《書籍化御礼閑話》二度目の忠誠―夏蓮―

「碁って……」


 夕餉を済ませた白泉宮に、絶望の声が響いた。


「こんな……盤面が真っ黒になるような、遊戯でしたっけ……」


 声の主は、口元を引き攣らせて盤面を覗き込む珠麗。


「うふふ。珠麗様があまりに愛らしい石の置き方をなさるものだから、碁の神様が悪戯をなさったのかもしれませんわね」


 そして、相対するのは、優雅に口元を円扇で隠した静雅である。


 二人の間に置かれた碁盤では、珠麗の白の碁石をたった一つだけ残し、他すべてが黒く染まっていた。


「さすが静雅様……実に容赦のない碁です」

「じゅ、珠麗様。そんなに落ち込むことないわよ。私たちも、静雅様には一回も勝ったことがないんだから」


 観戦していた嘉玉が唸り、紅香も不器用に慰めてくれたが、圧倒的な惨敗を前に、珠麗の顔は晴れなかった。


「珠麗様、珠麗様。むしろ私はこの盤面が誇らしいです。暗く澱んだ後宮の中で、珠麗様だけが白く輝き続ける様を暗示しているというか、ええ、実に芸術的、もはやこの盤面をそのまま額に収め、『後宮、この闇と光』とでも題字を添えたくなるような心持ちさえ――」

「夏蓮。後生だからやめて……」


 主人に熱狂的な忠誠を捧げる夏蓮は、必死に珠麗のことを褒め称えたが、そのことがかえって相手の心を抉ったようだ。

 珠麗は、すべての気力を削がれてしまった人のように、がくりと項垂れた。


 が、それも一瞬のこと。

 すぐにぎっと顔を上げると、碁石を集めはじめた。


「ええい、もう一局! せめて、白い石が二つに増えるまでは諦めませんからね、静雅様!」

「まあ。珠麗様は、本当にいじめ甲斐……いえ、張り合いのあるお方です」


 静雅も、気骨のある対戦相手が嬉しいのか、おっとりと微笑んでそれに応じる。

 珠麗を中心として、白泉宮の貴人たちがわいわいと盛り上がるのも、もはや日常のことだ。

 夏蓮はほのぼのとした思いを抱きながら、茶のお代わりを準備した。


(そうだ、寝具ももう整えておかないと)


 唯一「妃」の地位を提示されている珠麗には、本当は、白泉宮よりも数段立派な宮が与えられている。

 だが本人は、「妃になったわけではないのだから」と、そこで住まうことを頑なに拒んでいた。

 よって、彼女たちが過ごすのは、今日も白泉宮の一室だ。

 珠麗の決断を、基本的に新皇帝・自誠はすべて受け入れてくれるので、こうして低級妃の宮に寝泊まりしても、咎められることはない。

 白泉宮の貴人たちも、珠麗との交流を大いに楽しんでおり、彼女の滞在を大歓迎してくれていた。


 気心の知れた女たちで、笑い合いながら夜更かしを楽しむ――こんな日が来ることを、三カ月前の後宮で、いったい誰が予想したことだろうか。


(本当に……珠麗様は、太陽のようなお方)


 夏蓮は、日頃「人形のよう」と言われる顔に、ほんのりと笑みを浮かべた。

 それとも韋族の彼女からすれば、北極星のよう、とでも表現したほうがふさわしいだろうか。

 闇を照らし、人々に希望と進路を授けてくれる星。


 とそのとき、


「やあ、楽しそうな声がするね。宝妃はいるかな?」


 入り口のほうから朗々とした声が掛かったので、一同は顔を見合わせた。


 前代皇帝の後宮では「恵嬪」の称号を得ていた珠麗は、新皇帝・自誠の後宮では、いまだ「妃」の打診があるだけで、公式な称号を付けられてはいない。

 そこで、姓の「宝」と、自誠の希望を込めた「妃」の階位を繋げ、宝妃と呼ばれるのが常だった。


「いるね? だって、君の宮である麗峰宮はもぬけの殻だったもの。先触れも出さずに悪いが、入ってもいいかな」


 そして、なんの断りもなく宮に踏み入って来れるこの人物こそ、自誠。

 どうやら、皇帝自ら白泉宮に遊びに来たようだ。

 夜酒を楽しみに来ただけの場合もあるが、もちろんここは後宮なので、そのまま夜伽となる流れも大いにありえる。


「あ……」


 これが普通の後宮ならば、女たちの間に緊張が走り、冷ややかな嫉妬が渦巻きはじめようものだったが、こと白泉宮においては事情が異なる。


「珠麗様」

「ちょっと、珠麗様ったら」

「珠麗様。碁盤の陰に隠れても、お姿は隠せませんわ」


 静雅、紅香、嘉玉は、嫉妬の代わりに、呆れたような苦笑を浮かべ、さっと碁盤の陰にうずくまった珠麗へと話しかけた。


「ほうら、怖くありませんよ。どうぞおいでになって。どうどう」

「怯えた動物をあやすような接し方、やめてくれます、静雅様!?」


 縮こまった珠麗が小声のまま反論すると、周囲はますます苦笑を深める。

 紅香など、うぶな妹を諭す姉のような態度で、両手を腰に当てていた。


「んもう、珠麗様ったら、なにをそんなおぼこ・・・な娘みたいに怯える必要があるの? 後宮の女なんて、抱かれてなんぼなのよ。陛下に何回も求められておきながら、それを断り続けるなんて不敬の極みよ。さっさと行ってらっしゃいったら」

「ここここっ、紅香!? わ、私はあんたを、そんな子に育てた覚えはありません!」

「育てられた覚えもないもの。ほら、陛下はもうそこまでお越しよ。お待たせしてはいけないわ」


 痺れを切らした紅香が、「よいしょ」と脇の下に腕を入れ抱き起そうとすると、珠麗は涙目になって叫んだ。


「待ってよ! だからそもそも私、妃嬪じゃないんだってば! 招かれざる客なの! 陛下の夜伽をする必要なんて、小指の先ほどもないんだってば!」

「ですが、後宮に寝泊まりし、食事も頂いていますよね?」


 嘉玉もまた、小首を傾げる仕草は愛らしいながらも、容赦がない。


「真に客人であるならば、本宮に客室を賜るのが筋。それをこうして後宮に宮まで賜っているのですから、これはもう、珠麗様のご意思はどうあれ、実質的に妃嬪ということでよいのでは?」

「だから、出してくれるんならすぐにでもお暇しますって、何度も何度も何度も何度も言ってるじゃないのおお!」

「それはそれ、これはこれです」


 小動物のような嘉玉は、その姿に見合わぬ乱暴極まりない理論で珠麗の反論を封じると、いよいよ室にやってきた自誠に向かって、深く礼を取った。

 静雅もすかさず礼を取り、白泉宮の代表者として口上を述べる。


「陛下にご挨拶申し上げます。碁に夢中になるあまり、宝妃様を宮にお返しすることもせず、申し訳ございませんでした。わたくしどもはこれにて御前を失礼いたしますので、どうぞごゆるりと」

「礼は不要だ。君たちの宮なのに、すまないね」

「うわあああ! ちょっと待ってったらああ!」


 多勢に無勢と踏んだ珠麗は、切羽詰まった形相で夏蓮を振り仰いだ。


「夏蓮! 夏蓮夏蓮夏蓮! 助けて! どうにかして!」

「は……」


 そうは言っても、皇帝からの寵愛を受けるのは、後宮の女にとって最上の誉れだ。

 夏蓮は、ごく一瞬、その顔に懊悩の色を浮かべたが、すぐにそれを振り払うと、いつもの無表情で自誠の前に跪いた。


「恐れながら申し上げます。主人、宝妃様は体調が優れず、陛下のお相手を万全にできる状態ではございません。粗相があってはならぬゆえ、今宵は白泉宮の貴人様方と酒杯をお楽しみになってはいかがかと」

「へえ。ついさっきまで、楽しげな笑い声が聞こえたけれど、体調が優れないと」

「……対局の緊張が解けて、一気に症状が出たのかと」


 苦しいことこの上ない言い訳に、自誠は目を細めた。


「気を張れば症状は治まるということかな。なら大丈夫だ。彼女は僕の前にいると、いつも緊張するようだから」


 口調は軽やかだが、意地悪である。

 いや、そこには少し、自虐の色も滲んでいただろうか。


「時間をかけて詫びたいと思っているだけなんだ。その機会を、恵んではくれないか」


 天子にここまで言わせておいて、女官の一存で退けるわけにもいかない。

 夏蓮は咄嗟に珠麗を振り返ったが、彼女はちぎれそうな勢いで首を横に振っていたので、溜息を堪えて、再び自誠に向き直った。


「恐れながら、主人は陛下に謝罪を賜ることなど、求めてはおりません。万が一この体調不良が、伝染する病であれば大変です。陛下におかれましては、どうぞお引き取りを」


 一女官が、見え透いた嘘で妃の伽を断るなど、通常であればその場で斬首されてもおかしくないほどの不敬だ。

 自誠もさすがに、明らかに元気な珠麗を見て思うところがあったのか、わずかに口元を歪めた。


「まったく、見上げた忠誠心だね、夏蓮。宝妃も、実に欲がない」


 後宮流の翻訳に掛けるとこれは、「命が惜しくないのかな? 皇帝相手に嘘偽りを申した女官は、処刑されても文句は言えないし、珠麗だって本当ならなんらかの処分を受けてもおかしくないほどの言動だよ」というほどの意味になる。


「恐れ入ります。命を賭すほどの主人に巡り合えた私は幸せ者でございます。主人も、無欲さに見合った天運に恵まれたものと信じております」


 夏蓮は表情を崩さぬまま深々と頭を下げた。

 これを翻訳すると、「死ねと言われれば死ぬ覚悟ですがなにか。言っときますけど、珠麗様を責めでもしたらその時こそ『烏』が攫いにくるかなにかして、珠麗様は幸せな人生を歩みはじめると思いますがなにか」といった内容になる。


 自誠と夏蓮は、それぞれ微笑と無表情のまま見つめ合った。


「……まあ、胸元の傷は何年経ってもなくなるわけではないからね。体調不良も、その傷が元なのかと思えば、僕だって無理強いしようとは思えない」

「寛容なるお言葉、さすがは陛下でございます」


 今回も、先に折れたのは自誠だった。


 罪人に焼き印を押すのは掟であり、自誠はその位置を変えてやったのだとはいえ、珠麗への冤罪を看過してしまったことに変わりはない。

 根が一途な彼は、そのことを相当悔やんでいるのである。

 さらに言えば、残虐な伽を強いられたからこそ、かつての祥嬪・楼蘭は凶行に及んだのであり、それを思えば、絶対的な権力を持つとはいえ、気に入った女を無理にどうこうしたいとも思えないのであった。


「実際、今日はこれを届けに来ただけだ。和心殿の梅が、実にいい香りがしたものだからね。ここにいることのほうが多いようだから、梅は白泉宮に飾って、皆で楽しんでくれ」


 自誠が合図をすると、付き従っていた太監たちが大きな壺を運び入れてくる。

 活けられた梅の枝は品のよい色合いの蕾を付け、芳香を放っていた。

 どうやら、今夜は本当にご機嫌伺いに来ただけらしい。


「もったいないお気遣いでございます」


 女官である夏蓮はそれを受け取ることをせず、ただ深々と礼を取る。

 ちら、と視線で促せば、珠麗ははっとし、それから気まずそうに、


「……お気遣い、ありがとうございます」


 と呟いた。


「きれいな花。……大切に、愛でさせてもらうわ」


 ちょっと考えてから、付け足す。


 このお人よしの主人は、人からの厚意にめっぽう弱い。

 ありていに言えば、ちょろい。

 贈り物をされてしまうと、たとえその贈り主が恨みの対象であったとしても、ついつい大切にしてしまう性分である。


 自誠もそれを理解しているのだろう。

 贈り物は、この三カ月という時間をかけて、日持ちしない生菓子から干菓子へ、消え物の食品から花へ、そして宝飾品へと、少しずつ変わりつつあった。

 そうやって徐々に、珠麗の中での存在感を増していくという寸法であろう。


「香りもいいだろう? 枝を枕元に飾っておくと、室全体に芳香が広がる。僕が数本、活けてあげようか? これでも枝の目利きは得意なんだ」

「え? そ、そう? ……って、だめ! 結構です! 寝室には上げないわ!」


 そのまま、あっさり流されそうになった珠麗が、見ていて心配になるくらいのぎりぎりさで踏みとどまる。


 彼女は、


「あっ、頭が! 頭がとても痛い! なので私はこれにて! 御前を失礼いたします!」


 棒読みここに極まれり、というほどの下手な芝居を打って、そそくさと寝室へ引き上げていったので、夏蓮は内心で胸を撫でおろした。

 下手な芝居でも、このまま室に留まって、どんどんドツボに嵌まってゆくよりかは、いくらかましだ。


「やれやれ……」


 自誠はそんな後姿を見送り、淡く苦笑している。

 皇帝に向ける態度として適切とは到底言えないが、そんなつれない言動すら、愉快に映っているようである。

 あるいは、なんだかんだ強く拒絶しきれない珠麗の優しさに、感謝しているのか。


「では、白泉宮の貴人たち。よい夜を」


 宣言通り、珠麗に梅の枝を届けに来ただけらしい自誠は、居並ぶ女たちには未練を覚える様子もなく、さっさと引き揚げていった。


「陛下をお見送り申し上げます」

「よい夜をお過ごしくださいませ」


 三貴人も、女官たちも深々と礼を取って、皇帝の退室を見送る。

 足音が完全に遠ざかると、一同はほっと緊張を解いた。


 夏蓮は急いで珠麗の逃げた寝室へ向かおうとするが、それを静雅が呼び止める。


「待ってちょうだい、夏蓮」


 その声は、どこか物憂げだった。


 気が急くあまり眉を寄せた夏蓮に、静雅は視線で、座るように命じる。

 紅香や嘉玉のことも「申し訳ないけれど、下がってくださる?」と優しく退室を命じ、二人きりになると、夏蓮のことを正面から見据えた。


「ねえ、夏蓮。珠麗様から一番に信頼されているあなたにだからこそ、はっきりと聞くわ。あなたには、珠麗様に栄華を掴ませようという考えはないの?」

「…………」

「ここには二人きりよ。妃嬪と女官だとかいった身分のことは抜きにして、お互い珠麗様の友人として、率直に話してちょうだい」


 静雅の口調は、穏やかでいながらきっぱりとしている。

 夏蓮は逡巡したが、やがて視線に促され、口を開いた。


「私は、『宝妃様』ではなく、『珠麗様』に忠誠を捧げる人間です。珠麗様が望むのなら、その願いはすべて叶えたいと思いますし、望まぬことなら、全力でそれを退けたいと思っております」

「詭弁だわ。今の珠麗様は宝妃様なのよ。ここは後宮。皇帝陛下のご寵愛を受けてこそ、女は幸せになれる。もちろん、前代陛下のような『ご寵愛』ならば恐れてしかるべきだけれど、今代陛下は、文武に優れ、お優しい、理想的な殿方ですわ。なぜ、その身をゆだねるよう、説得しないの?」


 わずかに眉を寄せた静雅の顔には、切実な、本当に真摯な感情だけが宿っていた。

 彼女は、嫉妬だとか打算だとか、そうした感情からではなく、ただ純粋に、友人である珠麗の栄華を願っているのだ。


「……珠麗様は、陛下をご覧になると、どうしても焼き印を押されたときのことを思い出すようです。怯える主人を、怯えさせる相手の元に突き出すことなど、私にはできません。それに――」

「それは違うわ、夏蓮」


 もうひとつの理由を続けようとした夏蓮を、静雅は悲しげに遮った。


「珠麗様に焼き印を押させたのは陛下ではない。天華国の法よ。さらに言えば、原因を作ったのは祥嬪・楼蘭。陛下はむしろ、焼き印の位置を変えることで、珠麗様を守ったの。しがらみの多い中で、背一杯を尽くされたのよ。その誠意は、かけらも伝わらない?」

「…………。そもそも、私に陛下を責める資格など、ありません」


 意見を飲み込むように、夏蓮は押し殺した声でそれだけを告げる。

 頑なな夏蓮の腕を、静雅はそっと取った。


「わたくしたちも、陛下も、そしてあなたも、かつて珠麗様に対して、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。それは事実よ。けれど……いいえ、だからこそ、わたくしは償いたいの。珠麗様には幸せになってほしいの。栄華を掴んでほしい。彼女にならば、わたくしたち妃嬪は喜んで膝を折れるもの。嫉妬も羨望もなくそう思えるのは、彼女に対してだけなのよ」


 静雅は白泉宮の貴人だ。

 白泉宮と親しい珠麗が後宮内の序列を駆け上がれば、きっとその恩恵に与れる、そうした計算も、もちろん聡明な彼女の中にはあるだろう。


 けれど、それよりなにより、静雅は償いたがっているのだ。

 かつて果たせなかった誠意の証として、珠麗の栄華を願っている。

 そして、珠麗本人が一向にそれを受け取ろうとしないことを、じれったく思っているようだった。


「せっかく珠麗様は戻ってきてくれたのに……わたくしたちから、償いの機会を奪うつもりなの?」

「純貴人様……」


 真心のこもった声に、夏蓮は言葉を詰まらせた。

 珠麗からすれば、伽を強要しているだけに見えるかもしれないが、静雅は彼女なりの価値観で、心から珠麗に報いたいと考えているだけなのだ。

 同じく、珠麗に償いたいと強く願う身としては、静雅の主張を即座に否定することはできなかった。


 夏蓮は唇を湿らせ、言葉を選んだ。


「お言葉は、ごもっともです。純貴人様の真心は、疑うべくもございません。ですが、珠麗様は……後宮で寵愛を受けることが本当の幸せだとは、考えておられない。珠麗様は後宮に『戻って』来られたのではない。その魂は、すでに外の世界にあって――この場には、単に『束の間、間違って足を踏み入れた』だけなのです」

「なんですって……?」


 静雅が衝撃を受けたように息を呑む。

 夏蓮もまた、辛そうに目を伏せた。


「珠麗様は、まるで変っていない。けれどその一方で、がらりと変わられた。心の中で後宮ここを切り捨ててしまったのです。ここから出ていきたい、としきりに仰るのは、冗談などではない。あれは、本気なのです」


 それこそが、夏蓮が珠麗から自誠を遠ざけてしまう、もう一つの理由なのだ。


 べつに珠麗は、自誠のことをもう恨んではいない。彼にも事情があったのだと理解している。

 けれど、その魂は自由を求めて、すでに後宮から羽ばたいてしまっている。

 だからこそ――珠麗のことを思うと、夏蓮は主人を籠に引き留めようとは、思えなくなってしまうのだ。


「しかも」

「しかも?」

「……率直に、と言われましたので、本当に、言葉を選ばずに申し上げるのですが」


 夏蓮は深刻な表情のまま、訥々と語りつづけた。


「先日、珠麗様があのお姿になってから、初めて入浴のお手伝いをいたしました。そこで理解したのですが……あのお体は、傾国です」

「……なんですって?」


 怪訝そうな顔になった静雅に、夏蓮は真顔で向き直った。


「ありていに申し上げますと、同性でもむしゃぶりつきたくなるような体つきです」

「本当に言葉を選ばないわね?」

「ですが事実です。吸いつくような白い肌、豊かな胸に細くくびれた腰。肉感的な体とは裏腹に、黒い瞳は感情が出やすく、すぐに涙目になる。赤く引き攣った火傷の痕が痛々しくも目を引き、これはまずいと思いました。少なくとも私が殿方なら、珠麗様をどこかに攫って、一生閉じ込めたくなります」


 淡々とした口調が、かえって迫力を持っていた。

 静雅は圧倒されたように頬を赤らめたが、やがて夏蓮の言わんとしているところを理解し、頷いた。


「なるほど。一度でも体を許せば、きっと陛下は今以上に珠麗様を囲い込む。だから、外の世界を望む珠麗様のことを思えば、伽は一度たりともさせられないと、そういうことね?」

「さすがは純貴人様でございます」


 そう、と静雅は頷き、しばし考えを巡らせていたようだが、やがて意を決したように切り出した。


「たしかに、後宮を出て行きたいという珠麗様の意思に添うなら、あなたの主張も理解できる。けれど、本当にそれは正しいことなのかしら?」

「なにを仰るのですか?主人の意思に添うのが女官の本分です。珠麗様の魂は自由を求めているのだから、それを確保するのが私の役目です」


 夏蓮は驚いて言い返したが、静雅は静かに首を振るだけだった。


「考えてもみて。主人が言うから従う。主人が望むから叶える。それでは、本当に大切なものを守れないわ。あなたは、医者になどかかりたくないと病身の主人が泣いたら、はいそうですかとそのままにするの?あなた自身に、すべきことの判断はできないのかしら」


 意表を突かれ、黙り込む。

 静雅が、ひときわ声を低めた。


「四年前、わたくしもあなたも、自分に意思がなかったから、流されて珠麗様を死なせかけてしまったのよ」

「…………!」

「わたくしはもう二度と、同じ過ちは繰り返したくない。今度こそ、自分で考え、自分の思うままに、行動したいの。そしてわたくしは、珠麗様には、ここにいてほしい」


 声は静かだからこそ、揺るぎなさに満ちていた。

 静雅はふと、碁盤へと視線を落とした。

 使い込まれた碁石に、枠の擦り切れた碁盤――古びたそれは、彼女の家族が残した数少ない娯楽品だった。


「魂の自由は尊ばれるべきものよ。けれど、外の世界はあまりに貧困と苦難に満ちている。……わたくしの父は学問を愛し、その精神は自由で高邁だったけれど、結局財を成せず、薬も買えずに亡くなったわ。わたくしたちは粥にもこと欠くほど貧しかった」

「それは……」


 夏蓮は言い淀む。

 静雅の一族が多くの学者を輩出していることは知っていた。

 だが、だからこそ、彼女が庶民のような貧困に接したことなど、ないと思っていたのだ。


 静雅が再び夏蓮に向き直ったとき、その知的な瞳には涙が滲んでいた。


「一番下の妹は、貧しさで命を落としたわ。年下の子を見ていると、どうしても姿が重なるの。多少窮屈でも……わたくしは、珠麗様にたくさん食べて、温かくして、無傷で、過ごしてもらいたいのよ。どうせ外の世界でも、女が男に傅き、子を産まねばならぬのは同じこと。ならば少しでも、檻は居心地よくあってほしい」


 押し黙った夏蓮の手を取り、静雅は両手でぎゅっと握りしめた。


「お願いよ、夏蓮。あなたの意思はどこにあるのか、どう尽くすのが最善なのか、もう一度考えてみて。同じ過ちを、二度と繰り返さないために」

「純貴人様……」


 なんと答えたものか、咄嗟に言葉は出てこなかった。

 だが、静雅もその場での回答は求めていなかったらしい。


「長々と引き止めてしまって悪かったわね。早く珠麗様の寝支度をしてあげて。おやすみなさい」


 素早く目元を拭うと、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、静雅は室を出て行った。

 夏蓮もまた、深く考えに沈み込みながら、珠麗に割り当てられた客室へと足を向けた。


「珠麗様、お待たせして申し訳ございません――」


 主人が文机に突っ伏していることに気付き、口を閉ざす。

 そろり、と机に回ってみたら、夏蓮の大切な主人は、広げた紙の上に頬をくっつけて、すやすやと寝息を立てていた。


 おそらくだが、どうやって皇帝からの誘いを退け続けるかについて一人で作戦会議を開き、早々に考え疲れてしまったのだろう。

 この主人にはたびたび見られる姿である。


「うぅ……、ふふっ」


 眉を寄せて唸っていたかと思えば、意外に楽しい夢でも見ているのか、突然笑い出す。


「じゅ、珠麗様……?」

「夏蓮んん……」


 肩に触れて起こそうとしたが、ぽつんと漏れた寝言に、思わず指が止まった。


「ありがと……」


 その後もふにゃふにゃと何事かを呟き、やがて口を閉じる。

 すぐにまた、穏やかな寝息が響きはじめた。


「…………」


 安心しきって眠る珠麗を、じっと見下ろす。

 一度は裏切ってしまった主人。

 手放してしまった、大切な人。


「……珠麗様は、一度として、私を責めはしないのですね」


 夏蓮は寝台から薄手の上掛けを剥がし、ほっそりとした珠麗の肩に掛けた。

 この四年で、夏蓮の主人はすっかり華奢になってしまった。


 だというのに、彼女は夏蓮に対して、恨み言のひとつも告げたことがない。

 夢の中でまで、ありがとうと呟いて。


(やはり私には、自分の意思なんていらないのです、純貴人)


 そうっと筆や紙を避けてやりながら、夏蓮はひっそりと微笑んだ。


(私はただ、珠麗様のお傍にありたい)


 この、底抜けに優しくて、危なっかしい人の傍に。


 彼女が望むなら、夏蓮はどんなことでもする。

 外の世界を望むなら、そこが貧しくとも苦しくとも、必ず付いていこう。

 だから、これでいいのだ。


「やだ。珠麗様ったら、頬に墨が付いています」


 と、机の上で向きを変えた主人の顔に、墨の跡を発見し、思わず吹き出す。

 どうやら、下敷きにしていた紙の墨が移ってしまったようだ。


「手紙を書かれていたのですか?」


 紙を回収し、そのとき視界に飛び込んできた文字に、思わず目を見開く。

 そこには、すっかり達筆になった字で、夏蓮へ、とあった。


 いつも本当にありがとう、と。


「まあ! わざわざ私宛てに――」


 ただしその後に、こうあった。


 ――これまでお世話になりました。


「手紙――をん?」


 思わず、ドスの効いた声が漏れる。

 獣を狩る韋族の娘にふさわしく、夏蓮は猛禽類のように鋭い目つきになった。


 見れば、主人の手の中には、まるで隠すようにして小さな紙片が握られている。

 そっと引き抜き、折りたたまれたそれを開いてみれば、ごま粒ほどの文字で、脱走の日時と落ち合う場所についての指示が書かれていた。

 いつの間にか、外部の仲間と連絡を取り合っていたらしい。


 察するに、今日の自誠とのやりとりで、いよいよ包囲されていることに危機感を抱いた珠麗が、夏蓮に書置きを残そうとしはじめた、というところか。


 誰より大切な主人。

 願いをすべて叶えてあげたい、至上の相手。


 けれどまさか、こんな紙切れ一枚で、自分のことを切り捨てようとしていただなんて。


「ふうん……?」


 肉食獣のような目つきのまま、唇だけを持ち上げる。


「へええ……?」


 すやすやと眠る珠麗の傍で、大層不穏な呟きが漏れた。



***




「夏蓮んん! 助けてってばあ! あれっぽっちの金子しか残せなかったのは、反省してるからあ!」

「金額の問題ではございません」


 紅香や蓉蓉たちに両脇を抱えられ、ずりずりと後宮へ引きずられてゆく主人に、夏蓮は淡々と告げた。


 清明節の昼下がり、門前市のことである。

 数日前から怪しげな動きを見せ、この日とうとう脱走を決めた主人を、夏蓮たちは捕獲したところであった。


 まったく、これだけ皇帝と、公主と、妃嬪や女官まで執着させておきながら、よくも脱走できると思ったものである。

 夏蓮はずっと彼女を泳がせていたのだったが、結局珠麗が相談のひとつもなく脱走を決行したのを見て、事前に準備していた通達手段を用い、自誠たちをこの場に呼び寄せたのであった。


「珠麗様には、一度身をもって、私たちの想いを知ってもらわなくてはなりませんね」


 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、貴人たちにがっちり拘束されている珠麗を見つめ、ぽそりと呟く。

 すると、それを聞き取った静雅が振り返り、歩調を緩めて隣に並んだ。


「二度目の忠誠の尽くし方について、心を決めたようね?」

「はい。純貴人様の仰るとおり、これまでの私は甘かったようです」


 夏蓮は前を――珠麗を見つめたまま、無表情で頷いた。


 外の世界で自由に過ごすのと、後宮の中で不自由なく暮らすのでは、どちらが珠麗のためになるか、夏蓮には結局のところ、判断できない。


 けれどひとつ、わかったことがある。

 珠麗が外の世界に戻るとき、その隣に、自分の居場所はないということだ。


 珠麗が病に苦しもうが、貧しさに喘ごうが、男に甚振られようが、夏蓮はそれを知ることすらできない。

 夏蓮にとって、その事実はひどく恐ろしいものに思われた。


(誠に勝手ながら、珠麗様。私は、私の思う方法で、あなた様を幸せにさせていただきます)


 たしかに、焼き印を許した男に抱かれるのは恐ろしいだろう。ならば、伽を妨害しつづければいいのだ。

 自由は少なかろう。けれどそれなら、権力を握ればいい。

 皇帝まで言うなりにできれば、きっと、貧民窟にいるよりも広い行動範囲と、権利を手に入れられる。

 そして焼き印という「皇帝の泣き所」を持つ珠麗には、それができるのだから。


「と、とりあえず、もう逃げないから、手を緩めてくれないかしら! 恥ずかしいから! さすがに恥ずかしくて死んじゃうから!」

「公主殿下、ならびに貴人様方。主人は、もっと強く抱きしめてほしいそうです」

「夏蓮んんんんん!?」


 珠麗の懸命な主張を爽やかに棄却しながら、夏蓮は後宮に戻る道を進んだ。

 そう、「戻る・・」のだ。「足を踏み入れる」のではなく。


「これからも、よろしくお願いいたしますね、珠麗様」


 一度目とはまるで変っていないようで、がらりと変わった、二度目の忠誠。

 夏蓮は静かに、口元を綻ばせた。




************************

なろうさまでは「気に入るつもりじゃなかった―宇航―」という別バージョンの閑話を投稿しておりますので、よければそちらもお楽しみくださいませ。


また、「監禁エンドなんて嫌だ!」「礼央とのいちゃラブを…!」といったお声も多く頂いたので、

超頑張って、「脱出成功!礼央とのいちゃラブEND♡」も書いてみました!

こちらは明日投稿させていただきますので、ぜひぜひお楽しみください。

なんか…ズルズルとすみません。笑

でも、我ながら結構いい出来なのではと思うので、読んでやってください。ぜひ!


さて、サブタイトルですでに言いふらしてしまっている感がありますが、

お陰様で、本作の書籍化とコミカライズが決まりました!

書籍は富士見L文庫さま(イラスト:新井テル子先生)、

コミカライズはスクウェア・エニックスさまです。

素敵な作品がお届けできるよう、全力を尽くしますので、どうぞ楽しみにしていてくださいませ。


なお、刊行予定や次回作投稿予定などは、Twitter(中村 颯希@satsuki_nkmr)でも随時告知予定ですので、お時間あればご確認ください。

改めて、ご声援をありがとうございました!

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