35.後宮も二度目なら(5)
「なにが変わるか、だと……?」
自誠がぎらりと表情を険しくする。
めったにないことに、その声には、明らかな怒りの色が滲んでいた。
「罪の深さも、その肩書も、大きく変わるだろう。君は、無力な被害者などではない。なんの罪もない女性を陥れ、それを踏み台にして階位を得た、卑劣な悪女だ」
「そう。では、それ以外にどうすればよかったのです!?」
楼蘭もまた、突如激高したように叫び返した。
ぐしゃぐしゃにした手紙を乱暴な手つきで開くと、彼女はそれを地面に叩きつけた。
「この檻の中で! 誰かに助けを求めればよかったの!? 天下で最も尊い存在になぶられていると、清廉潔白な太監長に脅されていると、架空と思われている『烏』に一族の命を狙われていると、誰に訴えれば!?」
その激しさに、息を呑む。
珠麗でさえ、圧倒されて口をつぐんだ。
楼蘭のきつく握りしめた拳は、小刻みに震えていた。
「家族さえわたくしを救えなかったのです! いいえ、それどころか、救いを求めたからこそ、わたくしは一族の命を危機にさらした。夜ごと、暴虐になった陛下に首を絞められようが、虫を這わされようが、針を突き刺されようが、黙って耐えるしかなかった! 一人で、戦うしかなかった……!」
おぞましい告白に、一同が顔色を失くす。
手紙を拾い上げた蓉蓉は、その文面に目を通し、喉を震わせた。
「お兄様……。これは、……これは、あまりにも……」
「階位を上がれば、伽を断りやすくなる。流産すれば一年は召されずに済む。生きるためにそうして、なにが悪いのです!? そう、殿下とて、保身のために彼女を見捨てたのではありませんか!」
鋭く叫び、楼蘭は自誠を睨みつけた。
「白豚妃様が冤罪にかけられたとき、殿下が正体を明かしてその強権を揮えば、無罪放免とすることもできたはず。けれど殿下はそうしなかった。ほかの女と同様、いやらしく媚びてきたから? それもあるでしょう。けれど本当は、潜伏をまだ続けたかったからですわ!」
「……やめてくれ」
自誠が唸るような声を上げる。それでも楼蘭はやめなかった。
「ふふ、わたくしが卑劣な悪女なら、殿下はどうなのです? 善良な彼女……
「……焼き印は胸元に変えさせた。少しでも、生き延びられるようにだ」
「同じことですわ! 結局彼女は死んだ! 殿下が殺したのです!」
「祥嬪!」
自誠は、吼えるようにして楼蘭の名を呼んだ。
いつも余裕の微笑みが浮かんでいるはずの美貌が、今や、強張っていた。
「それ以上、言わないでくれ」
「あらまあ。罪の意識にさいなまれていらっしゃいますの? 誰にも心を許さぬ、冷酷なあなた様が、珍しいこと!」
低く押し殺した自誠の声にも、楼蘭は引かない。
自誠の目が一層剣呑に細められ――するとそこで、不思議なことが起こった。
ふいに太陽に雲がかかり、あたりが薄暗くなったのである。
まるで、荒ぶる皇太子の心に天が寄り添ったかのような光景に、周囲は不安げに空を見上げた。
皇族は、天の申し子。
天華国の民なら誰もが抱くその認識が、強い恐怖を連れてきたのだ。
(えーっと、えーっと、えーっと……!)
珠麗もまた、動揺する者の一人だった。
美形二人のすごみ合いは、なんというか迫力が違う。
すっかり気圧されてしまい、脱出云々も忘れて、非難合戦を追いかけることしかできていなかった。
(なんか、暗雲まで立ち込めて、すごい愁嘆場感なんですけど! しかもこれ、私をめぐって言い争っている……っていうことで、合っているのよね?)
本人、生きてますけど。
真っ先に浮かぶ感想はそれだが、二人の醸し出す深刻さと温度差がありすぎて、ちょっと言い出せない。
(え? え? ちょっと待って、これってもしかして、濡れ衣晴れちゃった感じ? 正体ばれても、もう処刑されない感じ? いや、でも経緯はどうあれ、追放された人間が後宮に戻るのって重罪だから、法規的にやっぱりだめ? どっち?)
なにしろ、有力人物の執り成しがあれば毒殺未遂も追放で済み、盗難のような軽犯罪でも、対象が贄であれば処刑になる、複雑怪奇な後宮法だ。
まだ状況は見極められぬと思い、珠麗はどきどきしながら応酬を見守った。
周囲の音声が消え失せるほどに、二人を凝視する。
眉根を寄せる自誠の前で、楼蘭は泣き笑いするような表情を浮かべ、叫んでいた。
「そうよ、わたくしは罪を犯した。この後宮で唯一善良だった女性を、自分のために陥れた。けれど、それはこの場にいる皆も同罪ですわ!」
震える指先で、彼女は観衆を一人一人指さしてみせる。
「庇護されておきながら、主を信じ切れなかった女官も! 心のよりどころにしておきながら、累が及ぶのを恐れて見捨てた妃嬪も! 気に入っておきながら、誤解のすえ蔑んで、手を下した殿下も!」
そして、と、楼蘭は血を吐くような声で断じた。
「わたくしたちの誰も、もう二度と、彼女を取り戻すことはできない!」
白い頬を、すうっと透明な雫が滑り落ちてゆく。
状況も忘れて、珠麗はその涙に見惚れた。
まったくなんて、天女のように美しい涙を流すのだろうと、しみじみ思った。
――だが、しみじみしている場合ではなかったのだ。
「……珠珠様」
そのとき、女官の夏蓮がかすれ声で珠麗に囁きかけたのは、これ以上黙っていることが耐えがたかったからだ。
自責の念に押しつぶされそうで、だから彼女は、目の前の主に尽くすことで、なんとか息苦しさから逃れようとした。
行きがかり上、すっかり看護も中断されてしまっていたが、主は毒を受けたうえ、胸元からも出血しているようなのだから。
「今は、事態の追究よりも、お手当てを。胸元からも――」
楼蘭たちのやり取りに全神経を集中させた結果、不如意になっていた珠麗の両手。
それがずっと握り合わせていた身頃は、夏蓮が裾を引っ張れば、するりと抵抗なく緩んだ。
その下から現れ、夏蓮の目を惹きつけたのは、
「出血、が……」
痛ましい傷よりも――引き攣れた、火傷の痕。
「え……?」
そこだけ色の変わった皮膚には、「非」という文字が刻まれているように見えた。
人に
罪人であることを示す、文字。
「なぜ、罪人の焼き印が!?」
「あ……っ!」
気付いた珠麗は、ばっと身頃を合わせたが、もう遅かった。
驚いた夏蓮が、素早く叫んでしまったのだから。
「ちょっ、あ、あーっ!」
まずい。
致命的だ。
珠麗は青褪めながら勢いよく夏蓮の口を塞いだものの、それで事態をなかったことにできるはずもない。
「焼き印?」
「胸元に、焼き印ですって?」
三貴人と蓉蓉は一斉に顔を上げ、礼央は無言で天を仰ぎ、そして楼蘭と自誠は、大きく息を呑んだまま、珠麗を振り返った。
「あ、はは……」
きつく身頃を合わせ、ぎこちない笑みを浮かべている女。
後宮でもめったに見かけないほどの色白の美女であったが――そう、それほどに白い柔肌を持つ女を、自分たちはもう一人、知っているのではなかったか。
「ち、違うんですよ、これは、ええと……、生まれつきの、痣っていうか」
嘘が下手な女。
すぐに感情が顔に出てしまう、素直な女。
そのくせ、ときどき周囲が驚くほど頑固で、向こう見ずになる。
「ほ、ほら! 皆さん、重大なお話し合いをしていたじゃないですか! 今、恐ろしい陰謀のほうを追究すべき局面じゃないですか。私のことはどうぞ捨て置いて、お話の続きをしてください! 話の腰を折ってすみませんでした!」
あっさりと朱砂の毒を見破ってみせた彼女。
やけに花街の事情に通じていた――。
「もしや……」
夏蓮が、唇を震わせた。
夜空のような瞳いっぱいに涙を見つめ、目の前の主を見つめている。
もしや――いつも夏蓮を導き、守ってくれる、かけがえのない彼女は。
「信じられない……」
三貴人たちが、蓉蓉が、愕然として呟く。
彼女たちは大きく目を見開くと、じわじわと、興奮で頬を赤らめていった。
「こんなことって……」
楼蘭もまた、手で口を覆い。
自誠は雷に打たれたように立ちすくみ。
そうして、その場にいた者たちは、祈るような声で彼女の名を叫んだ。
「
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