31.後宮も二度目なら(1)

(これで、仕込みはすべて済んだか)


 自誠は、「皇太子」巡啓の行列に加わりながら、密かに息を吐いた。


 後宮の外れ、白泉宮の近くに位置する舞台は、もう目前だ。

 ここまでの間、彼はひたすら、重役を担う大臣たちのもとにするりと近付いては、彼らに囁きかけてきた。


 ――こと、成れり。


 輿こしに続く、各省の大臣たち。

 皇帝の激昂に巻き込まれるのを恐れ、平和裏に譲位を進めることに腐心する彼らだが、そんな中にあっても、後宮に権力が集中する現状を憂う者はいる。

 自誠はこの数年、そうした志高き者を見抜いては、郭武官として接触し、太監長の権力を削ぐよう、協力を呼び掛けていたのである。


 もちろんそれが一筋縄でいくはずもない。

 袁氏の増長を不快には思いつつも、彼だけが皇帝を宥めおおせているというのも、また事実。

 その「お気に入り」に牙を剥くことで、皇帝の怒りを買いたくないという気持ちも、大臣たちにはあった。

 そこを、ときに金子を動かし、ときに脅し、ときに皇太子であるとの正体を明かしつつ、ようやく、「太監長の不正の証拠さえ見つかれば、躊躇いなく彼を引きずり落とす」と態度を固めさせたのである。


(「烏」私物化の証拠となる金璽きんじは、確保した。あとは、衆人環視の舞台で、それを突きつけるのみ)


 おそらく今日の儀でも、袁氏は、手ごまの候補者を優位につけようとするだろう。

 そこを叩く。


(今日を境に、少しでも後宮は清浄な場所に、近付くだろうか――)


 悪意と欲望の温床である後宮。

 どんなに美しく、清らかな人間でも、ここで過ごすと、やがて魂が醜く蝕まれてゆく。

 真水のように透き通った瞳で、屈託なく笑っていたはずの女が、媚びた上目遣いで胸を押し付けてきた日の絶望を、自誠は忘れられない。


 ――甘い声で囁けば、誰もかれもが従うとでも?


 とそのとき、あのわずかに掠れた婀娜な声が脳裏に蘇り、自誠は知らず唇を引き結んだ。


 ――むしろ、私があんたを守ったんじゃないの!


 凶刃の気配を察知するや、躊躇いもなく敵の前に飛び出していった彼女。

 文字通り、体を張って自誠を守り、庇護の腕も、心配の念すら、頑として受けいれなかった。

 媚びないどころか、常に自誠の腕を振り払い、自身の足だけで立とうとする、珠珠。


 気高く、けれどなんとも言えぬ愛嬌があり、強気で、なのに今時珍しいほどの奥ゆかしさも併せ持つ、不思議な女。


(彼女も、この後宮に入ると、澱んでしまうのだろうか)


 自問して、それからすぐ、自誠はその考えを振り払った。


 いいや、違う。

 そうはさせない。

 そのために、自分はこのただれた花園を正すのだ。


 今度こそ――清らかな者が、清らかなままでいられる場所にするために。


巡啓じゅんけいを遮るご無礼をお許しください! 皇太子殿下に申し上げます!」


 と、舞台にほど近い白泉宮の門が開き、中から女たちが険しい表情で踏み出してきた。

 声を張っているのは、なんと妹の麗蓉――いや、蓉蓉である。


 彼女がこの場に留まっていることを不思議に思った自誠だが、それ以上に、続く言葉に思わず息を呑んだ。


「白泉宮の者に、毒が盛られました」

「たとえ、わたくしたちすべての落札と引き換えにしてでも、珠珠さんを、お助けくださいませ」


 珠珠が、毒を盛られたというのである。

 彼が真っ先に思い浮かべたのは、もちろん泉のほとりで付けられた胸元の切り傷だった。

 浅い傷に見えたが、もしや、刃先に毒が塗ってあったのか。


 だが、蓉蓉が睨み付けるのは、袁氏ではない。

 彼女は、行列の中に楼蘭がいるのを認めると、「祥嬪よ!」と叫び、指を突きつけた。


「栄華を求め競い合うのは妃嬪のさが。けれど、祥嬪。あなたの取った手は卑劣に過ぎます。毒を仕込んだ遺骸を始末させるよう誘導し、無辜むこの者を害するなど。恥を知りなさい!」


 どうやら彼女たちの間で、自誠も知らぬ諍いがまたあったようだ。


 冬の空気を切り裂くような、鋭い糾弾に、場がざわめく。

 しかし、楼蘭は表情も変えず、ゆったりとした仕草で耳飾りをいじっただけだった。


「まあ。ひどい言いがかりですのね。証拠もなく他者を貶めるのは重罪と、わたくしは忠告したはずですが。この場には、刑罰を司る刑部尚書長もいらっしゃいましてよ。いわれなき中傷は重罰――これは開国より受け継がれる法である。そうですわね?」

「あ……ああ」


 行列の隅に所在なげに佇んでいた大臣が、もごもごと答える。

 彼は、娘の上級妃が伽に呼ばれることのないよう、せっせと楼蘭の伽をお膳立てしていた一人だ。

 負い目があるのか、赤い耳飾りの揺れる美貌の嬪を、ちらちらと見ていた。


「刑部尚書長として申し上げる。誉ある天華国の法は、証拠もなく他者を貶めることを許しません」


 祥嬪は「ですって」とばかり片方の眉を上げると、皇太子と太監長に向かって膝を折った。


「お耳汚しのあったこと、後宮の女の一人としてお詫び申し上げます。ですが、悪意ある者の下賤な叫びに、神聖な儀が中断されることなど、あってはなりません。この者たちは捨て置き、どうぞおみ足を舞台へと運ばれますよう」


 そうして、何事もなかったように、巡啓を再開するよう促す。


「お待ちなさい!」


 だがそれを、かっとした様子の蓉蓉が引き留めた。


「幾人もの女たちを卑劣な手段でいたぶっておいて、ぬけぬけと!」


 彼女は叫んだその勢いのまま、楼蘭の腕を掴み、強引に白泉宮の中へと引きずり込んだ。


「なにを――」

「詫びなさい!」


 もがく楼蘭を、蓉蓉は強い力で突き飛ばした。

 呆然として石畳に横たわっている、珠麗のもとへと。


「あなたが命を奪おうとした女性に。踏みにじった女官に。跪いて、詫びなさい!」

「きゃあっ」

「ふ、不敬であるぞ!」


 悲鳴を上げた楼蘭を庇うように、さきほどの大臣が声を張った。


「そなた、白泉宮に身を寄せているという、奴婢出身の候補者であろう。貴人ですらない下賤の女が、祥嬪様を突き飛ばすなど、言語道断! 者ども、女を捕らえよ!」

「まあ。わたくしが、下賤の女?」


 だが、抜身の刃のような鋭さを宿した瞳で、蓉蓉が振り返る。


「皇族への不敬は、重罪。典範の第一項に記された内容すら、刑部尚書長はご記憶でないと見えますわね」

「な……?」


 言いようのない気迫を帯びた蓉蓉のことを、大臣はまじまじと見つめる。


「我が母の口利きによって、侍郎じろうの階位から引き立てられただろうに……その恩も、恩人の娘の顔も、忘れてしまった?」

「れ……っ! 麗蓉様……!?」


 ようやく相手の正体を理解すると、彼は真っ青になって、その場に叩頭した。


「申し訳ございません! ま、まさか、公主様がこの場にいらっしゃるとは思わず!」


 公主。

 その単語に、周囲がざわめく。


「なぜ公主様が?」

「皇太子殿下はご存じでいらっしゃったのか?」

「祥嬪様との間に、いったいなにが……」


 収拾がつかなくなりそうな空気を、涼やかな声が遮った。


「殿下に申し上げます。これは単なる候補者同士の諍いを越え、看過できぬ事態である様子。しばし輿を休め、公主様のお話を詳しく聞くべきかと」


 郭武官に扮したままの、自誠である。


 朗々とした声は、張り上げなくとも一同の耳に染みわたっていく。

 にわかに静まり返った空間で、輿上の人物は、「許す」と告げた。


 自誠は、こちらの意を汲んでくれた乳兄弟の玄に感謝の目配せを送りつつ、「では私が」と断り、速やかに白泉宮に踏み入っていく。

 毒を受けたという珠珠の容体が、気になっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る