28.二度目の彼女(1)

「珠珠さんったら、なかなか戻ってきませんわね……」


 すっかり高く昇ってきた太陽を見上げて、自身の支度を済ませた蓉蓉ようようは、気を揉むように眉根を寄せた。


 彼女の肩入れする友人が、泉のほとりへと向かってから、もう半刻は優に過ぎる。

 もしかして道中で迷ったり、なにかの妨害に巻き込まれたりしているのではないかと、心配が募った。


 同性の蓉蓉にも肌を見せたがらぬ慎ましやかな友人だが、やはり無理やりにでも付いていけばよかったのかもしれない。


 今からでも迎えに行こうか。

 いや、しかしすれ違ってしまっては。

 白泉宮はくせんきゅうの門の内側で、蓉蓉はやきもきとして歩き回った。

 夏蓮かれんがしっかり仕上げをしてくれたので、今やその門前には獣臭のかけらもなく、石畳は水に濡れて艶々としている。

 ただし、その夏蓮も、なかなか主が帰ってこないため、蓉蓉と同様、そわそわとしていた。


「やはり、お一人で行かせてはなりませんでした。私が珠珠様をお迎えに……」

「そうですね、夏蓮。このままでは、珠珠さんの支度の時間がなくなってしまいます」


 夏蓮が遠慮がちに切り出したところを、蓉蓉はすかさず同意した。


「着付けと化粧、香まで焚くなら、半刻は欲しいところですもの。いくら珠珠さんが多才と言えど、寒村出身ではさすがに舞は修めていないはず。せっかく選抜内容が舞だとわかった以上は、早めに舞台に着いて、少しなり鍛錬の時間を儲けたいところですわ」


 蓉蓉としては、皇太子や大臣たちが参列するこの最終日に、なんとしても珠麗を輝かせ、与えられる階位を確固たるものにしたい。

 夏蓮もまったく同じ気持ちだったようで、何度も頷いていた。


「ほかの貴人様方としても、このままでは儀に遅れてしまうと、気が急いていらっしゃるでしょう。ひとまず皆様には、先に舞台に向かっていただくよう、お伝えして――」

「あら、それには及ばなくってよ」


 気の利く女官らしく、夏蓮がそう申し出たが、それを遮るようにして背後から声がかかった。

 振り向いてみれば、立っているのは、舞踏用の華やかな衣装をまとい、派手な化粧を施した明貴人・紅香こうかである。


 いや、その隣には、同様に支度を済ませた純貴人・静雅せいがや、恭貴人・嘉玉かぎょくもいた。


 三人とも、しびれを切らして舞台に向かうことにしたのだろうと考えた夏蓮は、その場に素早く膝をついた。


「貴人様方にご挨拶申し上げます。珠珠様のお戻りが遅く、お待たせしてしまい、誠に申し訳ございません。どうか、皆さまは、先に儀へ臨んでいただきますよう――」

「ああ、やめてやめて。まだ出発なんかしないったら」

「え?」


 だが、紅香がしかめっつらで意外な答えを寄越したので、首を傾げる。

 すると静雅や嘉玉が、くすくす笑いながら、手にしていた茶道具を持ち上げた。


「珠珠さんが戻られるまでは、わたくしたちも儀には向かいませんわ」

「殿内のそれぞれの室で待っているのも退屈だから、東屋でお茶でもしようと話し合っていたのです」


 どうやら、最も重大な選抜の直前に、茶会としけこむつもりらしい。


「皆様、なにを仰るのです? せっかく機先を制することができるのですから、早めに舞台に向かわれては?」

「あら、蓉蓉さん。そういうあなただって、一向にここを動かないくせに」


 驚いて蓉蓉が尋ねれば、悪戯っぽく笑った静雅が指摘を返す。

 それはだって、自分は本当の妃嬪候補なんかではないから――などとは告げられず、蓉蓉は眉を下げて口をつぐんだ。


 そんな蓉蓉を見て、嘉玉は、そのあどけない顔に静かな微笑を浮かべた。


「わたくしたちは、珠珠様に恩を返すと、決めたのです。珠珠様が戻られるなら、急いで支度をして、ともに儀に臨む。もし間に合わなかったなら、ともに儀を休む。いずれにしても、珠珠様を置いていくことなど、いたしません」


 その声に、かつてのような臆病さの色はなく、目には強い意思が宿っていた。

 さあご一緒に、と東屋に促されながらも、蓉蓉は戸惑いの声を上げた。


「ですが、嘉玉様。せっかくあなた様の得意な舞なのですよ。皆様だって、儀に参加せねば、落札し、階位を大いに落としてしまいます。せっかく珠珠さんに救ってもらったのに、これでは、祥嬪しょうひん様に陥れられたも同然ですわ」

「落札するのが一人ならば、ね」


 東屋に腰を落ち着け、悠然とした仕草で茶を淹れながら、静雅が応じた。


「え?」

「一人だけが儀に参加できなかったのなら、その者はたしかに、祥嬪様の妨害に屈したことになりましょう。ですが、白泉宮の貴人が全員儀に出なかったなら? 皇太子殿下とて、違和感をお持ちになるはずです。誰かが、白泉宮を攻撃したのではないかと」


 手際よく茶菓子を配りながら、紅香も付け足した。


「祥嬪様は、『攻撃を攻撃と気取られぬ』やり口が売りよ。でも、わたくしたちが揃って被害を訴えれば、さすがに攻撃や妨害があった事実は認められるはず」

「それに、わたくし、白泉宮だけでなく、ほかの宮の貴人たちにも、儀に参加せぬよう『お願い』してきたのです」


 嘉玉がおっとりと茶器を並べながら、不穏な内容を続ける。


「一人の被害ではもみ消されてしまう犯行でも、大勢の人間が声を揃えたなら。一斉に祥嬪様と太監長様に造反してみせたなら。おそらく――儀の継続が危ぶまれるくらいには、わたくしたちの思いも殿下に届くはずです」

「皆様……」


 貴人たちの思いがけぬ覚悟に圧倒され、蓉蓉と夏蓮は顔を見合わせた。


 白泉宮は、後宮の外れ。

 ここに住まう貴人たちは才能に溢れながらも、出自や容姿、年齢が理由で寵愛に恵まれず、無力で控えめな女たちであったはずだ。

 それなのに。


「なんだか……この数日で、皆様、ずいぶんと雰囲気が変わられましたね」


 東屋に集う女たちを見つめ、蓉蓉はしみじみと呟いた。


 和気あいあいと茶卓を囲む姿はいかにも仲がよさげで、その表情にも佇まいにも、ゆとりと芯の強さが滲み出ていたからだ。


 蓉蓉の指摘に、貴人たち三人はまじまじと互いを見つめ合う。

 やがて静雅が茶器を置き、改めて蓉蓉を招いて向かいに座らせると、優雅に茶を勧めた。


「蓉蓉さんも、どうぞ」

「え、ええ……」


 教養高さと詩才を見込まれて入内した静雅は、後宮の中でも年嵩の部類だ。

 ぴんと背筋を伸ばした姿勢や、知的な相貌を前にすると、物静かながら威厳を感じる。


 蓉蓉はおずおずと茶器を手に取ったが、


「――昔はね、妃嬪から振舞われるお茶には、よく毒が入っていたの」

 静雅が切り出した内容に、噎せそうになった。


「な……」

「わたくしが後宮に上がったのは、もう十年ほども前のことよ。その当時、ここの空気は、今と同じく、とても殺伐としていたわ。皇帝陛下は、女性を多く召し上げはするものの、特定の妃嬪ひひんしかとぎに呼ばぬものだから、あぶれた女たちの不満が渦巻いていたのね」


 彼女の昔語りは淡々としている。

 かくいうわたくしも、碁の手合わせに数度呼ばれただけだったわ、と付け足したときだけ、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「暇と恨みを持て余した妃嬪たちは、少しでも敵を減らそうと、互いの足を引っ張ることに没頭した。毒を仕込み、悪意ある噂をばら撒き、互いの奴婢をいたぶり。自然と、後宮の空気は張り詰めたわ。人を信じず、不都合なことから目を背け、沈黙を守れる者だけが、生き残った」

「……この美しい建物からは、想像もつかぬ醜悪な世界ですわ」

「そうでしょうね。そのころ、あなたは幼かったでしょうから」


 言葉に含みを感じる。

 顔を上げてみれば、静雅はじっとこちらを見つめていた。


 ――不都合なことから目を背け、沈黙を守れる者。


 静雅は優しく微笑んだ。


「蓉蓉さんは、とても清らかな人相をしておいでです。きっと、お母君似なのでしょう」

「……ええ、静雅様。きちんとお化粧をすれば、母に似ているとよく言われますわ」

「まあ、静雅様は、蓉蓉のお母君をご存じですの?」

「ふふ。人相学を少し齧っただけですわ」


 含意に気付かぬ紅香が首を傾げると、静雅は笑って躱す。

 それを見て蓉蓉は確信した。


 つまり、静雅は人相から、彼女が薫太妃くんたいひの娘であることを察していたというわけだ。

 そのうえで、知らぬふりをしていた。

 厄介ごとから身を遠ざける、後宮の女の性。


 けれど今、その生き抜くための秘訣を措いてまで、彼女は昔語りをしようと言うのだ。

 蓉蓉は居住まいを正し、話の続きに耳を傾けた。


「けれど、あるとき突然風向きが変わった。五年ほど前のことよ。とある女性が、嬪の位を賜って、この後宮にやって来たの。彼女は……そうね、とても豊かな人だった」

「心だけじゃないわ、体もよ。というか、主に体がよ。なんと言ったって、あだ名が『白豚妃』だったんだから」


 横から紅香が口を挟む。

 こき下ろすような話しぶりではあったが、声や表情には、隠しきれぬ親愛の情が籠もっていた。


「いつも笑顔で、底抜けに優しい、とても素敵な方でした」


 嘉玉も、懐かしそうに呟く。

 近くに控えていた夏蓮は、無言で俯き、目を潤ませていた。


「ですが、その……彼女の話は、後宮では禁忌なのでは……」


 以前、紅香が「珠珠」の名にさえ顔をしかめたことを蓉蓉が指摘すると、彼女たちはしばし黙り込む。

 しかし、しばらくすると、その禁忌をあえて破るかのように、次々と思い出話に花を咲かせた。


 たとえば、彼女は人を疑うことなどせず、なんでも毒見なしに飲み食いしてしまうこと。

 じきについた「白豚妃」の蔑称にも、「やだあ、肌の白さは認めてもらえたのね」と照れ笑いしていたこと。

 皇帝から初めて伽の命があったとき、よりによって食べ過ぎで腹を下し、それを逃してしまったこと。

 翌朝、嫌味にも内務府から豚の画が送られてきたのに、落ち込みもせず、愛玩動物としての地位を築くわと息巻いていたこと。

 実際、彼女は独特の愛嬌で皇帝や皇后に可愛がられ、伽には呼ばれぬものの、茶会では重用されていたことなど。


「彼女はいつでも素直だった。失態も冒すし、顰蹙を買うこともあったけれど、彼女が裏表なく落ち込んだり、涙を流したりするのを見れば、誰もが怒る気を失ってしまったわ」

「それに、呼吸するよりたやすく、人を褒めるの。豚みたいにつぶらな瞳をきらきらさせて、心からの言葉で、あっさりと人を認めたり、救ったりするんだわ」

「寵愛にこだわらず、のびのびと過ごすかの方を見ると、周囲はすっかり、毒気を抜かれてしまうものでした」


 静雅も紅香も嘉玉も。

 白豚妃と呼ばれた女のことを思って、口元を綻ばせる。

 ただし、その目には、うっすら涙が滲みはじめていた。


「そんな彼女が、ある日、祥嬪様――当時は貴人ね。祥貴人の子を流したとして、投獄された。信じられなかったわ。おそらく、後宮の誰もが、耳を疑ったのではないかしら」


 静雅が俯く。

 緊張したように、指先が何度も茶器の縁をなぞっていた。


「けれど、絶対彼女が無実だと言い切ることはできなかった。だって、ここは後宮なのだから。ここにいると、女は皆、嫉妬深く、罪深い生き物になってしまうのだから」

「いいえ、静雅様。わたくしたちは認めるべきだわ。あのとき、彼女が本当に罪を犯したなんて思う者はいなかった。ただ、それを告げる勇気を持つ者もいなかったというだけよ」

「かの方は、皆から愛されていたから……きっとその中の誰かに、助けてもらえるのだろうと、思っていたのです」


 けれど、実際は違った。


 素直で、人を疑うことを知らぬ白豚妃は、焼き印を押され、後宮を追放されてしまったのだ。

 妃嬪たちが、自身に累が及ぶのを恐れ、身を竦めている間に。

 あっさりと。


「彼女がてらいなく笑うたびに、心が晴れる心地がしたものだわ。直接の交流は少なくとも、彼女が朗らかでいるだけで、後宮の息苦しさがなくなるようだった。なのに、わたくしたちは、そんな彼女を、見捨てたのよ」

「後宮の空気は、また殺伐としたものに戻っていったわ。今では、誰もがわかっているの。白豚妃こそが、わたくしたちの太陽だったんだ、って。薄暗い後宮に訪れた、束の間の晴れ間を、わたくしたちは、自身の手で葬ってしまったのよ」

「かの方の名が禁忌なのは、かの方が罪深いからではないのです。わたくしたちが、湧き起こる罪悪感に堪えられないから、なのですわ」


 静雅と紅香が、恥じ入るように告げ、最後に嘉玉が悲しげに締めくくった。

 しばし、東屋に沈黙が訪れる。


 ややあってから、涙をごまかすように目を瞬かせた静雅が、「でもね」と続けた。


「再び寒々としてしまったこの場所に、数日前からまた、温かな風が吹きはじめたの」


 彼女は、泣き笑いのような顔をして、蓉蓉に告げた。


「珠珠さんよ。今度は彼女が、わたくしたちに温もりを運んできてくれた」


 東屋にいる誰もが、そのとき、あの美しい女の姿を思い出していた。


 その博識によって、かかわりもなかった静雅を躊躇いなく助け、自身の不利も気にせず紅香に筆を貸し。

 豪胆さと的確な介抱によって女官を救い、機転によって嘉玉を庇った、彼女。


 紅香が、そして嘉玉が、次々と決意を述べる。


「受けた恩を返さないのは、二流の女だわ。わたくしはそんなくだらない女では、もういたくないの」

「四年前に動けなかった自分のぶんまで、せめて、あの方と同じ文字を持つ珠珠様の、お役に立ちたいのです」


 声は、誇りに満ちていた。

 だから、と、最後に静雅は、囁くような声で話を締めくくった。



「二度目こそ――わたくしたちは、誠実でありたいのよ」

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