27.戦うつもりじゃなかった(4)

 楼蘭ろうらんの悲壮な訴えが、ぐるぐると頭の中を渦巻く。


 今、ようやく、四年前の楼蘭が、なぜあんな無謀を働いたのかを、理解した。


「祥嬪・楼蘭は、家族に窮状を訴えた。だが、手紙は届く前に太監長に見つかり、逆に不敬であると脅された。皇帝への中傷は重罪だ。『烏』に見咎められれば、一族郎党処断される。祥嬪には、幼い弟がいたようだな」

「もはや、家族には頼れない。窮状を公にしては、『烏』に殺される。……だから楼蘭は、自分で、階位を上がろうとしたのね」


 貴人など、結局は奴婢ぬひと同じ。

 けれど、妃なら。いや、せめて、嬪ならば。

 それに、流産した女は、その後一年の静養が命じられ、伽にも呼ばれない。

 もしかしたら、そちらのほうが狙いであったのかもしれない。


 だが、あの冷ややかで、他者を寄せ付けない佇まいを見るに、今の彼女が幸せであるとも思えない。

 寵妃であったのに、太嬪として今代皇帝に付いてゆかず、揺籃の儀に参加したことからも、彼女を取り巻く惨劇は、静養の後、再開しただけだったのだろう。


 だから、楼蘭は次代皇帝の後宮に渡ろうとした。

 ただ嬪として居残るのでは心もとない。もっと階位を上げる必要があった。

 一定の庇護が約束される上級妃、いいや、皇帝と同じ権限を持つ、皇后にまで。


 そうすれば、もう男にいたぶられることはない。

 皇帝と並ぶ地位の女性になれば、「烏」も恐れなくて済むかもしれない――。


「私……」


 踵を返すと、地面がざり、と音を立てる。

 だが、咄嗟に瑞景宮へと向かいかけた珠麗の腕を、礼央りおうが掴んだ。


「よせ、珠珠」


 きっと彼には、珠麗の波立つ胸のうちなどお見通しなのだろう。

 瞳を揺らした珠麗を見て、彼は鼻白んだように溜息をついた。


「お人よしにも程がある。自分を陥れた相手を許すばかりか、救おうとでも?」

「そんなんじゃ、ないわ。ただ……」


 ただ。

 そこまで呟いて、珠麗は口をつぐんだ。自分自身、なんと続けたかったのかがわからなかった。


 今の自分が、憤っているのか、悲しんでいるのか、納得しているのか、それすらもわからない。

 楼蘭になにか言ってやりたいと思ったはずだが、それがどんな言葉なのかは、定かではなかった。


祥嬪しょうひんは、揺籃ようらんの儀に参加できた以上、境遇の脱出にはほとんど成功しているわけだろう。今さらおまえの出る幕なんてないさ」

「……でも、袁氏と『烏』からは逃げられてないわ。上級妃最上の地位を勝ち取って、皇后になれれば話は別なんでしょうけど、審査するのは太監長なのよ。楼蘭を使って後宮を管理してきた袁氏が、彼女が皇后になるのを許すとは思えない」

「まあな。祥嬪への『烏』による呪縛は、生涯続くことだろう」


 素っ気なく肩を竦めた礼央に、珠麗は八つ当たりするように尋ねた。


「だいたい『烏』が杓子定規に不敬を咎めるからいけないんだわ。本当の忠臣なら、陛下の真実を告げた女を殺すより、仁徳を失った主君を諫めるべきじゃないの。少なくとも、金璽を奪った太監長には鉄槌を下すべきだわ」

「『烏』の幹部は、私情を挟まず必ず皇帝に従えるよう、自ら強烈な暗示を掛けるんだ。金璽に従い、皇帝の敵のみを屠る――その掟を破れば、自害する羽目になる。袁氏が皇帝を害して金璽を奪ったなら、『敵』と認定して殺せるが、皇帝の意志のもと委譲されたなら、皇帝の代理人としてやはり従わなくてはならない。馬鹿らしいことこの上ないがな」


 吐き捨てるように告げる礼央を、珠麗はじっと見つめた。


 思えば、手掛かりはそこら中に転がっていたのだ。

 いち貧民窟の賊徒長というには、やけに凄みのある佇まい。

 大規模な裏稼業も手がけ、芸術品にも精通し、後宮への潜入さえ難なくこなす。

 市井の人間では知るべくもない隠密部隊の存在や、その在り方まで知悉ちしつし、相棒のようにして、烏を肩に留まらせる、彼。


 ずっと目を逸らしてきたけれど、礼央はもう、隠すつもりもないのだろう。


「礼央。あなたは……『烏』の関係者なのね?」

「一応、後継者と目されている」


 あっさりと答えた礼央に、珠麗は深い溜息を落とした。


 なんでそんな人物が、寒村の賊徒集団なんかに、とは思うが、驚きは少ない。

 うっすらと感じ取っていた違和感や懸念が繋がり、「はあ、そうかあ」というのが、正直な感想だ。


「いや、でも待ってよ。なんで『烏』の後継者の礼央が、次期皇帝を襲わせるのよ。皇帝に絶対的な忠誠を誓う部隊なんでしょ、『烏』って?」

「俺は『烏』を継いでいない。継ぐとしても、『烏』には忠誠を捧げる前に主を試す風習がある。やつを試したい衝動に駆られただけだ」


 礼央はしれっと答えてから、少し考え、珠麗を見つめながら付け足した。


「あとは、私怨」

「なんかそっちが本音に聞こえるけど。だめでしょ、それ……」

「ああ。後悔している。しっぺ返しを食らって最悪の気分だ」


 礼央の発言はいまいち真意が掴めない。

 ただ、いつも飄々としているはずの彼が、珍しくうなだれていたので、珠麗は非難の矛先を変えてやることにした。


「まあ、いいわ。今現在『烏』ではない礼央よりも、今現在『烏』の人たちが悪いに決まってるわよ。仁道を逸した主君を仰ぎつづけるなんて、どうかしてるわ。どう考えても、太監長に従うなんて馬鹿だし、不敬を罰するというなら彼を罰するべきよ。なんなら、袁氏が権力欲しさに、陛下に毒を盛って病にしたんじゃないの?」

「だから、それなら『烏』がとっくに袁氏を殺しているはずだと言っている」


 礼央は少々うんざりしたように答えた。


砒霜ひそう、河豚毒、附子ぶし蟾酥せんそ。『烏』はあらゆる毒に精通し、巧みに操る。それらの毒が盛られたなら、見抜けぬはずがないし、そもそも毒見の『烏』が即死しているはずだ」

「で、でもほら、ゆっくり効く未知の毒があるのかもしれないじゃない。花街でも、一時期、気分が高揚する麻黄や五石散が流行して、楼主が対策に苦慮していたわ。あれも、服用しつづけると正気を失うのよ」

「麻薬ならむしろ、『烏』が元締めだ。皇帝の服用を許すわけがない。だいたい、皇帝は何人もの医官によって厳格に安全を確保され、さらには上等な金丹だって容易に服用できる身の上だぞ。毒を盛るなんて、不可能だ」


 礼央が口にした耳慣れぬ単語に、珠麗は首を傾げた。


「金丹ってなに?」

「あらゆる毒を解き、人を不老不死に導く薬だ。錬丹術の、技術の粋だな」

「錬丹術……」


 ごくりと喉を鳴らす。

 仙人が人に混じって暮らしていたという古代に比べればだいぶ緩んだが、天華国の仙人信仰は厚い。

 その仙人がもたらしたという錬丹術は、その名前しか知らないものの、なんとも畏敬の念をくすぐる響きがあった。


「錬丹術って、本当にあるの?」

「皇帝は十年以上前からのめり込んでいるようだぞ。なんでも、毒見の『烏』が金丹を含んだところ、たった一口で十日も体調がよかったそうだ。半年までは毒見を理由に相伴に与っていたが、皇帝が金丹を惜しんだため、以降は分けてもらえなかったとか」

「へええ」


 珠麗は純粋にその効果に感動するとともに、「烏」は薬まで皇帝と同じものを、それも半年も飲み続けるのかと驚いた。

 それはたしかに、遅効性の毒でも盛ることは難しそうだ。


「でも半年とはいえ、その『烏』は、ちょっとした役得ねえ」

「まあな。あまりにそいつが羨ましがるものだから、俺も一度、ひと儲けできないかと金丹の作り方を調べてみた」


 一方礼央は、金丹の金銭的価値に注目したようである。


「調べるって……礼央は医術の心得もあるの?」

「いいや。太監長の記したという処方箋を盗み出させただけだ。だが、配合はわかっても、原料の入手が難しくてな。霊芝れいしなんて序の口で、百年生きた蛙の油だの、熱帯に生える実の種だの、贅を尽くした薬材ばかりだ。唯一、身の回りで手に入る材料があるとしたら、朱砂くらいか」

「朱砂?」


 耳慣れない名を、珠麗はどきどきしながら反芻した。

 原料の一つでしかなくとも、それを含めば、金丹の数分の一の効果が得られるかもしれないわけだ。


「色付けに使う粉だ。金丹は鮮やかな、いかにも神秘的な朱色をしているからな。もちろん、この色付けの粉さえ、不老不死に繋がるいわれがある」

「どんな?」

「朱砂というのは、実に不思議な鉱物でな。もとは赤く透き通っているんだが、熱すれば溶けて銀色の液体に転じ、温度を上げれば再び赤く固まり、さらに熱すればふたたび銀色の液体に戻る。熱を得ながら、美しい姿を循環しつづけるんだ。まさに不老不死の妙薬という感はある」

「…………」


 珠麗はふと、黙り込んだ。


「はたして原料のうち、どれの効能なのかはわからんが、袁氏の調合する金丹は、実際よく効いているようだ。金丹を含むと、皇帝の激情も収まるらしく、それもあって、袁氏は忠臣として厚遇されている。つまり、毒を盛るなんてとんでもない。病に罹った皇帝を、彼の金丹だけが救っているというわけだな」


 だから「烏」とて、太監長を弑することは――と礼央は続けたが、珠麗が考え込んでいるのに気付くと、眉を寄せた。


「どうした?」

「……私」


 朱色の唇が、ぽつんと呟く。


「陛下の変貌の原因が、わかってしまったかもしれない」

「なんだと?」


 驚く礼央に、珠麗は思い切って、自分の考えを告げてみた。

 花街で得た経験、そこから導き出される、荒唐無稽にも見える推理を。


「…………」


 礼央は小黒の羽を撫でながら、しばし考え込んでいた。

 頭ごなしに否定はされなかったが、受け入れがたい様子にも見える。


 だがやがて、彼は珠麗に向き直り、口を開いた。


「もしそうならば、俺はもう少しこの場に留まり、頭領おやじに連絡を取らねばならない。珠珠、おまえをこの場で連れ去るつもりだったが、少し後になりそうだ」

「え? 刻限に間に合わなかったのに、私を、助け出してくれるつもりだったの?」

「そうでなきゃ、なんで今まで後宮なんかに残っていたと思う」


 即座に返され、珠麗は目を真ん丸に見開いた。

 安堵と、歓喜と感謝とが一度に押し寄せ、頬が赤らむが――いや待てよと思い直す。


「そ、そのう、守料については……」

「阿呆」


 だが、おずおずと質問しかけたところ、額を指ではじかれ遮られた。


「おまえの目に映る俺は守銭奴か? 鬼か? 守料は取らない。俺の手落ちで刀傷をこさえた女から、むしり取れるわけないだろ。無料で、俺たちの貧民窟まで連れ帰ってやるよ」


 しかめっ面だが、親愛の籠もった声である。

 珠麗は顔を輝かせ、「礼央!」とその両肩を叩いた。


「やっぱりあんたって、いい男! 信じてた! あんたは天華国で一番器の大きな男よ!」

「へえ、それは誇らしいな」


 礼央は口の端を引き上げ、珠麗を抱きすくめる。

 まるで睦言を囁くように、耳元に唇を寄せ、しかし彼はとんだ暴言を寄越した。


「だが、おまえも誇っていいぞ。おまえは天華国で一番胸の大きな女だ」

「――――!?」


 ぎょっとして腕を突っ張る。

 すっかり忘れていたが、今の自分は白衣したぎ一枚の姿なのだった。


「な……なっ、な、なな……っ」

「胸から痩せなくてよかったなあ、白豚妃? ああ、そうすると柔らかな谷間がよく見える。だが、焼き印も見えそうだから、くれぐれもほかの男の前では、身頃をきつく合わせろよ」

「言われなくてもそうするわよ!!」


 火事場の馬鹿力を発揮して腕から逃れると、珠麗は顔を真っ赤にして衿を合わせた。


「最低! ろくでなし! 変態!」

「さて、俺はこれから一度皇宮に向かう。戻って来られるのは早くて正午だ。ちょうどその頃、皇太子――替え玉のほうだが――の来訪に合わせて、後宮中の注目は彼の移動に集まる。その隙をついて、脱出するぞ」


 涙目での非難などそよ風のように聞き流し、礼央はしれっと脱出計画を持ち出す。

 仕方なく珠麗も怒りを引っ込め、表情を改めた。


「わかったわ」

「そのとき、おまえを監視する人員があれば、倒さざるをえない。が、なるべくなら女には手を掛けたくない。うるさいしな。皇太子来訪の瞬間、一人きりになれるか?」

「なれる」


 確認の問いには、力強く頷く。


 正直なところ、蓉蓉や夏蓮を振り切るのは難儀しそうだと思ったが、仮病を使えば、やってやれないことはない。

 蓉蓉たちは妃嬪候補なのだから、いざとなれば、病身の女の介抱なんかよりも、儀への参加を優先するだろう。

 夏蓮も、水でも汲みに行かせればいいのだ。


(というか、情報の利を活かすなら、準備に時間が掛かっている私のことなんて置いて、今ごろ皆、すでに舞台に向かっているかもしれないわね)


 せっかく今日の選抜内容は舞だとわかったのだ。

 目端の利く女なら先に舞台へ向かい、用いられる楽器から曲を割り出したり、ほかの候補者を押しのけて練習に励んだりするだろう。

 そして、後宮にいるのは、そうした、他人を蹴落としてでも成り上がりたい女たちばかりなのだ。


 太陽の位置を見てみれば、刃傷沙汰に巻き込まれたせいで、すっかり白泉宮に戻る予定時刻を過ぎている。

 のんびり戻れば、到着するころには、きっと白泉宮はもぬけの殻になっているだろう。


「楽勝だわ」


 自信満々で目算を立てていると、なぜだか礼央は微妙な顔をした。


「なんだか……おまえがそういうことを言うと、反対に凄まじい不安に駆られるんだが」

「失礼ね! 大丈夫よ、計画も完璧に立てているのよ。まず厨に忍び込んで胡麻を手に入れるでしょ。私、胡麻を食べ過ぎると発疹が出るから、それで病を装うのよ。周囲は感染を恐れて、自ら私と距離を取る、ってわけ」

「参考までに聞くんだが、血塗れの衣か、白衣したぎか、舞踏用の派手な衣装のどれで、目立たず厨に侵入するつもりなんだ?」


 半眼で指摘されて、珠麗ははっとした。

 言われてみれば、思い切り目立つ衣装の選択肢しかない。


「そ、それはその、気合いで……。厨房付きの女官を殴り倒すとかして、ですね」

「ほう。儀の最終日である今日、厨は宴の準備で、百を超える女官がひしめいているが、その全員を殴り倒すと」


 言葉に窮した珠麗に、短く溜息をつくと、


「小黒」


 礼央は近くの枝に移っていた烏を呼び寄せた。


「厨から胡麻を奪って、こいつの頭上に叩きつけろ」

「叩きつけなくてもいいじゃない! 意地悪! ありがとう!」


 複雑な心境で礼を述べると、礼央は「念のため」と、半透明の膜のようなものを差し出してきた。


「なにこれ?」

「豚の腸を薄く延ばして、小袋にしたものだ。中に血を溜めておいて頬に仕込み、歯で噛み割れば、とても自然な吐血が演出できる」

「へえ……」


 おそらく、これまでの人生で一番くだらない豚の腸の使い方だ。

 だが、たしかに吐血というのは印象が強くてよいと思い直し、受け取った。


(血は、穢れ。吐血している人間には、近寄りがたいものね)


 四年前を思い出す。

 あの日、楼蘭の「危機」に珠麗が悲鳴を上げたとき、間違いなく、女官や太監は周囲にいたと思う。

 だが、彼らは吐血する楼蘭を恐れて、こちらがどれだけ助けを求めても、なかなか近寄ってこなかったのだ。


 後宮の女たちは、簡単に見捨てる。

 人々は冷酷で、優しさは裏切られ、弱者は救われない。

 世界の残酷な在り方を、珠麗はもう知っているのだ。


(でもその残酷さが、今日の私を救う。世の中って、不思議なもんね)


 ふと、しみじみとした感慨を覚え、珠麗は柔らかな腸のかけらを、そっと握りしめた。

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