34.後宮も二度目なら(4)

「花街?」


 思いがけず飛んだ話題に、周囲は眉を寄せる。

 だが、それをよそに、珠麗は花街での日々を思い起こしながら、必死に言葉を手繰り寄せた。


「一口に花街と言っても、楼の格や繁盛の具合によって、妓女の境遇は様々です。貧しい楼では、毎日低額でも客を取らねば、とてもやっていけない。妓女の懐妊は『商品』の汚損でしかなく、それゆえ、妊娠がわかると妓女は必ず堕胎を迫られました」


 花街一の権勢を誇り、いつも華やかだった朱櫻楼。

 けれどその一画から少しでも離れれば、そこには貧しさと苦しみが溢れていた。

 性病で肌をただれさせ、がりがりに痩せこけた女たちが、それでも日々の糧を得ようと客引きをしていたのだ。


「楼に財があれば、上等な堕胎薬が処方されます。上等とはつまり、医者が処方した、母体を傷付けにくいものという意味です。でも、貧しい楼ではそうはいかない。妓女は毒を飲み、あえて体を傷付け、子を流しました」

「……なぜ今、そのような話を」

「とはいえ、毒を常備していては、役人に検挙されてしまう。隠しても摘発されてしまう。そこで楼は自然と、独自の毒を生み出しました。いいえ、見出したというべきか。堕胎の毒は、身近なところにありました。頬紅です」


 あの、恐ろしいほどに鮮やかな朱色を思い出す。

 どこもかしこも朱色に彩られた花街の光景。朱色は栄華の色であり、血の色であり、毒の色だった。


「頬紅を熱して溶かすと、美しい銀色の水が得られます。これは常温に戻っても、液体の姿から変わることはありません。そしてそれを含むと、体中に鉱毒が行き渡り、子が流れるのです。ただし、量が多すぎて、苦悶の内に自身が死に絶えてしまう女も多かった」


 羽振りのよい朱櫻楼では、見かけなかった。

 けれど、すぐ隣では、ありふれた光景。


「そこで女たちは、ごく自然な発想で、微量の水銀を毎日少しずつ含めば、避妊の効果が得られるのではないかと考えました。一度に多くを取るからいけない、慣らせる程度に毒をその身で飼えばよいのだと。たしかに、水銀で即死する妓女は減りました。けれど一時期花街で流行ったこの考えは、数年をかけ、とんでもない悲劇を引き起こしました」


 真っ先に、自誠が話の先を悟った。

 聡い蓉蓉も、博識な純貴人も。


 皆が息を呑む中、珠麗は淡々と続けた。


「微量の水銀は、即座に命を奪うことはない。けれど飲んだ者の想像とは異なる形で、数年後、その身を蝕みました。ある者は下血が止まらなくなり、死んだ。ある者は骨が砕けて背が縮み、またある者は体中の痛みに、何年も苦しみ抜いた末に死にました」

「…………!」


 大臣たちもまた、顔を見合わせた。


 彼らは今、ここ数年の皇帝の様子を思い出しているのだろう。

 珠麗も脳裏では、楼蘭による描写をなぞっていた。


 ――陛下は獣になられた。老いさらばえた獣のように身を丸め、呻いてばかり。


 始終身を丸めて呻いていたのは、その全身を襲う痛みからだろう。

 水銀を含んだ者の多くは、骨がもろくなり、体を支えられなくなるから。


「またある者は徐々に残虐になって、周囲の者を刺して回り、逆に殺されました。いずれも、獣のように、涎を垂らしつづけていたと聞きます」


 ――だらだらと涎を垂らし、妄想に取りつかれては怒り狂っておいでです。


 水銀はまた、脳をも蝕む。

 譫妄せんもうに陥り、判断力を失い、ときに残虐になるのだ。

 感情の制御が効かなくなり、烈火のごとく怒り狂う。


「まさか……」


 楼蘭が、食い入るようにこちらを見つめている。

 彼女が震える指先で、赤い玉の耳飾りに触れたのを見て取ると、珠麗はそれを耳から奪い取った。


「頬紅の主原料をご存じですか? 朱砂。赤く透き通った、とてもきれいな鉱石ですよ。熱すれば銀色に輝く水となり、もっと熱すれば再び紅の色を取り戻し、さらに過熱すれば、再び銀の水の姿になる。まるで、何度となく美しく蘇る、不老不死の石!」


 大きく目を見開いた一同に向かって、玉を突きつける。

 美しく、いかにも神秘的な赤い玉。

 皇帝がありがたがって口にし、屈強な「烏」では、半年服用してもその害に気付けなかった、恐ろしい毒の塊を。


「けれど、この美しい鉱物は、猛毒です。長い時間をかけて蓄積し、ある日を境に心身を蝕む。太監長、あんたは、恐れ知らずにも陛下に毒を盛って、正体を失った尊きお方のことを、操ったのよ!」


 裂帛の叫びは、白泉宮の敷地中に響き渡った。

 誰もが凍り付いたように沈黙する中、やがて袁氏が、顔を真っ赤にして怒鳴った。


「でたらめだ!」


 口角に泡を飛ばし、大きく腕を振り上げている。

 それはまるで、怒り狂ったというよりは、追い詰められた獣がめちゃくちゃに暴れるような姿であった。


「私は陛下を救ったのだ! 私の差し出す金丹だけが、陛下の心身を癒せる。だから『烏』も私を殺さなかったのだろうが! 女の浅知恵で、でたらめなことを言いおって!」

「朱砂と一緒に、痛みを麻痺させる麻沸散でも混ぜていたんでしょうよ! 安上がりな金丹だこと!」

「この、女ぁあああ!」


 ――恐れているのだ。


 珠麗はふと悟った。


 袁氏は恐れている。

 己の手口が露見することを。

 なぜなら、「烏」に知られては、己の命が危ういから。


 恐怖は人から冷静な思考を奪い、同時に、怒りよりも強い力をもたらす。

 明らかな悪手だとわかろうものなのに、袁氏は脇に差していた剣を引き抜くと、勢いよく珠麗に向かって突進した。


「その口を、閉じろおお!」


 ――キ……ンッ!


 澄んだ音の発生源は、二つあった。

 ひとつは、素早く珠麗を後ろ手に庇い、袁氏の剣を弾き飛ばした自誠の剣。


 もうひとつは、


「な……っ!?」


 袁氏の右腕に絡んだ、細い糸だった。


 細い糸は、ピンと伸びた状態で、塀の上に続いている。

 後宮を取り囲む重厚な塀の瓦に、一人の青年が立っていることに、そのときようやく人々は気付いた。


「『烏』の頭領より、伝言である」


 黒づくめの恰好をした青年は、黒曜石のような鋭い瞳を冷ややかに細めている。

 彼が糸を引くと、まるで操り人形のように、袁氏の腕が、くんっ、と持ち上げられた。


「陛下が長年愛用されている金丹、その原料である朱砂は、微量であれば即効性の毒とはならない。だが、長期にわたり蓄積すれば、気性を火のごとく荒らげ、判断力を失わせる作用があることが認められた」

「ひ……っ」


 太監長が青褪めて、その場でじたばたともがく。

 だが、糸は緩むどころか、衣をすうと断ち切って、少しずつ、右腕へときつく巻き付いていった。


「や、やめ……っ」

「よって、太監長の右腕をして金璽を持たせよとの陛下の命は、無効であると、『烏』は判断した。その右腕は、金璽を揮うに値しない・・・・


 ぎんっ! と曇った音が響き渡ったとき、その場にいた女たちは、一斉に悲鳴を上げた。


「ひ……っ」

「ぐあああ!」


 糸から解放された・・・・・袁氏は、血を噴き出す腕を押さえながら、その場でのたうち回った。


 大音量の悲鳴をそよ風のように聞き流しながら、黒づくめの青年――礼央は、音もなく地に飛び降りる。

 そのまま自誠の前に跪くと、真っすぐに顔を見上げた。


「皇太子殿下。本題のみ申し上げます。薬と称して毒を差し出していたこの者の罪は、法では裁ききれぬゆえ、取り調べの後は、『烏』に処罰を任せてほしいと、頭領の願いです。もちろん、おめおめと陛下を毒に晒した『烏』の手落ちについて、処分は殿下にお任せしますゆえ」

「……結局、君は、『烏』の後継者ということでいいのかな?」


 突然の展開に、周囲はすっかり度肝を抜かれていたが、そんな中でも自誠は冷静だった。

 片方の眉を上げ、首を傾げてみせた皇太子に、礼央もまた、ふと口の端を引き上げる。


「今はただの伝言役。継いではいません」


 それから、挑戦的に相手を見つめたまま、付け足した。


「継ぐべきかどうかの、見極めも済んでいない」

「へえ。君の『試し』を、僕は生き延びたように思うけど」

「あんなので足りるものか」


 両者は静かな火花を散らし合ったが、やがて自誠のほうが先に視線を逸らした。


「まあ、いい。それよりも、今はやるべきことが山積している」


 彼は、すっかり硬直している面々に向かって大きく手を打ち鳴らすと、次々に指示を飛ばした。


「見ての通り、袁氏による恐るべき陰謀が明らかになった。陛下の命に係わる重大事であるゆえ、儀は即刻中断し、本件への取り調べを最優先する。武官たちは直ちに袁氏を捕らえよ。大臣たちは急ぎ本宮に戻り、陛下のご体調の確認、および、会議の招集を。太監たちは後宮中の妃嬪候補に儀式の中断を伝え、宮にて待機させるように」


 明確な指示に、ぼんやりとしていた人々もようやく、目が覚めたように動き出す。


「そして太監副長は、急ぎ、医官を呼ぶように。毒を盛られた珠珠を、国賓として丁重に診させてくれ」

「へっ!?」


 流れで一連の出来事を見守るしかできなかった珠麗は、ここにきて唐突に話を振られ、びくりと肩を揺らした。


「な、なぜに、国賓扱い!?」

「もちろん、本件解明の立役者だからね。逃がすわけにはいかない……もとい、丁重に遇さねば」


 目が合うと、自誠は悪戯っぽく微笑む。

 甘い声と微笑みには、普通の女であればくの字で吹き飛ばされるような色気があったが、珠麗は青褪めるだけだった。


(ど……っ、どっ、どど、どうすれば……っ)


 自誠の用意する看護態勢なんて、袁氏が用意するそれ以上に隙がなさそうだ。


 というより、珠麗をこの場から連れ出してくれるはずの礼央まで、この場にやってきてしまっていて、もうなにをどうしたらいいのか、さっぱりわからない。

 いや、珠麗が刺されそうになったから、彼も出しゃばらざるを得なかったのだ、とは、薄々理解してはいるのだが。


 少し離れた場所に佇む礼央に、目で合図してみせるが、彼は珠麗との関係を周囲に悟られたくないのか、まるで視線を合わせてくれない。

 珠麗が、目が痙攣けいれんしそうなほど必死に瞬きをしている間にも、自誠が粛々と事態を進行させていた。


「――さて、祥嬪・楼蘭。君の処遇が、一番悩ましいところだ。君が長らく袁氏と共犯関係であったことは、武官に扮した僕自身と、麗蓉公主の目で確認している。一方で、被害者でもある。自身が複雑な境遇にあることは、理解しているね?」

「…………」


 楼蘭はゆっくりと振り返る。

 長年己を苦しめてきたかせから突如解放され、仇敵を裏切り、糾弾し。

 返り討ちに遭いかけ、けれど恐るべき真実を知って、とうとう仕留めた――。

 この短時間に、あまりに膨大な刺激にさらされ、感情を使い切ってしまったように見えた。

 ぼんやりとしている。


「……家族に累が及ばぬならば、殿下のお気が済むよう、処分なさって結構ですわ」


 ふと彼女は、手に握りしめた手紙に視線を落とすと、それを指でなぞった。

 その感触を、疑うかのように。手紙は――これまでずっと彼女を苦しめてきた枷は、こんな軽いものだったのかと、驚くように。


「……これほどあっけなく、片付くものだったのですね」


 ぽつりと漏らした言葉が、彼女の想いのすべてであった。


「朱色の玉の正体に、もっと早く気付いていれば。陛下の変貌を、症状として捉えられていれば。錬丹術を知っていれば、……こんなに、苦しむことはなかった」


 三貴人たちは、その独白に複雑な表情で聞き入っていたが、蓉蓉と自誠は、難しい顔つきになった。


「被害者であることは認めますけれどね、祥嬪。第三者からすれば、あなたとて加害者であることは間違いありません。そしてその悪行は、必ず償われなくてはなりませんわ」

「それに、単に袁氏に脅されていたからというには、君はやけに権力に執着していたようだし、やり口も巧妙だった。君自身の意志で実行した悪事も、あるね?」


 自誠は、なにかを覚悟するような間を置いてから、慎重に尋ねた。


「教えてほしい。君が嬪に昇格する原因ともなった、流産の一件……あれは、狂言だったのかを」

「…………」


 楼蘭はしばし、黙っていた。

 それからふと唇を綻ばせ、やっていられないというように、手紙を握りしめた。

 自暴自棄な笑みだった。


「そうだと認めたら、なにが変わるのです?」

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