30.二度目の彼女(3)
胡麻団子か、胡麻おこしか。
それが問題だ。
太陽の位置で時間を確かめつつ、珠麗はのんびりと白泉宮に戻っていた。
もうすぐ正午だ。
(道中全然すれ違わなかったけど、さすがにもう、皆見切りをつけて舞台に向かったわよね? あとは一人きりになって、小黒が手に入れてくれた胡麻で、病を装うだけか)
胡麻は食べすぎると発疹が出るものの、実はすごく味が好きだ。
どうせ食すなら、おいしく頂きたいものである。
少なくとも道端でがつがつと口に含むつもりは、珠麗にはなかった。
さすがに今から団子を丸める猶予はないけれど、殿内に常備されている饅頭に胡麻をまぶせば、胡麻団子風になる。
少量の水飴と絡めて練れば、おこし風にもなるはずだ。
今日を最後にまた、あの寒さ厳しい貧民窟に戻るのだから、この数日の思い出に、そんな贅沢くらいは許されると信じたい。
(念のため、吐血演出用の腸袋に血も溜めたし、もはや全方向にぬかりなしね)
ちなみに、礼央から渡された腸袋は、止血がてら、口を開いた状態で傷口に張り付けたところ、大匙一杯分くらいの血が溜まったので、早々に口を閉じて懐に締まっていた。
少し溜めすぎたような気もしたが、まあ、大は小を兼ねるし、大丈夫だろう。
そろりと門を開けてみれば、すっかりと石畳はきれいに磨かれている。
さすが夏蓮、と唸りながらそこを通りかけ、しかしその瞬間、
「珠珠さん!」
「もう、遅いわよ」
「やっとお戻りですのね!」
脇の東屋から次々と声を掛けられ、ぎょっとした。
なんと、貴人たちと蓉蓉、そして夏蓮もが揃って、東屋で寛いでいたのである。
「ええ!? ちょっと、みんな、そこでなにをしてるの!?」
これは予想外の事態である。
誰も抜け駆けせず、義理堅く珠麗の帰還を待っているだなんて。
それどころか、儀の最終日であるのに、ぴりぴりと舞の練習をすることもなく、まさか仲良く茶をしばいているなんて。
「なにを、もなにも、あなたを待っていたに決まってるじゃないの。ほら、なにをのんびりしているの? さっさと支度するわよ」
真っ先に紅香が、ぷんぷんした様子で東屋から飛び出してくる。
「湯加減はいかがでした? ああ、衣装はお召しになられたのですね。ですが、あとは舞踏用の化粧をしませんと」
「髪結いと香焚きもね。髪を結うのは得意なの。任せてちょうだい」
「道々、一番簡単な振り付けをお教えしますわ。いいえ、お化粧しながらでも、覚えていただきますわよ」
嘉玉に静雅、そして蓉蓉までもが、続々と東屋を離れ、珠麗を取り囲む。
最後に夏蓮が素早く卓を片付け、
「珠珠様。こちらに化粧道具一式をご用意いたしました。さあ、こちらへ」
と、てきぱきことを進めようとするのを見て、珠麗は顔を引き攣らせた。
(なんなの、この息の合った連携作業!)
手際がよすぎだし、仲がよすぎではあるまいか。
これでは、「支度が間に合わないから、あなたたちは先に行って」作戦は難しそうである。
珠麗は、さっさと胡麻を食してしまわなかったことを激しく後悔した。
病を装おうにも、食べてから発疹が出るには少々時間がかかる。
第一、彼女たちに囲まれている中で唐突に胡麻を食べだすわけにもいかない。
仕方なく、珠麗は自力でふらついてみせ、呂律の緩い声で訴えた。
「あー、えーと……気持ちは嬉しいのだけど、実は、私、本調子じゃなくて。さっきから、すごく具合が悪いの。病かも。うん、病だわ。これから本格化しそうな気がする。残念だけれど、私は儀を休もうかと思うから、皆は私を置いて、舞台に向かってくれる?」
残念そうに申し出ると、一同は「まあ」と心配そうに顔を曇らせる。
「だから、早く殿内に入るようにとあれほど申しましたのに……」
「過ぎたことは仕方ありませんわ、蓉蓉さん。珠珠さん、わたくしの
やたらと準備のいい静雅がそう申し出ると、紅香や嘉玉も次々に同意した。
「そうよ。歩けるくらいに元気ならば、儀には出られるはずだわ」
「ええ。もしお辛いようなら、わたくしたちが肩を支えますわ」
後宮の女とは思えぬ、献身的な態度だ。
だが今はそれが、余計なお世話なのである。
珠麗は頬を引き攣らせ、このままでは彼女たちにも不利益が生じることを強調した。
「あのね、なにが問題って、私が本調子でないこと以上に、あなたたちに移してしまうことが問題なの。こんな急速に症状が悪化するなんて、きっとものすごく性質の悪い病だわ。これからまさに本番だというのに、あなたたちをそんな恐ろしい病に巻き込むなんて――」
「まあ、珠珠さんったら。大袈裟ですわ」
だが、くすぐったそうに微笑んだ一同によって、返り討ちに遭った。
「わたくしたち、たとえ珠珠さんが病を患おうとも、お付き合いする覚悟ですのよ」
(なんでそんな覚悟決めちゃったの!?)
まさかの事態である。
後宮と言えば裏切り、
(この人たち、性格よすぎじゃない? 大丈夫なの? こんなんで後宮、生き残っていけるの?)
困惑した珠麗は、早々に次の一手に出ることにした。
きっと彼女たちは、世間知らずで、本物の脅威にさらされたことがないから、そんなきれいごとが言えるのだ。
目の前で人が死ぬような、恐ろしい光景を目の当たりにすれば、自身に厄介ごとが降りかかることを恐れて、すぐにその場を逃げ出すだろう。
なにせ実体験に基づく予測なので、珠麗には自信があった。
(もはや胡麻では間に合わない。ええい、吐血の現場を、
発疹などでは生ぬるい。
血を撒き散らして、彼女たちを震撼させるのだ。
珠麗は「うっ」と口元を押さえざま、懐に忍ばせていた血入りの腸袋を素早く取り出し、口に含んで噛み切った。
「ごふ……っ」
「きゃあああ!」
噛み切る角度を誤ったせいで、喉に血が流れ込み、噎せてしまう。
量もやはり多すぎた。
が、おかげで血しぶきを上げるような派手な吐血になったので、よしとしよう。
周囲も悲鳴を上げている。
咄嗟にじりっと後ずさった女たちに、珠麗はよしきたとばかり、内心で拳を握った。
「ごほっ、ごほっ! ううっ、む、胸が焼けるように熱いわ! こ、これは恐ろしい病だわ! 移ってはただでは済まない。みんな、下がるのよ! 私を一人にして!」
こっそり腸袋を吐き出しつつ、のりのりで悲壮感を演出したが、しかし、そこで事態は思いがけない展開を見た。
「珠珠様!」
夏蓮が、東屋から飛ぶようにして駆け寄ってきたのである。
「珠珠様! 珠珠様! 大丈夫でございますか!?」
彼女は切羽詰まった形相で、珠麗の額に手を当て、腕を取りと、躊躇いもなくこちらに接してくる。
「え、いや、あの、だから、大丈夫ではないから、離れて――」
「いいえ。この夏蓮、死ぬときは珠珠様と一緒でございます! さあ、ひとまずこの場で横になられて」
強引に珠麗をその場に横たえると、夏蓮は真剣な顔で呟いた。
「熱はない……。熱や発疹といった症状もなく、いきなり血を吐く病など、聞いたことがありません」
「そうですね。労咳ならば、咳のしすぎで吐血することもあるでしょうが、咳もない」
すぐさま蓉蓉も同意する。
「となれば、これは病ではないのかもしれません」
冷静さを取り戻し、脈を診はじめた彼女たちに、珠麗はだらだらと冷や汗を流した。
(しまった……もっとこう、具体的な病を想定して行動すればよかった……!)
だが後の祭りである。
「脈が速いし、顔色も悪い。冷や汗も出ているようですね。指先も、氷のように冷たいですわ。先ほどまで元気でいらしたのに、突然。病ではなく……これはもしや、毒では!?」
いや違う。
青褪めたり汗をかいたりしているのは動揺ゆえだし、指先が冷たいのは単なる湯冷めだ。
だが、毒の単語に反応した女たちは、一斉に議論を飛び交わせた。
「たしか、
「あるいは、
「脈の乱れに、嘔吐……!?」
静雅と嘉玉が毒についての所見を示すと、夏蓮がはっと息を呑む。
それから彼女は、恐ろしいことを告げるような口調で、一同に申し出た。
「言い出せずにいたのですが、実は私も、豚の遺骸を片付けたあたりから、眩暈と吐き気の波に、時折襲われているのです」
(いや、それ、二日酔いがぶり返しているだけじゃ!?)
完全に回復しきっていないところに、朝から体力を使う労働をしたものだから、体が悲鳴を上げているのだ。
珠麗は「いや、それ――」とまでは声を上げたが、続きは紡がせてすらもらえなかった。
「珠珠さんと、夏蓮にだけ症状が? ではまさか、豚の遺骸に毒が……!?」
「え」
「おそらく。珠珠様は私よりも積極的に遺骸の処理をされ、内臓の始末はほぼお一人でされていました。内臓に仕込まれていた毒に、珠珠様がより重篤に晒された結果、このような事態になったのかと」
「なんということなの!」
「あの」
どうしよう。
転がり落ちる勢いで推理大会が繰り広げられ、なすすべもない。
「けれど、あの周到な
蓉蓉が目に涙を浮かべて迫ってきたので、珠麗は顎を引きながら頷いた。
「そ……そうね……これは、毒なのかもしれない、うん……」
なんだか、流れで楼蘭に毒殺未遂の濡れ衣を着せることになってしまった。
これもある種の因果なのだろうか。
それにしたって、病から毒へと方向性を修正したうえで、どう訴えかければ、彼女たちは自分を放置してくれるのか。
正午もいよいよ迫ってきている。
焦りながら、珠麗は必死に頭を働かせた。
「で、でも、毒ならなおさらまずいわ。そうでしょ? 楼蘭――祥嬪様は、自分に逆らう者を本気で排除しようとしているのよ。もはや、これまでの嫌がらせの域ではない。今すぐ彼女の足元に這い寄って、恭順の姿勢を見せなければ、あなたたちの命も危ういわ」
とにかく、彼女たち自身が危機にあることを強調し、警戒心を煽るのだ。
女たちよ、怯め、そして、他者を蹴り落とせ――!
「私のことを利用してくれて全然かまわない。恨まないし、むしろ応援すると約束するわ。さあ、私を見放したということを手土産に、祥嬪様のもとに急ぐのよ!」
ところが、そのとき奇妙なことが起こった。
「…………」
女たちが突然、黙り込んだのである。
ふ、と静かな風があたりを吹き抜けた後、最初に口を開いたのは、夏蓮であった。
「二度も、見放せと?」
「え……?」
その人形のような顔は、今や泣き出しそうに歪み、握った拳は震えていた。
「珠麗様と、珠珠様。絶対に守らなければならなかった相手を、二人に渡って裏切れと!?」
その血を吐くような叫びに、圧倒される。
「あの……」
「珠珠さん。どうぞ、そのようなこと、仰らないで」
まごついた珠麗の手を取ったのは、静雅だった。
「わたくしたちはね。今度こそ、誠実でありたいの。天と、自分の良心に恥じるような真似は、もう二度と、したくないのよ」
声が震えるほどの真摯さに、やはり珠麗は息を呑んだ。
そんなの、おかしい。
後宮の女のくせに、それではまるで、善良な人間のようだ。
呆然とする珠麗になにを思ったか、紅香も、そして嘉玉も、次々と、励ますように手を握りしめてきた。
「ここであなたを失うなんて、冗談じゃないわ。筆に、盗難の濡れ衣回避に、掃除。いいこと? わたくしは、恩を返しきるまで、絶対にあなたを見放したりしない」
律儀に恩を返そうとするなんて、馬鹿みたいだ。
「弱き者なりに、矜持がありますの。天は、こんな理不尽を許しはしない。力を合わせ、必ずわたくしたち全員、助かってみせますわ」
弱き者が、救われるとでも――?
(おかしいわ)
人はみな生まれながらに邪悪で、優しさは裏切りで返され、弱き者は踏みにじられる。
それが、後宮の掟なのではなかったか。
「皇太子殿下の、おなりである」
と、門の向こうから、大量の足音と、先触れの太監の声が響く。
それを聞き取り、最後に蓉蓉がゆっくりと立ち上がった。
「皇太子殿下に、直訴します」
「は……はい!?」
「祥嬪と、太監長の横暴は、目に余る。もはや米一粒ぶんとて我慢なりません。かくなるうえは、皇太子殿下に直訴を」
「えええ!?」
珠麗は声を裏返した。
(郭武官どころじゃない! とんでもないのを連れてこようとしてる!)
いや、皇太子すなわち郭武官であるのだから、結局同じことなのか。
とにかく、彼に関わると後宮脱出が困難になるという法則は、絶賛発動中であるようだ。
「い、いや! やめて! やめましょう!? 大事にしないで、ね!」
「ご心配なく。珠珠さんは、そこに横になっているだけで大丈夫ですわ。夏蓮、引き続き介抱を」
「はっ」
ひょおお……と吹き付ける寒風を背景に、躊躇いなく門へと向かう蓉蓉の姿は、頼もしいことこの上なかったが、いやいや、いったい誰が、そんな
「ねえ、蓉蓉、落ち着いて! 儀式を遮り、殿下の巡啓を邪魔するなんて、とんでもない不敬だわ! 正式に妃嬪でもないあなたが皇族に口を利こうだなんて、その場で切り捨てられてしまうわよ!」
「珠珠様、お静まりください。さあ、横になって!」
慌てて蓉蓉を追いかけようとしたが、厳しい母親のような形相の夏蓮が、それを許してくれない。
珠麗の叫びを聞き取った蓉蓉は、その場で足を止め、静かに振り返った。
ふ、と唇を綻ばせた彼女に、なぜだろう、とても嫌な予感を覚える。
「――ご心配なく」
はたして、彼女は言い放った。
「わたくしの真の名は、麗蓉。公主であり、皇太子殿下の妹ですもの」
「は……?」
もたらされた情報が重大すぎて、咄嗟に受け止めきれない。
完全に硬直した珠麗をよそに、蓉蓉はそれまでの優しげな声から一転、腹の底から響くような厳しい命令を飛ばした。
「純貴人・静雅、明貴人・紅香、ならびに恭貴人・嘉玉。三貴人よ、わたくしとともに、門を開き、殿下に上申を!」
「はい」
「は――はい!」
「はい……っ」
静雅はしっかりと。
紅香と嘉玉は驚きながらも、即座に返事を寄越す。
ざっ、ざっ、と石畳を踏みしめるようにして門に向かう四人を、珠麗はもはや涙目になって制止した。
「嘘でしょ! やめて! な、治った! 治ったから! 私、元気だから!」
「珠珠様、そんなに青褪めておいて、なぜ強がりを仰るのです! ほら、動かない!」
「ほんとに無事――うぐっ!」
が、過保護な夏蓮によって、猫のように首根っこを掴まれ、再び横たえられる。
「…………!? 珠珠様、胸元からも、出血が……!?」
「うわああああ! 襟元開こうとしないででええええ!」
しかも、あろうことか、じたばた動き回ったせいで開いた傷口から、じわりと血が染み出てしまい、夏蓮に衣を剥かれそうになった。
「やめて! ほんとやめて! 大丈夫! 大丈夫だから!」
「なにを仰います! 珠珠様……っ、大人しくなさいませ――!」
身頃を引き寄せる珠麗と、開こうとする夏蓮で、もはや格闘技の様相を呈しはじめ、これでは四人の制止どころではない。
「巡啓を遮るご無礼をお許しください! 皇太子殿下に申し上げます!」
かくして、門は開かれてしまったのである。
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