26.戦うつもりじゃなかった(3)

 どっ!


 衝撃に備えて、咄嗟に目を瞑る。

 胸元を、焼けるような熱が一筋掠めていき――しかし、それだけだった。


「え……?」


 倒れているのは、自分ではなく、太監。

 地に臥す太監の首元には、深々と壺の破片が刺さっていた。

 その彼が倒れ際に手放した刀が、珠麗の前身頃を掠めていったのだ。


「珠珠!」


 どっと鼓動が速まる。


「信じられない。君が倒したのか?」


 背後を振り返り、事態を理解した自誠が愕然とした顔で問い詰めてくるが、答えるどころではなかった。


「それとも『烏』か……? いや、そんなことより、珠珠、斬られたのか……!」


 白い衣に滲む鮮血を見て取り、自誠が顔を険しくして詰め寄ってくる。


「見せるんだ。傷はどの程度――」

「や、やめて!」


 我に返った珠麗は、両手で自身を掻き抱くようにして後ずさった。

 斬りつけられたのは、焼き印のすぐ下だった。


「無事よ。大したことないから、見ないで!」

「馬鹿を言うな!」


 珍しく、自誠が声を荒らげる。


「恥じらっている場合かい? だいたい女の身で、なんという無茶をする!」

「し、したくてしたわけじゃないわよ!」


 反射的に叫び返しているうちに、恐怖に凍り付いていた感情が一斉に押し寄せてきて、思わず珠麗は目を潤ませた。


 もうたくさんだ。

 逃げようとするたびに、郭武官は毎度自分を追い詰めてくるわ、正体は皇太子であるようだわ、目の前で人は死ぬわ、陰謀に巻き込まれるわ。

 一度にたくさんの刺激に晒されて、頭が沸き立ってしまいそうである。


「も、もう、とにかく、私に近付かないで。見ないで。み、見られたら、私……っ」

「泣かないでくれ……」


 ひくひくと喉を震わせはじめた珠麗を見て、自誠が困惑したように身を引く。

 それから、その声を一際甘くして、静かに囁いた。


「泣かせてしまって悪かった。君が僕のせいで傷を負ったということが、咄嗟に受け入れられなかったんだ。不埒な真似はしないと誓うから、傷を検めさせてくれ。責任を取りたい」

「責任なんて取ってくれなくて結構よ」

「せめて詫びを」


 眉根を寄せた珠麗にめげず、自誠はそっと、一歩近付いた。


「僕の正体は、もう理解しているのだろう。身分に見合う詫びくらいは、させてほしい。か弱い女性に、僕のせいで傷を負わせてしまったなど、矜持が許さないんだ」


 百人女がいたら、百人とも胸を高鳴らしそうな美貌を寄せられ、真摯にささやかれたが、珠麗は胸の代わりに、赤くなった鼻を「はっ」と鳴らした。


「甘い声で囁けば、誰もかれもが従うとでも? 郭武官」


 心が恐慌状態を脱し、感情が反転して強い怒りが込み上げる。

 明かされた名ではなく、これまでどおりに相手を呼び、珠麗は胸をどんと突き飛ばした。


「泣き出した女に優しく囁ける男なんて、ろくでなしだと相場が決まってんのよ。あんたが詫びたいのは、私に申し訳なく思ったからじゃなくて、借りを作るのが嫌だからでしょう。そんな詫びなら、いらないわ。責任を取らずとも、守ってもらわずとも、結構!」


 きっぱりとした宣言に、自誠が息を呑む。

 それは、彼がこれまで誰にも見せたことのない、無防備な表情であったのだが、怒り心頭の珠麗はそれに気付かなかった。


「っていうか、状況をよく見なさいよ。むしろ、私があんたを守ったんじゃないの! まずそこに感謝してひれ伏しなさいよね! そして、離れて! こんなの自分で手当てできるし、胸を見られるほうが被害甚大なのよ! さっさと、この場を去って!」


 一気に言い切り、大きく息を吐き出してから、珠麗はふと思った。


(……あれ? 待って、私、今誰に啖呵を切ってるわけ?)


 皇太子殿下である。

 怒りのあまり無視していた事実がにわかに頭をもたげはじめて、珠麗は青褪めた。


(えっ? えっ? それって、もしかして、まずくない?)


 いや、もしかしなくても、まずい。


 死した皇族に捧げる贄を盗んだだけで、腕を切り落とされるのだ。

 次期皇帝を「あんた」呼ばわりして、突き飛ばすなど、嬲り殺されてもおかしくはなかった。


「あー、あ、あの……っ」

「……そうか。そうだね」


 珠麗はしどろもどろになったが、自誠はそれには構わず、ぽつりと呟いた。


「君は、僕を守ったのか」

「は?」

「……さすがは巫女の予言だ」


 唇に指先を当てて、なにか考え込んでいるようである。

 急に置いてけぼりを食らった珠麗は、困惑に眉を寄せた。


「さっきから何なのよ、怒鳴ったり、囁いたり、独り言を言ったり……」

「……僕は、怒鳴っていたかい?」

「それすら自覚がなかったわけ!?」


 思わず叫ぶと、自誠は目を瞬かせた。


「へえ」

「なによ、『へえ』って!?」

「いいや」


 話を逸らすように、自誠はぐるりと太監たちを見下ろす。

 彼らの身分証である腰佩ようはいを帯から切り取ると、それをたもとに収め、ようやくこちらに向き直った。


「さて、君のおかげで、証拠の金璽も守りきれたし、袁氏配下の太監たちの名も割れた。礼を言うよ」

「爽やかに話題を変えるわよね」

「傷については、今ここで無理に検めるのはやめよう。追って白泉宮に医官を手配するから、手当てを受けるように」


 穏やかでありつつも、反論を許さぬ口調で告げてから、彼は微笑んで請け合った。


「怪我が理由で儀に参加できなくても、落札とはならぬよう仕向けるから、安心してほしい」

「え!?」


 むしろ安心要素が消えた。

 ぎょっとし、だがその拍子に胸元がはだけそうになったため慌てて身を掻き抱き、と慌ただしい珠麗をよそに、自誠は颯爽と踵を返した。


「では言葉に甘えて、失礼するよ。実際、もはや一刻の猶予も許されない」

「いや、あの……」


 呼び止める間もなく、茂みに姿を消した彼を、珠麗は呆然と見送った。


「もう、なにがなにやら――」

「とりあえず、どつぼに嵌まったと思ってもらえれば間違いない」


 とそのとき、突然頭上から声が降ってきて、珠麗はぎょっとした。

 見上げてみれば、なんと樹の幹の上に、見知った男が腰かけている。


「礼央!?」


 驚きのままに叫べば、彼は溜息とともに、足音も立てずに飛び降りてきた。

 まるで猫のような、しなやかな身のこなしである。


「昨晩、ここを出て行ったんじゃなかったの!?」

「こんな危険物を、そのままにしておけるものか」


 彼は、げんなりとこめかみを押さえていた。

 なぜなのか、彼は珠麗といると、この仕草をすることが多い。


「これがやつ・・の天運ということか。いくら俺が試したからとはいえ……なんでおまえが大当たりを引きに行くんだ……毎度毎度、だれかれ構わずたらし込みやがって……」

「礼央? あ、小黒も」


 いつの間にか宙を滑り降りてきた小黒も、まるで慰めるように礼央の肩に留まっている。

 カァ……、と諦めたように鳴く烏が、壺の破片をくちばしから落としたのを見て、珠麗は、先ほどの太監を仕留めたのが誰だったのかを理解した。


「もしかして、さっきは、礼央が助けてくれたの?」

「……まあな」

「どうもありがとう」


 地に臥して事切れている太監たちを見つめながら、珠麗は短く礼を述べた。

 仲間を助けるためとはいえ、彼が容易に人を殺めるのを見ると、やはりなんとも言えない気持ちが湧き起こるのだ。

 人殺しは罪深い、けれど綺麗ごとを言える身でもない――そんな複雑な思いを持て余し、口元を歪めていると、ふと礼央が頬に手を添え、顔を持ち上げた。


「傷が痛むのか?」

「え? いいえ――」

「すまなかった」


 珍しく、鋭いはずの瞳が、悄然としている。

 彼はもう片方の手で懐を漁ると、小ぶりな貝の容器を取り出した。


「朝顔の実と麻沸散まふつさんを練って作った痛み止めだ。傷口に塗ってくれ。もし熱が出るようなら、こっちの丸薬も砕いて飲め。ああ、それから、これは包帯代わりに。自分で止血できるか?」


 いや、貝だけでなく、上等そうな丸薬も差し出し、さらには、自分の衣の袖まで引き裂いて、押し付けてくる。

 過保護と言っていい態度に、珠麗は目を白黒させた。

 いや、たしかに面倒見のいい男ではあるが、こんなに心配そうな顔はされたことがない。


「ど、どうしたの、礼央? あんた、私が鶏捌きに失敗して手を血塗れにしたときも、失笑してたような男じゃない」

「出会って間もない頃の話だろう。それに、俺のせいで傷を負ったとなれば、話は別だ」


 忌々しそうに呟く礼央に、首を傾げる。


「いや、郭武官が刺客に追われていたところに、私が巻き込まれただけでしょう? どうしてそれが、礼央のせいになるの?」

「……その刺客をけしかけたのは、俺だから」

「はあ!? なにそれ、ばかじゃないの!? あんた、いったいなにしてんのよ!」


 呆れて叫ぶと、礼央はすうっと目を細め、両手でがしっと珠麗の頬を挟みこんだ。


「ほう、聞きたいか。郭武官に扮する男の正体やその事情、俺がなぜやつを試したかの因縁まで含めて、全部聞きたいか」

「へ……っ!? い、いひゃだ、聞きたくなひ……っ」

「そうかそうか、よく聞かせてやろう。だいたい、触れたくもないあれこれに俺が触れてしまったのも、おまえがうかうか後宮に攫われ、その後もだらだらと居座っちまったからだもんなあ?」


 珠麗は必死でもがいたが、礼央の手はびくともしなかった。

 彼はにやりと笑うと、ご丁寧に耳元に唇を近付け、しっかりと言葉を注ぎ込むようにして話した。


「よく聞け。郭武官の正体は、皇太子・自誠。後宮の腐敗が進む中、己の妃嬪となる女を見極めるために、乳兄弟であるかく げんと入れ替わって、数年前から潜伏を始めた」

「い、いや、やめへ……!」

「目的はもうひとつあって、こちらのほうが重大だ。それは、後宮で権勢を誇る太監長・袁氏の、権力の源泉を探ること。妃嬪は彼に恐ろしいほど従順だし、その後宮掌握の手腕と、錬丹術への貢献から、皇帝さえ彼の言うなりだ。袁氏の増長を止めるには、その権力の源泉を探り、不正の証拠があればそれを握る必要があった」


 礼央の話し方は要領がよく、すんなりと内容が染み込んでいく。

 否が応でも泥沼政争を理解させられてゆく感覚に、珠麗は涙目になった。


 袁氏は清廉な人物に見えた。

 金子のやりとりをした形跡も、秘密の地下牢で人を嬲った形跡も、人事を強行したこともない。

 なのになぜか、寵愛を誇る祥嬪しょうひんでさえ、彼には頭が上がらない。

 証拠探しは難航したが、自誠たちはとうとう真相に行きついた。


 からす

 皇帝直属であるはずの隠密部隊を、金璽を使って私物化し、その圧倒的な武力でもって、妃嬪を掌握しているのだと。


「子を守ることに必死の妃や、無力な嬪や貴人など、袁氏にとってはどうでもいい。ただし入内してすぐに寵愛を受けるほどの美貌と、知恵を持つ祥嬪は厄介だった。だが逆に言えば、彼女を支配下に置けば、あとは祥嬪が後宮を程よく管理してくれるということだ。そこで袁氏は、彼女を標的にし、脅すことにした」


 思いがけず出てきた祥嬪の名に、珠麗が目を見開く。

 礼央は懐を漁ると、折りたたまれた紙を取り出した。

 優美な女の手跡。

 楼蘭ろうらんが書いた手紙だ。


「これをやろう。かつて祥嬪が、家族に向けた手紙だ。なかなか興味深いぞ。読んでみろ」


 礼央が頬から手を放し、手紙を押し付ける。

 その内容を読み取り、珠麗は息を呑んだ。


『――名君でいらした陛下の面影は、もはやございません。陛下は獣になられた。老いさらばえた獣のように身を丸め、呻いてばかり。だらだらと涎を垂らし、妄想に取りつかれては怒り狂っておいでです。平時、政務の際には、大臣たちが必死で押し支え、陛下自身も衝動を堪えているようですが、夜、あるいは無力な奴婢や女子相手には、それを露わにされるのです。たとえば――』


 そこに描かれていたのは、賢君と名高い今代皇帝の、思いもかけぬ姿だった。

 手紙は三枚にも及び、楼蘭自身に関わる部分では、恐怖に震えるように、字が揺れていた。


『――わたくしも、とぎのたびに堪えがたい責め苦を受けております。背中に熱したこてを当てられたことも、首を絞められたことも、虫や刃物を使ってさいなまれたこともございます。入内時、陛下にはわたくしの声がよいと褒められました。ですが今や、その真意がわかります。陛下は、わたくしの悲鳴がお好みなのです』


 いつも儚げな笑みを浮かべていた楼蘭の姿を思い出す。

 声は鈴が鳴るようで、家族思いの性格は天女のようだった。


『陛下は妃様方を伽にはお召しになりません。上級妃は皆大臣の娘で、彼女たちをいたぶれば、政務に支障が出ると理解されているからです。また、家格や容姿、才能に劣ると見なした嬪様方や、ほかの貴人たちも、お召しになりません。つまらないからです。わたくしは、家格が適度に低く、気骨があると見込まれて・・・・・、伽に呼ばれるようになりました』


 まだ貴人だったころの楼蘭を思い出す。

 妃嬪やほかの貴人たちを差し置いて、寵愛を一身に受けていた彼女。

 けれど、表情は硬かった。

 女たちの嫉妬を恐れてのことかと思っていたが、彼女が本当に恐れていたのは、皇帝その人だったのだ。


『陛下の気の病は、近頃一層加速しています。いち貴人のわたくしには、伽を断っても無事で済むような、後ろ盾などございません。どうかお助けください。わたくしを、後宮から救い出してくださいませ』


 最後の一文までを読み切って、珠麗は青褪めた顔を上げた。

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