29.二度目の彼女(2)
あちこちで禁色の旗がはためく光景を、跪いた
「皇太子殿下の、おなりである」
「皇太子殿下の、おなりである」
いつも閉ざされている後宮の外門が、このときばかりは大きく開き、
遠目にも上等とわかる礼服に、大量の玉に彩られた宝刀。
礼を取る楼蘭には、輿に座す皇太子の顔は見えないが、視界の端に映る
輿は、門をくぐると同時に、整列して待ち構えていた後宮太監たちに引き継がれてゆく。
一行は、後ろに大臣たちを引き連れたまま、太監長の案内の元ぐるりと後宮内を巡回し、外れにある舞台へと到着するのである。
同時刻に徒歩で試験場へと向かう
実際には、少しでも有利な状態で儀に臨もうと、早めに試験場に向かう女のほうが多いだろうか。
本来なら儀の直前にしか知らされない試験会場を、太監長に賄を渡すことで事前に割り出す者も珍しくない。
「おや……、こんな、門にほど近い場所で跪いているのは、祥嬪殿ではありませんかな?」
「陛下の寵愛深き祥嬪殿ならば、本日の試験会場も把握していたろうに、あえて大門から皇太子殿下をお迎えするとは」
「殊勝な姿勢ですな。実際、彼女ならば、本番直前まで鍛錬などせずとも、儀を勝ち抜けることでしょう」
だが楼蘭は、あえて周囲に試験会場の情報を漏らしつつ、自身は大門の近くで皇太子の訪れを迎えることにした。
輿の後に続く大臣たちが、感心したように囁き合う。
「……祥嬪か」
輿の上からも、そんな呟きが聞こえた。
――皇太子の目に、留まった。
全身に緊張が走るが、気取られぬよう、一層腰を低く落とす。
従順で清廉な女性であることを、なんとしても演出する必要があったからだ。
(後宮の妃嬪の「下げ渡し」は慣例とはいえ、父親の「お古」に難色を示す殿方は、多いでしょうから)
男の性質について皮肉げに思いを馳せる。
楼蘭は己の状況というものを理解していた。
現皇帝の寵妃。
その肩書は、次期皇帝にとって甘美に映るとは限らない。
むしろ、悪く作用することが多いだろう。
だからこそ、「現皇帝の威を笠に着ることはなく、真っ白な気持ちで次期皇帝に
今日の衣装も、皇帝の好んだ華やかな朱色ではなく、あえて白を基調としたものを選んだ。
口にせずとも、楼蘭の意図するところは伝わったであろう。
ただし、耳飾りと
この赤く透き通った宝石は、皇帝が特別気に入った相手に下賜する褒美――いや、褒美とされているものである。
(この玉の意味を、あなた方はご存じでしょう、大臣様方?)
ざらりと胸に湧き上がる感情を、楼蘭は飲み下した。
この紅玉は、報酬であり、慰謝料であり、なにより生贄の印だ。
皇帝は「気に入った相手」をいたぶりつくし、袁氏の錬丹術によって心を落ち着けた後、つい先ほどまで痛めつけていた相手に「褒美」を下賜していたのだから。
不老不死の妙薬と同じ原料でできた、貴重な玉なのだと嘯いて。
おぞましい夜を生き抜くたびに、楼蘭の鏡台には、血のような色をした玉が増えていった。
皇帝は
いいや、彼の全身を渦巻く暴力的な衝動の捌け口として、周囲が積極的に生贄を立てたのだ。楼蘭は、そのうちの一人だった。
大臣のうちの何人か――より中枢に近しい者が、ちらちらと耳元の紅玉を認めては、気まずげに視線を逸らすのを感じる。
それでいいのだ。
彼らにはたっぷりと罪悪感を抱いてもらい、後宮に不慣れな皇太子の前で、楼蘭のことを後押ししてもらわねばならない。
(絶対に、最上の地位を勝ち取ってみせる)
ここまででは高評価を獲得し、すでに妃への昇格も見えている楼蘭だが、あの太監長が、容易には楼蘭の出世を許さないだろうとは理解している。
だからこそ、皇太子本人と、大臣たちを味方につけるのだ。
郊外の離宮に籠もってばかりの皇太子とは接点が持てなかったが、大臣の何人かは、妃嬪同士の繋がりを使って抱き込んできた。
儀が順当に進みさえすれば、楼蘭には上級妃最上の位が与えられるだろう。
そうすればようやく、立后――皇族の正式な妻となる道が開けてくる。
「おや、祥嬪様。まさか奴婢のごとく、大門から迎えに参じるとは……」
「感心なことだ。大臣らとともに、余の後ろを歩かせよ」
裏を掻かれた袁氏が不快そうに呟くが、皇太子がそれを遮った。
楼蘭は一層深く頭を地に下げてから、しずしずと行列の後ろに回った。
まずは、目的の第一歩を達成と言ったところだ。
「失礼、あわや行列に遅れてしまうところでした」
とそこに、軽やかな謝罪を口にしながら、一人の武官が横から一行に加わってくる。
なんとそれは、今日も今日とて麗しい顔をした、
「殿下、大変申し訳ございません。ご到着を前に少しでも宮内を
すっと跪く姿は惚れ惚れするほどの美しさだが、その口上は、皇太子に向けたものとは思えぬほど気安いものである。
郭武官を見た
「郭武官殿! 誰の御前と心得る! 後宮の秩序を守るべき精鋭ともあろう人物が、ぬけぬけと儀に遅れてくるなど――」
「よい。べつに騒ぎ立てるほどのことではあるまい」
が、輿上の人物によってあっさりといなされる。
「ですが殿下、いくら乳兄弟の仲とは言え、規則は規則である以上……」
「そなたの律義さと忠誠心には感心するがな、規則というなら、武官による警備は大門からというしきたりだ」
太監長は食い下がったが、それも躱され、不承不承、言葉に従った。
ただし、楼蘭と同じく行列の後ろに回った郭武官に対して、強烈なひと睨みを寄越す。
「おお、怖い」
郭武官は、肩をそびやかせながらも、まったく怯えてなどいない様子であった。
品よく行列に加わっている楼蘭を見つけると、にこやかに話しかけてくる。
「本日も美しくていらっしゃる。今代陛下の寵愛深き妃が、わざわざ大門まで殿下を迎えに馳せ参じるなど、謙虚なことです」
「恐悦至極に存じますわ」
楼蘭も同じく、完璧な笑みで応じた。
しばし狸の化かし合いのような時間が続いたが、郭武官はやがて視線を切り上げると、するりと大臣たちの群れに紛れ込んだ。
旧知の仲であるらしく、歩きながらも親しげに話し込んでいる。
その後ろ姿を見つめながら、楼蘭は表情を消した。
容姿端麗で物腰は柔和、誰に対しても気さくな笑みを向けるこの男が、その実冷ややかな性質であるということには、ずいぶん前から気付いていたし、警戒していた。
同類だからだ。
彼は、自身の美しい造作や低い声、凛々しい振舞いや武官という肩書が、どれだけ周囲の心をざわつかせるか熟知している。
そのうえで、たやすく引き寄せられ、甘えてくる女を侮蔑し、利用しているのだ。
彼が唯一、素直な感情を露わにし、心から愉快そうに接していたのは、あの白豚妃に対してだけ。
そう、誰も信じず、腹に一物抱えているにもかかわらず、いや、だからこそ、真っ白な魂の持ち主を見つけると、どうしても惹きつけられてしまう。
食えない性格の持ち主ではあれど、その最奥には、情熱的な魂がそっと隠れているのだろう。
(けれど結局、あなたも彼女を、見捨てた)
だが楼蘭は、冷ややかに胸の内で呟く。
それが、彼女が郭武官を取るに足りないと、捨て置いている理由でもあった。
有能を気取り、お高く留まってみせたところで、結局彼も、好いた女を信じきれなかったではないか。
楼蘭の策に嵌まり、愚かなほど善良だった女の懇願を、媚びだと断じた。
(つまるところ、後宮とはそういう場所なのだわ)
冷え冷えとした思いのまま、楼蘭はゆっくりと周囲を見回した。
極彩色に溢れた、壮麗な建築物。
見目麗しい妃嬪、行き届いた侍従たち。
けれど、壁の
嫉妬、羨望、怨嗟、侮蔑に不信、そして欲望。
――遠慮なく頼ってちょうだい。友人じゃない。
その中で、たった一人だけ、その
――私ね。あなたのことが大好きなのよ、楼蘭様。
まるで氷獄のような後宮の中で、そこだけがぽかぽかと温かだった、白豚妃。
(わたくしは、あなたのことが大嫌いでしたわ)
ここ数日、いや、この数年、何度となく脳裏に蘇っては心を掻きまわす「友人」に向かって、楼蘭は告げた。
(能天気で、無神経で。あらゆる苦難から、自分だけが逃れている、あなたのことが)
二人の
なのに、皇帝に目を付けられたのは楼蘭だけだった。
白豚妃は、ただ肥えすぎている、腹を下すなどして汚らしい、そんなくだらない理由で、最初の伽を逃れた。
そしてその後も、不幸が楼蘭に注がれたぶん、彼女は安穏とした生活を過ごしていたのだ。
大嫌いだった。
なんの邪心もなく、「頼ってね、なんでも相談してね」と言えてしまう愚かさが。
能力もないのに、自分が誰かを救えると思っているところが。
人はみな善良であると、優しさは優しさで報われると、弱き者はきっと助けられると、疑いなく信じているところが。
嫉妬や羨望を向けてくるほかの女たちより、無邪気に友人の寵愛を喜んでしまえる白豚妃のことを、楼蘭は憎んだ。
だから、子流しの罪を押し付ける相手に、彼女を選んだのだ。
(ねえ。あの日、あなたもわかったでしょう? 弱き者は、踏みにじられるだけなのだと)
行列はゆっくり、ゆっくり、舞台へと近付いていく。
白泉宮の門が見えてきたときに、楼蘭はその向こうで途方に暮れているだろう女たちを思い、口元を歪めた。
もともと舞の得意な
彼女を見ていると、名前が似ているせいだろうか、白豚妃を連想せずにはいられないのだ。
ここ数日、自分が過去を思い出してばかりなのも、きっとそのせいなのだろう。
気に入らない、あの女。
四年前の彼女が舞い戻ってきたように、後宮に明るい風を吹き込んで、楼蘭をとびきり惨めな気持ちにさせる――。
(けれど、今日を最後に、この惨めさからも解放される)
獣臭を隠すためか、白泉宮の門は閉じられている。
男手を取り上げられ、貴人たちはいつまでも豚の遺骸の前で震えているのだろうか。
それとも、誰かに汚れ役を押し付けて、幾人かは舞台に向かったか。
いずれにせよ、門を開けさせ、獣臭がひとかけらでも残っていれば、白泉宮の女たちを皇太子の前で引きずり落とすことができる。
そしてそれで、終わりだ。
だが。
「皇太子殿下の、おなりである。あらゆる宮は、とく門を開けよ――」
「巡啓を遮るご無礼をお許しください! 皇太子殿下に申し上げます!」
閉門の不敬を、太監が朗々と指摘するよりも早く、門が勢いよく開き、中から女たちが踏み出してきた。
貴人三人に、蓉蓉と名乗る少女。
いったいどんな技を使ったのか、門の内側は清潔に清められ、誰もが完璧に身支度を済ませている。
だが、彼女たちは一様に表情を険しくし、一糸乱れぬ動きで地面に額を擦りつけた。
次に顔を上げたとき、そこには、見る者が思わず息を呑むほどの気迫が漲っていた。
「申し上げます。白泉宮の者に、毒が盛られました」
「どうかそのおみ足を止め、わたくしどもの友人をお助けくださいませ」
「揺籃の儀を中断してでも、どうか下手人を突き止め、その罪を明らかにしてくださいませ」
純貴人が、明貴人が、そして恭貴人が、これまでになくきっぱりとした物言いで、皇太子に申し出る。
怒りを湛えた女たちを代表するように、蓉蓉もまたまなじりを決し、凛と言い放った。
「たとえ、わたくしたちすべての落札と引き換えにしてでも、珠珠さんを、お助けくださいませ」
と。
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