25.戦うつもりじゃなかった(2)

「はああ……」


 珠麗は、真新しい白衣したぎに袖を通してから、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。


 泉のほとりである。

 すでに太陽は天高く登ろうとしていたが、生い茂る枝に遮られ、泉の周囲は鬱蒼うっそうとしている。

 存在が知られていないという泉は、透き通って鏡のようであった。


 傍らに置かれている湯桶からは、沈められた温石の甲斐あって、ふうわりと湯気が立ち上る。

 霧たゆたう泉、という、まるで絵のような光景になっているわけだが、それを味わう余裕など、今の珠麗にあるはずもなかった。


(気持ちよかった……ちょっとのぼせた……いや、そうじゃない。そうじゃなくて)


 どんよりとした目で、湯桶を振り返る。


 嘉玉が心を砕いて用意してくれた湯桶は、湯加減も素晴らしく、冬だというのに花弁まで散らされていた。

 おかげで獣血もきれいに流され、うっかり至福の入浴を楽しんでしまったが、いやいや、そんなことをしている場合ではないのである。


(流されるままに、後宮に居残っちゃってどうすんのよ……っ)


 今頃は胡麻で発疹を起こし、伝染病の発生源として後宮から蹴りだされているはずだったのに、結局これまでの時点で自分がしてきたことと言えば、豚を捌き、入浴して身ぎれいになったことくらいである。

 充実感すら漂う。


(焼き印が見られれば、即処刑だっていうのに、さすがに危機感がなさすぎるんじゃ!?)


 珠麗は屈んだまま、衣の身頃をぎゅっと掴んで懊悩した。

 この襟元が少しでもはだけようものなら、待つのは死なのだ。

 だというのに、この呑気さときたら我ながら呆れるほどだ。


(いっそ、今、逃げ出しちゃうとか……)


 にわかに差し迫った心地を抱き、ふと周囲を見渡す。

 入浴介助を申し出た女官たちを全力で追い払った甲斐あって、今、珍しく珠麗は一人きりだった。

 そして、白泉宮に戻ろうものなら、賭けてもいい、けっして一人きりになることはないだろう。


 用意された鮮やかな舞衣装を胸に抱き、下着姿のまま、そうっと立ち上がってみる。

 外れというだけあって、泉の背後に広がるのは塀。

 その後ろには、広大な森と山が広がっており、この塀を越えさえすれば、理論上、後宮の敷地からは出られることになる。


(い、行っちゃう……?)


 心拍数が跳ね上がる。

 文字通り着の身着のままで、せっかく掻き集めた礼央への心付けも、殿内に置いてきてしまったが。

 路銀はおろか、目先の食料も皆無だが。

 野営は慣れているほうだし、工夫すれば、森を生きて出られるかもしれない。

 敷地から離れてしまえば、あとはどうとでもなる。


 豪奢な衣は、売り払えば金になる。

 入浴用に渡された香油壺があるから、それも持っていこう。

 寒さをこらえてくつだけを履き、念のため泉の水を飲んでから、珠麗はそうっと、塀のほうへと近付いてみた。


 この高さなら――。


「逃がさん!」

「うわあああああ!」


 が、突然背後から、茂みを掻き分ける足音と、男の鋭い叫び声が聞こえて、珠麗は飛び上がった。


 慌てて振り返ってみれば、凄まじい勢いで近付いてくるのは、なんと郭武官である。


「ひえっ!」


 とうとう彼は、こちらが逃亡を計画しただけで、それを察知する能力を会得したのか。

 が、よく見れば彼は険しい表情で口を引き結んでおり、大量の足音も、荒々しい怒声も、彼の背後から・・・・響いているのであった。


 どうやら、「逃がさん!」の対象は、郭武官のほうであったらしい。


「へ!? な、なに!? どういうこと!?」

「なぜ君がここに……!」


 狼狽していると、彼のほうも珠麗を認めたらしく、驚きに目を見開いている。

 いやしかし、尋ねたいのはこちらのほうであった。


「なぜもへちまもないわよ! なんだってこんな僻地に――ぎゃっ!」

「危ない!」


 が、事情を問う間もなく、いきなり短刀が飛んできて、悲鳴を上げる。

 咄嗟に郭武官が抱き寄せてくれて、事なきを得たが、目の前すれすれを通過していった刃先に、ざっと血の気が引いた。


 戦闘に、巻き込まれている。


「なぜ女が一人で、こんな場所にいるんだ!」

「諸事情でよ! あんたこそ、なんでこんな場所で太監たちに追いかけられてるのよ!」

「諸事情だ――くそっ」


 今度は、追いかけてきた男の一人が長剣で斬りかかってきた。

 郭武官も刀を引き抜き、片手で受け止めてみせたが、珠麗を庇いながらの応戦には難儀するらしい。

 舌打ちしている。


 それでも、斬り結んだまま相手を蹴り倒して素早く肩を貫くと、その刀を引き抜く反動で、背後からの斬撃を弾き飛ばした。

 ガッ! と鈍い音を立てる男たちの間を、珠麗は転がるようにして飛び出してゆく。


「おい、君――」

「どうぞ私にはお構いなく!」


 せっかくの庇護をさっさと逃れてしまったことに、郭武官は驚いたように目を瞠ったが、珠麗は構わず叫んだ。


 これでも、賊徒頭の礼央と近しかったために、荒事にもそこそこ巻き込まれているのだ。

 見たところ、郭武官は相当の手練れのようだし、となれば、自分ができるのは、彼の邪魔をしないよう、さっさと距離を取ることだった。


「私、この人と関係ありませんから! しがない通行人ですから! この一連の出来事を、見ても聞いてもいませんから!」


 このとき、さりげなく郭武官よりも後ろに陣取るのがコツだ。

 こうすれば、攻撃のほとんどは彼に当たる。

 要は、盾である。

 一番強い人間の背後に隠れる――これが、礼央と過ごした二年で珠麗が学んだことであり、そのために彼女の指定席は常に礼央の後ろだった。


「はは、盾扱いかい? まあ、いい。腕に抱きながら戦うよりは、やりやすいね」

「同意いただけてなによりよ」


 すぐに激しい剣戟戦に戻っていった郭武官に、にっこりと頷く。

 が、追手の太監が、彼の集中を削ごうとしてか、ぐるりと回り込んで珠麗に剣を向けてきた。


「ちょっと! だから、私は巻き込まないでって言ってるじゃない!」


 珠麗は咄嗟に香油壺を割り砕き、その破片を相手の手首めがけて振りかぶった。

 狙いが逸れ、かすり傷しか負わせられなかったが、反撃されたことに驚いたのか、相手が体勢を崩す。

 すかさず体当たりして地面に沈め、刀を奪い取った。


「やるじゃないか」


 その間に二人を斬り倒した郭武官が、軽く目を見開く。

 声には珍しく、素直な称賛の響きが籠もっていた。


 だが、珠麗としてはそれどころではない。

 反撃したことで「郭武官側の人間」と認定されたらしく、ほかの太監たちまで珠麗に襲い掛かってきたのである。


「この女……!」

「きゃああああ!」


 砂で目つぶし。


「ちょっと無理いいいい!」


 奪った剣を投擲。


「ひえええええ!」


 股の下をくぐって攻撃を回避し、敵同士を頭突きさせる。

 ぎゃあぎゃあ騒ぐものの、珠麗は下町流の戦法で、しっかりと敵の数を減らしていった。


「……清々しいほどに、汚い手ばかりだね?」

「悪い!?」


 華麗かつ正攻法の剣捌きで敵をなぎ倒していた郭武官が呆れたように呟いたので、思わず噛みつく。

 すると彼は、こらえきれないというように吹き出した。


「くっ……、いいや。実にいい」


 見れば、彼の周りの太監たちは、全員地に倒れ伏している。

 そのうちの一人から剣を引き抜くと、彼は、背後から珠麗に襲い掛かろうとしていた太監に向かってそれを投げつけ、いよいよ一人残らず、敵を無力化した。


「ありがとう。君が敵を引き受けてくれたおかげで、難なく倒せたよ」

「…………」


 美しい顔で微笑まれるが、珠麗は完全に息が上がり、返事どころではない。

 しばし、泉のほとりには、はあはあと荒い息の音が響き渡った。


「それにしたって……なんだって君は、そんな無防備な姿で、こんな場所にいるんだい?」


 やがて、愉快そうに問われ、ぎょっとする。

 そういえば、今の自分は頼りない下着一枚の姿なのだった。


「み、みみみ、見ないでよ、変態!」


 身頃を両手で掻き抱き、耳まで真っ赤にしてしゃがみ込む。


「どうしても今湯浴みの必要があって、泉まで来ただけよ。あんたこそ、なんだって――」


 なんだって、敵に追われているのか。

 そう問いかけた珠麗だったが、途中で口をつぐんだ。


 直感が告げる。

 これは、巻き込まれたら面倒なやつだと。


 珠麗は「あー」と唸りながら立ち上がると、努めて、楚々とした笑みを浮かべた。


「おほほ。やっぱり、なにも仰らないでくださいまし。殿方にはいろいろと事情がおありなのでしょう。わたくしは、この一幕はすべて忘れますので、ご安心ください。ささ、郭武官様、お帰りはあちら――」

「自誠だ」

「は?」


 しゃなりと、森の出口を指し示してみせたら、その腕を取られた。


「郭武官――郭 玄ではない。僕の名は、自誠」


 ごく自然な手つきで、そっと指先に口づけを落とされる。


「姓も、聞きたい?」

「いえまったく!」


 妖艶な声での問いかけを、珠麗は脊髄反射で遮った。


 自誠。

 それは、この国の皇太子の名ではなかったか――いや、考えない。

 考えては負けだ。


「聞きたくありません! これっぽっちも!」

「遠慮しないでよ。だって君はすでに、この事態を予測していたみたいじゃないか。薄々、こちらの事情も察しているんじゃないのかい?」

「はい?」


 ぽかんとして顔を上げれば、相手は物憂げに、地に倒れ伏す太監たちを見つめていた。


「武官に襲いかかる太監。君が昨日、画に描いたとおりの光景だ。袁氏は、いよいよなりふり構わず、敵を排除しにかかっている」

「え」


 絶句したのは、単純に、話に付いていけなかったからだ。


「いやあの……私、そんなつもりでは……」

「君はそうやって、すぐに力を隠そうとする。なぜだい?」


 冷や汗を浮かべて逃げを打つと、今度は顎を掴まれ、顔を覗き込まれた。


「教養と才能に溢れ、ときに真実を見通すような行動までするというのに、頑なに能力を隠そうとする。それはいったいなぜで、君は、何者だい?」

「へ……っ? い、いやあの、それは過大評価というか、大きな誤解ですかね……っ」

「そして、女としての栄華にもまったく興味がなさそうだ。――この僕にも。庇護の腕に抱かれても慌てて逃げ出し、顔を寄せられても冷や汗をかくばかり。僕の顔は、そんなにも恐ろしいかな?」


 そう問いかける声は、切なげですらある。

 美貌がいっそう際立ち、周辺の空気を吸うだけで、普通の女性なら気絶しそうな色香であったが、珠麗は純粋に、危機感だけを覚えた。


 この麗しの御仁に正体を見破られてしまえば、待つのは死だからである。


「君は――」


 自誠の視線が、熱を帯びたものになる。

 穴が開くほどに見つめられ、珠麗はいよいよ焦燥を募らせた。

 もともと、やたらと勘のいい男だ。

 これ以上観察されては、焼き印がばれてしまうかもしれない。


「そ、そんなことをしている場合じゃないの!」


 凝視を躱すためだけに、慌てて自誠を突き飛ばし、さっさと彼を追い越した珠麗だったが、そのとき、まさかの事態が起こった。


「…………!」


 先ほど珠麗が体当たりで沈めていた太監が、音もなく、自誠の背後から刀を振りかぶってきたのである。


(えっ!)


 あのまま自誠の腕の中にいれば安全だったろうに、なまじ飛び出て来てしまったがために――今、珠麗は、その軌跡の真ん前にいた。

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