22.捌くつもりじゃなかった(2)

「そんな! 誤解でございます。わたくしどもは豚を盗みなどしておりません!」

「そうですわ、だいたい、武官によって厳重に警護されているはずの祭壇から、いったいどうやってわたくしたちが贄を盗めるとおっしゃるのです!」

「こちらが聞きたいですよ。まあ、早晩明らかになるでしょう、じっくりと取り調べればね」


 そうして袁氏の腕の一振りとともに、太監たちが一斉に嘉玉かぎょくを、そして静雅せいが紅香こうかを取り囲む。

 

 取り調べ――つまり、太監長もまた、嘉玉たちが選抜に臨むのを妨げようというのだ。


 楼蘭と袁氏は、共犯。

 なにを主張しても無駄だと思い知り、嘉玉たちは震えあがった。


「あのう……」


 と、そこに、やけに緊迫感に欠けた声がかかる。


「そういうことでしたら、私も取り調べていただく方向で、ひとつ……。ほら、私も白泉宮の一員といえば、一員ですし」


 珠麗である。


 緊迫した空気にすっかり取り残されてしまっていたが、楼蘭がせっかく儀への参加を妨害してくれるというなら、それに乗っかろうと考えたのである。

 取り調べで連行されるなら、揺籃の儀を欠席するこの上ない口実になるうえ、うまくすれば追放も見込める。

 そのためなら、盗難の濡れ衣を自分だけがかぶってもいい、と思った。


(楼蘭……どこかの男どもと違って、あんたは、あんただけは、いつも私を逃がそうとしてくれるわね)


 悪意ゆえとはわかっていても、もはや信頼を覚えるほどである。


「な……、珠珠さん!?」

「珠珠様!?」


 思いがけぬ申し出に、蓉蓉と夏蓮がぎょっとして振り返る。

 だが、珠麗は不敵な笑みを浮かべて、二人を制した。


(まあ、安心してよね。あくまでこれは私のためだからさ。楼蘭、残念ねえ!)


 内心では、楼蘭に向かって高笑いを決める。

 楼蘭は嘉玉の妨害と、あわよくば珠麗への嫌がらせを狙ったのかもしれないが、残念、蹴落とせるのは珠麗だけだ。


(今ここで私がすべての濡れ衣を引き受けることで、嘉玉は取り調べを回避し、私は見事に後宮を逃げおおせるってわけ!)


 貧民窟では、盗難は日常茶飯事であり、かなり軽微な犯罪として扱われる。

 いくら規範に厳しい後宮とは言え、さっさと自白してしまえば、せいぜい杖刑のうえ追放、くらいなものだろう。

 女であれば叩かれるのも衣ごしのはずだから、なんとか耐えられる。


 そんな計算のもと、「なぜそんなことを言い出すのです!?」と大騒ぎする周囲をよそに、珠麗は悠々と、楼蘭たちの前に進み出た。


「貴人様方は、昼から大切な儀式を控えているのです。取り調べが厳正ならば、誰に聞いても等しく真実が導き出せるはず。ならば白泉宮の一員として、この私だけを――」

「どうかやめて、珠珠さん! 厳正な取り調べなどあるはずがない! 贄の盗難は腕を切断のうえ追放。か弱き女子では、命すら危ういですわ!」

「!?」


 だが、蓉蓉の悲痛な叫びに、ぎょっとする。


(いや、厳しすぎない!?)


 そして思い出した。

 後宮では皇帝と、その祖先が絶対。

 贄を盗む――つまり祖先を祀る祭壇を荒らす者というのは、厳罰に処されるべきという認識なのだ。


(後宮のやばさ、なめてた!)


 後宮の危険度を忘れていたというべきか、貧民窟の危険度に染まっていたというべきか。

 とにかく、「わーい、冤罪をかぶれば後宮を出られるぞ」と喜べる状況ではなかったようだ。


 だがしかし、すでに自信満々に、「私を犯人役にどうぞ」と申し出ているこの状況。

 珠麗は浮かべていた笑みをぴしっと固まらせ、だらだらと冷や汗を流した。


「まあ。この状況下で自身を取り調べろとは、豪胆な方。それとも、自身が犯人だと認めて、罪を自ら申し出ようとしているのかしら?」

「い、いいえ!」


 にこやかに追い詰めてくる楼蘭に、咄嗟に叫び返す。


「いえ、そうではなくて……」


 そうではなくて。

 けれど、なんと言い逃れればよいのだろう。


「そうではない? なにが違うと? あなた方は、この豚を、嫌がらせではないとおっしゃった。まさか、今さらになって、その発言を翻し、わたくしを責めるおつもり?」

「え、ええと……」

「念のために言っておきますが、証拠もなく罪を突きつけ、人を陥れようとするのもまた、典範に定められた重罪ですわ」


 滑らかに退路を封じていく楼蘭に、圧倒される。

 焦りで視線が泳ぎ、丸々と肥え太った豚を意味もなく見つめ――そこでふと、珠麗は目を見開いた。


「……証拠」

「え?」

「これが生贄の豚であるという証拠は、どこにあるのです?」


 遺骸のそばに跪き、躊躇いもなく豚の前肢を掴むと、一同に向かって掲げる。

 脳裏によぎったのは、かつて郭武官から投げられた、侮辱の言葉であった。


「『祭祀の際、豚の焼き印は前肢の付け根に押すもの』。けれどこの豚には、それがない」

「…………!」


 息を呑んだ周囲に、珠麗は手ごたえを感じ、内心で胸を撫でおろした。


(かつて郭武官に罵られて、よかった……!)


 まったく、人生なにが幸いするかわからないものだ。

 珠麗だってあの忌まわしい言葉がなければ、生贄に押される焼き印の位置など、一生知らなかっただろう。


「たしかに、焼き印はない……」

「な、なぜ、一介の小娘が、贄の焼き印の位置まで知っているんだ……?」

「やはりあの娘、ただ者じゃなさそうだぞ」


 周囲で聞いていた太監たちがざわめいている。

 なぜ焼き印に詳しいかを追究される前に、珠麗は一気に畳みかけた。


「祭壇に捧げられる前、贄と食畜と区別するために、豚には焼き印が押される。なのにこの豚にはそれがない。つまり、これは祭壇から盗まれた豚ではありません。だいたい、祭壇から贄が盗まれたなら、祭壇を警護していた武官がもっと大騒ぎするはず。けれど、武官ではなく、あなたたち太監がやってきた。これはなぜ? もっと続けたほうがいいですか?」

「…………」


 楼蘭が黙り込む。

 頭の回転が速い彼女だからこそ、これ以上の議論は不利になるだけと踏んだのであろう。


「証拠もなく罪を突きつけ、人を陥れようとするのは……なんですっけ?」

「……まあ」


 相手の言葉を使って珠麗がすごむと、楼蘭はごくわずかな間の後、申し訳なさそうに眉を落としてみせた。


「怖いお顔をなさらないで。勘違いしてしまっただけなのです。嫌がらせではなく、自分たちで手配した食料だと言い張るわりには、この宮には女手しかいない・・・・・・・ようでしたから、つい不思議に思ってしまって」


 視線は、周囲の太監たちを油断なく捉えている。

 これはつまり、「この遺骸の処分を、男手は手伝うな」という含みであろう。

 濡れ衣で処分はできぬと判断したから、ほかの手段で儀への参加を妨害しようというのだ。


「太監たちは儀の用意で忙しく、厨の者も宴の用意に大わらわ。清掃の助けはとても呼べるはずはございませんわ。ですがここは白泉宮。後宮の外れとはいえ、この近くの舞台に向かうため、数刻後には皇太子殿下も門前をお通りになる。それまでに、獣血の一滴も残らぬよう清めなくては、殿下への侮辱と受け取られても仕方ありません。大変ですわね」


 言い換えるなら、自分たちの手で遺骸と血痕を処理しなければ、皇太子への不敬で訴えるということだろう。

 言いがかりもいいところだが、たしかに理論としては成立する。


「ですが、ご自身たちで手配した豚とのことですもの。ご自身たちで、責任を取らねばね」


 目を細め、傲岸不遜に言い切った楼蘭に、貴人たちが気色ばむ。

 手伝いを禁じられた太監たちも、さすがに気がとがめたのか、身を乗り出すようなそぶりを見せたが、それを遮るように袁氏が手を叩いた。


「祥嬪様の仰るとおり、あと数刻もすれば皇太子殿下がお渡りになる。贄を盗んだのは貴人たちではないようですし、私はそろそろ失礼しますよ。おまえたちも、早くお渡りを迎える準備をするのだ」


 皇太子の単語を聞いて刻限が迫ったことを思い出したのか、あるいは、贄の盗難自体が捏造ねつぞうであると指摘される前に、さっさとこの場を去りたいのか。

 その両方だろう、そわそわとしている。


「そんな、太監長様!」

「このままでは、せっかく太監長様が目を掛けた珠珠さんとて、儀には参加できませんわ。それでもよろしいのですか?」


 静雅たちが必死の形相で引き留める。

 蓉蓉もまた、袁氏の自尊心に訴えかけようとしたが、彼は冷ややかに肩を竦めるだけであった。


「それもまた、天命のうちだ」


 結局彼にとって、妃嬪などいくらでも替えの利く駒にすぎぬのだろう。

 見栄えがよく、才能に溢れ、太監長を立てる様子を見せたから評価を与えたが、だからといって庇うほどではないということだ。


 楼蘭はちらりと一瞥を向け、袁氏とともに、優雅にその場を去っていった。


「あんまりですわ……」


 やがて、取り残された女たちのうち、蓉蓉が呟く。


「自ら獣血を宮に撒き散らしておいて、清めない限りは儀に参加させないと? 太監たち男手も取り上げておいて……!」


 ぐっと握った拳は、抑えきれぬ怒りで震えていた。


「申し訳……申し訳ございません、皆様。わたくしが、昨夜の時点で儀を放棄して、祥嬪様に跪いていれば、皆様を巻き込むようなことには……!」

「あなたのせいじゃないわよ。私たち全員、一度は目を付けられたんだもの。どのみちこうなっていたわ」

「泣いては、この後の選抜に障りますわ。涙をお拭きになって」


 とうとう泣きはじめた嘉玉を、紅香と静雅がそっと抱きしめる。

 やがて年長の静雅が、覚悟を決めたように顔を上げた。


「嘉玉様。あなたは支度をなさいませ。おそらく本日の科目は舞。あなた様が最も輝ける場です」

「ですが、片付けをしないことには、参加など……」

「わたくしが一人で片付けます。だから、皆様は支度をなさって」


 きっぱりとした主張に、嘉玉たちは息を呑んだ。

 血に塗れて「片付け」などをしていては、まず間違いなく昼からの儀には参加できないからだ。


「なにをおっしゃるのです、静雅様! せっかく教養の部で最上の評価を得たのに、最終日に欠席しては階位を落としてしまいます」

「そうよ、祥嬪様なら、腹いせに女官にまで落とすかもしれなくってよ」


 制止する二人に、静雅は淡く苦笑して首を張った。


「そうかもしれません。けれど、腕を切り落とされて追放されるよりは、ましではなくて? 珠珠さんの機転に、わたくしたちは命を救われました。あとは年長のわたくしが――この白泉宮の貴人たちの、機会を守る」

「そんな……」

「この数年、後宮の空気はすっかり殺伐として、せっかくともに暮らしているというのに、わたくしたちはまるで心を通わせず、わたくしは年長なのに、少しもあなたたちを導きはしなかった。けれど、珠珠さんを見て、目が覚めたの」


 くるりと振り返った彼女に、珠麗は「わ、私!?」と声を裏返した。


「ええ。あなたは呼吸でもするように、わたくしを、貴人たちを、そして女官までをも救ってくれた。わたくしも、なにかをしたくなったのですわ」


 筆しか握ったことのないだろう白い腕をまくり、「掃除なら得意なほうです」と笑う静雅に、いよいよ蓉蓉がまなじりを決し、踵を返した。


「武官を、呼んでまいりますわ」

「蓉蓉さん?」

「事情があるかとは思ったけれど……祥嬪のやり口は卑劣にすぎる。太監が使えぬと言うなら、心ある武官を呼ぶまでです!」


 寵妃の称号を呼び捨ててみせたことに、一同は戸惑う。

 この少女は、いつだって物静かで穏やかであったはずなのに。

 しかし不思議と、険しい表情で門に向かう彼女には、まるで滲み出るかのような、堂々たる風格があった。


「郭武官になら、わたくし、少しつてがありますのよ。こうなったら、引きずってでも――」

「ちょおっと待ったあ!」


 だがそれに体当たりするようにして、必死な声が呼び止める。

 声の主は、もちろん珠麗であった。


「か、郭武官? 郭武官呼んじゃう? いや、やめましょうよ。そんな大事にしなくても、私たちで解決できるわ。ね!」

「ですが、珠珠さん。あなたのおかげで、取り調べは回避できましたが、窮地からは脱していませんわ。我慢も限界です。おぞましくも首を掻き切られた獣を、女手だけで処理することなど――」

「できる!」


 珍しく声を荒らげた蓉蓉を、さらに上回る声量で珠麗は叫んだ。


「できるわ! 私がやる! だから、ことを荒立てないで!」

「珠珠さん……?」

「だって、豚を処理さえすれば、皆、儀に臨めるわけでしょ? 簡単な話じゃない。ここで下手に武官を呼んで騒ぎにしたら、少なくともそのかどで評価が下がるわ。ね? つまり、豚を処理して儀に臨む、これが最善よ」


 懸命に訴える相手に、蓉蓉は眉を寄せた。


「珠珠さん……貴人様方の名声を案じるお気持ちはわかります。けれど、いかに才能溢れるあなたであっても、さすがに獣の遺骸を処理なんて……」

「できる。なんなら、捌いて内臓を処理して、血を煮固めるところまで余裕よ」

「は?」


 目を見開いた一同に、珠麗は胸を張った。


「言っておくけど、私はかなり経験豊富よ。大いに頼ってもらっていいわ。というわけなので、皆は殿内に戻って、支度をしてちょうだい。私は、儀なんか出なくて大丈夫だから」


 さっさと皆を追い払う。

 郭武官と会いたくないがあまりに切り出したことだったが――だって、彼が絡むとなぜかいつも後宮脱出が困難になる――、話しながら、これはなかなか妙手だぞと思いついた。


 盗難の濡れ衣をかぶるのは被害が甚大だったからやめたが、ならば、後始末を引き受ければいいわけだ。

 珠麗だけが掃除をすることで、皆は堂々と儀に参加できるし、珠麗は公然と儀を欠席でき、かつ、豚の肉や内臓まで頂戴できる。


(で、一人きりになった隙をついて、仮病を使えばいいんだわ!)


 こんな奇策を思いつく自分がアレで本当にアレだった。

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