後を追った。
もう足取りが迷うことはない。
少しだけ歩調を緩めてくれた礼央に気付き、しっかりと付いてゆく。
後ろで、宇航と夏蓮が、
「やー、暑いねえ。ちょっともう胸焼けするかと思ったよ」
「玄岸州にお住まいの方は、この肌寒さでも暑いと感じるのですか」
などと、かみ合わない会話をしている。
珠麗は、速足で歩きながら、いろいろと思考を巡らせ、小声で礼央に切り出した。
「あの……。さっきのはその……、私の性質を、思い知らせるため、だったのよね?」
なにしろ彼は、意外にもてる男だ。
彼にとって他愛もない触れ合いを、妙に重大に受け止めてもいけない。
「で、でもね。やはり、花街経験者の観点からしてもね、唇というのは特別な部位であって、身持ちの緩い妓女でもそのへんは死守するものであるからして、あまり――」
「珠珠」
必至に言い募っていると、礼央は重々しく溜息をつく。
なぜなのだか、この日も彼は天を仰ぎ、遠い目をしていた。
が、やがて首を戻すと、彼はにっこりと、これまでに見たことがないほどの笑みを浮かべた。
「続きは、玄岸州に戻ったらな」
「えっ!?」
長く続いた森が途切れ、遠くに岸辺が見えてくる。
まばらな人通りの先に、玄岸州へと向かう船の姿が見えた。
「寝かさないから、船でよく寝とけ」
「えええええっ!?」
よく通る珠麗の叫びが辺り一帯に響き渡り、一足先に船着き場に到着していた小黒が、驚いたようにカァと鳴いた。
************************
今度こそ完結となります。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
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