23.捌くつもりじゃなかった(3)

「で、ですが、こんなむごたらしい遺骸を」

「惨たらしい? 美味しそう、の間違いでしょう」

「運ぶのだって一苦労する大きさよ。強がりを言わないで!」

「ばらせばいいのよ。器用な私が捌くと内臓が傷つかなくていいと、評判だったのよ」


 食い下がる蓉蓉ようよう紅香こうかを、珠麗はあっさりあしらう。

 貧民窟で磨き上げた技術が、今こんな場面で身を助けるとは思わなかった。


礼央りおうたちに呆れられてでも、繰り返し豚を襲った甲斐があったってものだわ)


 思い返せば二年前。

 短刀を与えられて歓喜した珠麗は、得物の切れ味を試す狂戦士のように、次々と野生の獣に襲い掛かり、捌きつづけたものだった。

 もっとも、そのほとんどの場合で、興奮した獣に逆に追いかけられたが、平均して三回に二回までは礼央が助けてくれた。

 そして、残る三分の一で珠麗はばりばりと経験値を上げ、今では豚ほどの大きさの獣でも、なんなく調理できるようになったのである。


「そんなの、いけません。わたくし、いつもいつも、珠珠様に助けられてばかりで……っ」


 と、嘉玉が真っ赤になった目で言い募る。

 泣き虫な妹分は、よほど思いつめているのか、ぽろぽろと涙をこぼして裾を掴んできた。


「珠珠様一人に、押し付けることなんて、できません。せめて、わたくしも一緒に……!」

「だめよ、嘉玉様。下手に素人が手を出すと、血生臭さに気絶したり、血だまりで転んで頭を打ったり、斧を振り間違えて人を殺しかけたりと、むしろ足を引っ張るわ。あなたができる最善は、私にすべてを任せることなの」


 すべて体験談であり、最後の部分は礼央に言われた台詞でもある。

 そして実際、珠麗の目的は儀を欠席して一人きりになることなので、嘉玉にいられては迷惑なのであった。


 珠麗はそんな思惑を押し隠し、人が嘘をつくとき特有の、満面の笑みを浮かべた。


「大丈夫。私が本気を出せば、こんなの一刻で終わるわ。その後急いで支度して、私も儀に参加する。本当よ。私が嘘をついたことなんてあった?」

「……昨夜、お酒を召したときに嘘をつかれていたような――」

「ああっ、そうだわ。嘉玉様、あなたには豚の膀胱ぼうこうをあげるわ。きれいにすすいで熱湯を詰めれば、寒い冬にいつでも暖を取れるの。ねっ、特別よ? 嬉しいでしょ?」


 冷静な指摘を寄越しかけた妹分には、賄賂を押し付けて黙らせる。


 膀胱湯たんぽは、珠麗が豚から作り出す加工品の中で最も気に入っているものだ。

 人にあげるのは断腸の思いだが、仕方がない。


 膀胱、と嘉玉が微妙な表情で黙り込んだのをいいことに、珠麗はぱんぱんと手を叩いて、周囲を本格的に追い払いにかかった。


「さあさあ! 皆は殿内に戻って支度をして。お願いよ。本当に、いられても邪魔になるだけなの。私を思ってくれるなら、皆は皆の本分を果たしてちょうだい!」


 そう繰り返すと、嘉玉はじっと珠麗のことを見つる。

 子どものようにあどけない大きな瞳には、涙の代わりに、強い、意志の輝きのようなものが滲みはじめた。


「……承知しました」


 覚悟を決めてくれたのか、嘉玉はひとつ頷くと、ぱっと踵を返す。

 驚く静雅たちに、なにごとかを耳打ちすると、静雅たちもまた、納得したように殿内に引き返す。蓉蓉も、「くれぐれもお気を付けて」と言い残し、しぶしぶといった様子で、その場を立ち去った。


 ようやく静かになったと息を吐く。


(のんびり捌いて、掃除して……うふふ、やむをえず・・・・・、儀は欠席することになるわねえ)


 いざ儀が始まるとき、嘉玉たちは「珠珠様を残して儀に参加など……!」と泣くのだろうが、どうせ皇太子が前を通るとなれば、そんな悠長なことも言っていられないだろう。


(後宮の女なんて、結局自分の身を優先するっていうことは、すでに学習済みよ)


 がそのとき、背後から声を掛ける者があった。


「珠珠様」


 夏蓮である。

 なぜか彼女は、目を爛々と輝かせ、こちらに向かって跪いていた。


「どうか私をお役立てくださいませ」

「は?」

「私は韋族の娘。獣を狩り、捌くことにかけて、右に出る者はおりません。お一人では時間が掛かろうとも、この私も加われば、間違いなく一刻以内にすべての工程を終えられます」


 告げられて、ぎょっとする。言われてみればその通りだった。


(その通りだけど……それじゃまずいのよ!)


 珠麗は顔を引き攣らせながら、なんとか夏蓮を宥めた。


「い、いいえ。気持ちはありがたいのだけど、あなたまで手を血で汚す必要はないわ」

「なぜです? 私は異教の、汚らわしい奴婢……。後宮で、そう私を蔑まぬ者はおりません。やっとそのことが、お役に立てますのに」

「そんなことを言うものではないわ!」


 身を乗り出す夏蓮を前に、なんとか説得の言葉を絞り出す。


「あなた、卑下するようなことを言っているけど、本当は一族にものすごく誇りを持っているんでしょう? それに、言動が落ち着いているから誤解されやすいけど、本当は、血が苦手なくせに」

「……なぜそれを?」

「か、顔を見ればわかるわ!」


 噛みながら、しまったと思った。

 以前、散歩中に偶然鳥の死骸を見つけたとき、夏蓮が震えているのを見たことがあったのだが、それは、「珠珠」が知るはずもないことなのに。


「そう、私は心の目で人を判断するの。出自なんか関係ない。あなたは優しくて、繊細な心を持つ女性よ。そんなあなたに、獣血に触れさせるわけにはいかないわ!」


 力技の大嘘で押し切ると、相手はふと俯き、黙り込んだ。


(さ、さすがに嘘臭かった……!?)


 だが、次に顔を上げた夏蓮が、ひしっと腕を握りしめてきたので、珠麗はぎょっとした。


「珠珠様……! やはりあなた様こそが、私が生涯お仕えすべき方。お恥ずかしながら血は苦手でしたが、今全身に湧き上がる忠誠心で恐怖も吹き飛びました。もとより、族長直々に、それなりの技術は仕込まれてきた私です。豚は、必ずや私が捌きます!」

「は!?」


 まさかの逆効果である。


 制止する間もなく、素早く斧や刀の類を集めはじめた女官を前に、珠麗は白目を剥くかと思った。

 さすが夏蓮。

 一時期は豊喜宮の管理を一手に担っていただけあって、動きにまるで無駄がない。

 なんの躊躇いもなく斧を振り上げる様子を見て、もしやこれでは、半刻も掛からないのでないかと不安がよぎった。


(し、仕方ない、「処理は終わったものの不潔な身では儀に臨めない」作戦に変更よ!)


 後宮では、沐浴もくよくのできる日取りと時間は厳格に定められており、身分の低い貴人の宮では、汚れたからとすぐに湯を浴びられるわけではない。

 絞った布で体を拭くくらいがせいぜいだが、獣臭はそう簡単に落ちるものでもないのだ。


 そう判断して、夏蓮の作業を横取りするなどして、積極的に血にまみれに行く。

 二人で協働した甲斐あって、またたく間に解体を終え、床もあらかた拭き終えた。

 あとは、どうにかして夏蓮の目を盗み、胡麻の入手を果たしたいところだ。


「ね、ねえ、夏蓮。疲れてきたでしょう。順番に休憩しない? 悪いけど、私、汚れすぎて気持ちが悪いから、着替えを済ませて、厠に行ってくるわ。いいかしら?」

「もちろんでございます」


 夏蓮に休憩を勧めても承諾しないだろうことは予想がついたので、あえて自分が先に休憩する姿勢を見せる。

 案の定、夏蓮は快く頷いてくれた。

 厠に行く代わりに厨で胡麻を手に入れ、その後夏蓮に休憩してもらえば、計画通りである。


(よーし!)


 だが、着替えのためいそいそと殿内の室に向かおうとした珠麗は、ぎょっと目を剥く羽目になった。


「珠珠さん! お待たせいたしました!」

「新しい衣、そして手拭いですわ!」

「まずは手足の汚れだけこれで落とすのよ!」

「は!?」


 なんと、蓉蓉と静雅、紅香が、衣や盥を手に駆け寄ってきたのである。


「いや、あなたたち、舞の準備……」

「あなたを差し置いて、そんなのできるわけないでしょう!」


 舞に備えるには、特別な化粧を施し、衣装や道具を用意しと、とかく時間がかかるのが常である。

 しかし、紅香たちはそれを笑い飛ばすようにして言い切った。


「あなたは獣を処理する。そしてその間、わたくしたちは本分を果たして、体を清める支度を整える。分担よ。これなら文句ないでしょう?」

「身だしなみを整えるのは、妃嬪の本分ですもの」

「ねえ?」


 すっかり意気投合した様子の三人は、そうやってくすくすと笑い合う。

 なんでも彼女たちは、自分たちの支度をある程度進めてから、湯を沸かし、珠麗の衣まで用意してこてを当てていたというのだ。


「い、いや、あの……お気持ちは嬉しいけど、残念ながら、拭った程度で落ちる汚れではないのよ。しっかり浸からねば無理だわ。でもほら、今は沐浴できないし、まさか泉に浸かるわけにもいかないし。ええ、本当に残念なんだけど、私は参加を諦めて――」

「お待たせしました!」


 たじたじとしながら、なんとか反論したが、それを遮るように、再び声が響いた。


「沐浴の用意が整いました!」


 なんと、今度は嘉玉である。

 それまでの控えめな態度はどこへやら、彼女は満面の笑みを浮かべると、力強く珠麗の手を取った。


「珠珠さん。白泉宮よりさらに東の外れ、最奥の泉のほとりに、湯桶を用意しましたわ。どうかそこに浸かって、汚れを落としてください。人払いもいたしましたから」

「は……はあ!?」


 予想外の展開である。

 目を白黒させる珠麗に、嘉玉は得意げな子どものように胸を張った。


「わたくしたちでは、豚を捌くお手伝いはできないと判断したため、その後の湯浴みを整えたのです。沐浴処の湯は使えませんが、泉からならいつでも水を汲める。存在を知られていない泉に心当たりがあったので、そこに大桶を運び、石を熱して中に沈めました」

「い、いや待って……どうしてそんな都合よく秘密の泉なんて知ってるのよ……っ」

「お恥ずかしい話ですが、嫌がらせでよく衣を汚されることがあって……ときどきそこで、洗濯をしていたのです。夏場には、沐浴も」


 嘉玉が照れたように漏らした事情の重さに、珠麗は顔を引き攣らせた。


「わたくしの生まれが卑しいからと、これまで嬪や他宮の貴人様方からは、ずいぶん『ご厚情』を賜りまして……。ずっと怯えて、そのご厚情を詳細に日記に綴ることくらいしかしてこなかったのですが、珠珠様に勇気をもらい、その方々に日記をお見せしたら、あら不思議。皆さま快く、桶運びや水汲み、温石の提供に協力してくれました」

「な……」

 それは、儀の直前に脅したということではないのだろうか。

「『妓女の娘は性悪女』。そんな誹りを恐れて、委縮してばかりおりましたが、考えてみれば出自は今さら変えられません。それを本分と割り切れば、心が楽になりましたわ」

「湯浴みは、嘉玉様の発案なのですよ」

「あなたもなかなか、やるじゃないの、嘉玉」


 静雅や紅香は、まるで妹分の成長を見守るように目を細めているが、


(いや、むしろこれ、闇堕ちしてんじゃないの……!?)


 珠麗は冷や汗を浮かべるばかりである。


「さあ、珠珠様、こちらでございます。何人たりとも立ち入らせるなと命じ、もとい、お願いしましたので、どうぞご安心なさって」

「ちょ……っ」

「申し訳ないのですが、あなたには掃除の仕上げをお願いできますか、夏蓮?」

「もちろんでございます」


 こうして結局、否やを言わせない女たちに半ば引きずられ、珠麗は泉のほとりでの入浴を余儀なくされたのである。

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