36.後宮も二度目なら(6)

「恵嬪・珠麗――!」


 誰もが硬直する中、最初に地を蹴ったのは、驚くべきことに、自誠だった。

 彼は扮装であるはずの武官装束に恥じぬ速さで珠麗のもとへ駆けつけると、勢いよく彼女に手を伸ばした。


「ひえ……っ!」


 焼き印を検める気だ――!


 珠麗は咄嗟にびくりと肩を揺らし、胸元を庇う。

 なにしろここ最近ずっと、正体がばれたら処刑されてしまうと怯えて過ごしてきたのだ。

 濡れ衣が晴れたと理解はしても、後宮の人間に迫って来られると、本能的な恐怖が先立った。


「や、やめて! 無理無理無理!」


 伸ばされた腕が触れるまで、あと少し。


「後生だから見ないで……って、え……?」


 きつく身頃を合わせ、ぎゅっと目をつぶった珠麗だったが、いつまで経っても衣が剥かれる気配がないので、ゆっくりと薄目を開いた。

 自誠の手は、珠麗の二の腕を掴んでいた。

 そうして、呆然とした表情で、こちらを覗き込んでいた。


「恵嬪・珠麗……」


 傍らの礼央が、不敬にも自誠の首元に短刀を突きつけていたが、それすらも視界に入っていないようである。


 やがて礼央は、鼻白んだように溜息をついて刀を引いたが、その間も、自誠は食い入るように珠麗のことを見つめていた。


「君、だったのか……」


 完璧な形をした目が、何度も何度も珠麗の姿をなぞる。

 恐る恐る、といった様子で手が伸ばされ、頬に触れたとき、思わず珠麗はびくりと肩を揺らした。


「ひっ」

「すまない」


 まるで、唇からこぼれてしまったとでも言うように、謝罪の言葉が響く。


「……すまなかった」


 この男には珍しく、ひどく朴訥とした声であるような気がして、珠麗はどぎまぎとした。

 今のは、単純に、断りなく頬に触れたことへの詫び、であったのだろうか。


「え……ええと、ち、違うんです。私は、珠麗とかいう人ではなくて、そっくりさん――」

「いいや、宝 珠麗だ」


 往生際悪く反論しようとしたが、自誠はきっぱりとそれを遮った。

 のみならず、自誠は、珠麗の存在を確かめるように、ぐいと顔を持ち上げた。


「焼き印など検めずとも、わかる。気付かないほうが、どうかしていた。顔も、声も違うが……こんな無謀で、風変わりで、突拍子もないことばかりをしでかす女性なんて、君しかいない」

「そ、そんな納得の仕方って……!」


 珠麗が半泣きになっていると、傍らの礼央が不機嫌そうに言い添えた。


「僭越ながら、殿下。そんな、肉をちらつかされた獣のような形相で迫られても、女性は怯えるだけです。危害を加えるつもりでないなら、粘着質に頬に触れているその御手を、さっさと離されるべきかと」


 形ばかり敬語だが、まるで敬意が籠もっていない。


「誰が獣だと?」

「鏡がお入り用で?」

「べつに粘着質に触れてなどいない」

「ならとっととお離しやがりになられては。この怯え顔が目に入りませんか」


 自誠と礼央は、冷え冷えとした表情で応酬を交わしたが、やがて自誠は、ずっと珠麗の頬を撫でていた己の手を不思議そうに見下ろしながら、拘束を解いた。


「もちろん。怯えさせるのは本意ではない」

「あの……」


 珠麗は心臓をばくばくさせながら、口を開いた。


 今、皇太子は、怯えさせるのは本意ではないと言った。

 それはつまり。


「わ、私、……もう、処刑されない、っていうことで、いいですかね……?」

「なんだって?」

「追放されたのに戻ってきてしまったじゃないですか。そのことで、そのう、斬首とか、そういうことは、ない……です、よね?」


 おっかなびっくり確認すると、自誠は信じられないとばかりに、再び珠麗の傍に跪き、肩を揺さぶった。


「当然だろう!」


 なぜだろうか。

 普段は静かに話す人なのに、珠麗の前だと彼は声を荒らげることが多い気がする。


(でも、よかった……! 私、もう、無事なんだ……!)


 珠麗は、心臓を掴んでいた手が一気に緩んだような心地を覚えた。

 全身の力が抜けそうだが、思い切って質問を重ねてみる。


「あ、あのっ、ついでに、正体を知られたくないばかりに、偽名を使ったり、嘘もいろいろついたりしたんですが、そのあたり、妃嬪様方や、蓉蓉や夏蓮にも、ご容赦いただけますかね……っ?」

「当たり前ではございませんか!」


 女たちへと振りむけば、こちらも力強い肯定が返った。


「あ……っ、当たり前では、ございませんか……っ」


 いや、夏蓮に至っては、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。


「珠麗、様……!」

「わああ! ちょっともう、泣かないでよ!」


 夏蓮はしゃくりあげるし、妃嬪たちは涙ぐんでいるし、自誠は肩を掴んでくるし、ついでに周囲に残った太監たちもおずおずと叩頭してくるしで、もう大騒動である。

 根が小心者の珠麗は、大量に冷や汗を浮かべた。


 礼央だけが、この愁嘆場をつまらなそうに横目で流し、肩に降りてきた小黒を撫でているが、そんな余裕があるなら、この誰もかれもが取り乱した状況をどうにかしてほしいと珠麗は思った。


 いや――。


 その中でたった一人、凍り付いたように、立ち尽くしている者がいる。


「…………」


 目を見開き、いつまでも動かないその人は、楼蘭であった。


 ふと顔を巡らせた珠麗と視線が合うと、彼女は動揺したように小さく肩を揺らす。

 可憐な唇を開きかけ、でもまた閉じて。

 結局なにも言えないでいるその姿が、かえって、彼女の受けた衝撃の強さと、葛藤の深さを思わせた。


 いつでも穏やかに微笑んでいた楼蘭。

 けれどその内側に、悲鳴と怨嗟とを隠し持っていた彼女。

 だからこそ、わかる。

 今、無言で佇んでいるその内側では、感情の波が荒れ狂っているのだと。


 互いに黙って見つめ合っていると、それに気付いた周囲が徐々に涙ぐむのをやめ、やがて、その場はしんと静まり返る。

 その頃には自誠も抱擁を解き、楼蘭を振り返った。


「……自刃じじんを」


 長い沈黙の後、楼蘭が切り出したのは、そんな言葉だった。


「許可してくださるなら、そういたしますわ」


 声はか細く、淡々としている。

 瞳は静かに凪ぎ、心の内をまるで読み取らせなかった。


「だからどうか、家族はお許しを。咎はわたくしだけに負わせてくださいませ。すべて、わたくし一人が企み、実行したことです」


 静かな主張を聞き取ると、自誠は再び、珠麗に向き直った。


「後宮法に照らすなら、讒言ざんげんでほかの妃嬪を陥れた者には、自害が妥当だ。ただし、偽った内容は陛下に関わるものであるため、さらに重刑を課すこともできる。もしそれで君の気が晴れるなら、判断は君に任せるよ。心苦しいなら、もちろん僕がする」


 破格の申し出である。


 だが、突然人命を握らされた珠麗は動揺した。

 縋るように礼央を見るが、肩を竦められて終わる。

 彼からすれば、見知らぬ女の命などどうでもよいのだろう。

 いや、どちらかといえば、仲間の珠麗に肩入れしているのか。

 彼が唇の動きだけで付け加えた返事は、「殺せば?」だった。


 気づまりな沈黙が続く。

 珠麗は、無言で佇む楼蘭のことを、じっと見つめた。


 いつも穏やかで、家族思いで。

 頭がよく、微笑みが天女のように美しい、自慢の友人だった女のことを。


「四年前……なぜ、私を陥れたの?」


 気付けば、問いはぽろりと口から零れ落ちていた。

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