32.後宮も二度目なら(2)
(どっ、どどっ、どどどっ、どうしよう!)
一方の珠麗は、相変わらず夏蓮によって石畳に横たえられたまま、急速に悪化の一途をたどる事態に青褪めていた。
一人きりになるどころか、皇太子ご一行にかち合ってしまい、人目の多さといったらこれ以上ないくらいだ。
この状況下で、いったいどうしたらこっそり逃亡できるというのか。
(もう正午になるのにいい!)
そのへんの塀の上から、
礼央の命を破るのも、もう二度目だ。
さすがに見捨てられる気がする。
だが、そんな懊悩など露知らず、完全に着火してしまった
「あなたにも事情があるのかと、ことを見守っていましたが、これ以上の我慢はなりません。わたくしの大事な友人に手を出したその罪、まずは詫びて償いなさいませ」
「まあ、乱暴ですこと。お母君の威を借りてご満足ですか? ここは後宮、皇族の妻と側室にだけ居住が許される場所。公主であるのに身分を偽り、殿下と結ばれるつもりもないのに後宮に忍び込んだあなた様が追放されるのが、先ではございませんか?」
だが、楼蘭も負けてはいない。
とにかく敵は排除、隙あらば追放、と巧みに話を持っていくその姿勢には、いっそ感嘆するほどである。
というかもう、この場で珠麗を後宮から逃がしてくれるのは、彼女をおいてほかにいない感すらある。
「痴れごとを! わたくしは、厳粛な
「まあ」
楼蘭はあくまで淑やかに首を傾げた。
「鏡を割った相手を諭し、墨をこぼした粗相を嗜め、労りの酒を贈ることのどこが、妨害と? 毒にいたっては、わたくしはまったくの無関係です。その珠珠という方の、自作自演なのでは? 同情を引くため毒を盛られたと騒ぎ立てる、そんな汚らわしい者は、即座に後宮からつまみ出すべきですわね」
その通りである。
珠珠はもう、この場に楼蘭しか味方がいないような錯覚さえ抱きはじめた。
「そ、そう! そうなのよ!
「珠珠様!」
ぜひ追放の方向で、と申し出ようとしたが、夏蓮と、三貴人によって口を塞がれる。
「わたくしたちを守ろうとしているのでしょうが、庇い立ては無用です」
「必ず祥嬪様を、打ち破ってみせるわ」
「なので、被害を隠さずとも大丈夫ですわ」
闘志に輝く瞳に、珠麗は絶望を覚えた。
燃え上がった善意ほど厄介なものはない。
「あなたの主張を整理しましょう、公主・麗蓉様。祥嬪様は、揺籃の儀に際して妃嬪たちに数々の妨害工作を行い、かつ、そちらの珠珠殿に、毒を盛ったというのですね」
「ええ。珠珠さんは彗星のように現れ、二日目にして上級妃候補にまで頭角を現した、優れた女性。それを脅威に感じての犯行に違いありません」
郭武官と蓉蓉、いや、皇太子とその妹は、息の合ったやり取りで、着実に弾劾を進めていく。
そこで蓉蓉は、ちらりと
「ですが、妨害や犯行は、あなたひとりの力によるものとは思えません。殿下は、後宮全体の浄化をお望みです。祥嬪。あなたに手を貸す共犯者――いえ、主犯かもしれません、その者は誰なのです? この場で告げれば、罰を軽減することも考えましょう」
どうやら、楼蘭に袁氏を告発させて、後宮の膿を出しきるつもりのようである。
三貴人や夏蓮もさっと立ち上がり、蓉蓉の前に跪いた。
「微力ながら、わたくしどもの証言もお役立ていただけるかと」
「感謝します」
今や、多勢に無勢。
楼蘭が罪を認めれば、太監長まで道連れにできる――。
「…………」
だが、楼蘭は袁氏の名を口にしようとはしなかった。
その顔は青褪め、拳は震えているのに、である。
「落ち着いてください、公主様。女同士のつまらぬ諍いに、なぜ首魁などいましょうか」
とそこに、やけにもったいぶった声が響く。
声の主は、袁氏その人であった。
「祥嬪・楼蘭は、
鷹揚に告げる彼は、その実、楼蘭に凄むような視線を寄越している。
「べつに、天下に不敬を働く
その含みを理解して、珠麗は息を呑んだ。
(そうか……。「女同士で
前者は降格、重くても後宮追放で済むが、後者となれば、一族郎党斬首である。
いまだに手紙を握られていると思っている楼蘭からすれば、この場で袁氏を告発することはできないのだ。
「さあ、この場は私めにご一任を。祥嬪から妨害された貴人たちには、評価を一段加味しましょう。毒を受けたという、珠珠。そなたには、私が責任をもって医官と、世話役の太監十名を手配し、昼夜を徹した完全な看護を約束しよう。これで手打ちとする――ということでいかがですかな?」
楼蘭が黙っているのをいいことに、袁氏はさっさと話をまとめようとする。
完全看護、という言葉を聞いた珠麗は、ぎょっと目を見開いた。
(そんなことされたら、ますます脱走が困難になるでしょ!?)
まったく、どうして誰もかれも、自分を一人きりにしてくれないのか。
――カア……ッ
ちょうどそのとき、空の片隅を黒い影が掠めて行ったのに気付き、珠麗はますます追い詰められた。
まずい。
礼央がもう、戻ってきている。
もはや一刻の猶予もない。
こうなっては楼蘭の言うように、この毒殺疑惑が自作自演であるとして、騒乱罪での追放を狙うほかないように思われる。
取り調べに投獄されるのでもいい。とにかく一時的に、一人になれれば。
だが、唯一自分を責め立ててくれそうな楼蘭はといえば、
完全に戦意を喪失している模様だ。
(お願い、しっかりして楼蘭! あんたが今ここで倒れたら、私の脱出計画はどうなっちゃうのよ! あんただけが頼りなのよ!?)
そのとき、重大なことを思い出した珠麗は、はっと懐をまさぐった。
そうだ。
礼央から渡された、その肝心の手紙を、まさに自分が持っているのではないか――!
「楼蘭! 楼蘭!」
ちょうど夏蓮たちが蓉蓉のもとに移動していたのをいいことに、向かいの楼蘭に小声で囁きかける。
ぼんやりと顔を上げた彼女に、珠麗は強引に手紙を握らせた。
「心配しないで。『烏』はもう、あんたを襲わない」
「え……?」
「これは、かつてあんたが書いた手紙よ。太監長の室から、取り返したの。あんたはもう、自由なのよ!」
発言が理解できないのか、楼蘭は目を瞬かせる。
掌に押し込まれた紙に触れ、呆然とした様子でその文面に視線を落とすと、彼女は大きく目を見開いた。
「…………!」
「あんたにあげるわ」
「なぜ、あなたが――」
「その話は後よ」
まさかここで正体を告げるわけにもいかない。
珠麗は瞳を揺らした楼蘭を遮り、本題を切り出した。
「引き換えに、私を助けてほしいの。いい? 太監長にこう反論するのよ。『私は毒なんて盛っていない、この女の自作自演だ』と。そうして、私を後宮から追い出してほしいの」
楼蘭は強く手紙を握りしめている。
涙の盛り上がった瞳で珠麗を振り返ると、震える声でありがとうと呟き、次の瞬間には、勢いよく立ち上がった。
「異議を!」
鈴を鳴らすような凛とした声で、高らかに告げる。
天華国の人間が誓いを立てるときのように、彼女は右手の三本の指を立て、真っすぐに天を示した。
「天地神明に誓って、わたくしは彼女に毒など盛っておりません!」
「祥嬪殿?」
突然の叛意に、袁氏が訝しげに眉を寄せる。
珠麗はというと、楼蘭を援護するように、「そうよそうよ!」とともに立ち上がった。
「そうよ! 祥嬪様は無実よ!」
「たしかに、白泉宮の貴人に当たりが強かったことはありましょう。けれど、わたくしはこれまで一度だって、直接誰かに手を下したことなどなかった」
「そうよそうよ!」
「おぞましくも遺骸に毒を仕込み、彼女を害したのは――
「そうよそう――」
勢いのまま同意しかけて、珠麗は息を飲み込んだ。
「はっ?」
愕然として振り返る。
そこは、「この女です!」と続けるべき場所ではなかったか。
軌道修正を試みるべく、楼蘭の袖を引こうとしたが、さりげなく振り払われる。
先ほどまでの怯えた態度から一転、枷であった手紙を取り返した楼蘭は、強い闘志を漲らせ、きらきらと、いや、ぎらぎらと瞳を輝かせていた。
「そこの珠珠なる娘は、儀の初日に太監長を侮辱しました。彼はそれに怒り心頭だった。だからこそ、女官の餞別のため白泉宮に豚を贈りたいと、わたくしが内務府に申し出たとき、毒を仕込んだ豚を用意したのでしょう。そうしてわたくしに罪をかぶせようとしたのです」
「ちょ、あの」
珠麗は焦った。
焦りながらようやく理解した。
自分は楼蘭の性質を、完全に見誤っていたのだと。
涙をこぼしながら人を処刑に追いやれる女が、足枷を外されたからといって、恩返しを優先するはずがない。
彼女は安堵して珠麗の脱走に手を貸すどころか、毒殺の濡れ衣を袁氏に着せて、真っ先に復讐を果たそうというのだ。
(性格が戦闘民族すぎるでしょおお!?)
美麗にして、苛烈。
反撃の機会を得るや、一気に相手の喉笛に食らいつこうとする楼蘭が、元友人だとか仇敵だとかを通りこして、一匹の狼に見える。
珠麗は白目を剥いた。
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