21.捌くつもりじゃなかった(1)

「きゃあああああ!」


 白泉宮はくせんきゅう中に響き渡る、絹を裂くような悲鳴を聞きつけ、珠麗じゅれいはがばっと跳ね起きた。


 自身が寝ているのが、朝陽の差し込む温かな寝台であることを理解し、少々動揺する。

 同時に、すぐ近くから「大丈夫でございますか、珠珠様!」と声がかかり、その声の主が夏蓮であることまで見て取ってから、珠麗はようやく、現状を思い出した。


(ああ、そうか。結局私、殿内に上がってしまったんだわ……)


 昨夜、突然涙ぐんで忠誠を誓いはじめた夏蓮を持て余し、ひとまず、珠麗はもう一晩後宮で過ごすことを決めたのだった。

 一応儀式はまだ続いているわけなのだから、今度こそ大失態を犯せば、まだ落札の可能性はあると信じて。


 それに、胡麻で発疹を起こして病を装うという手もまだ残っている。

 たぶん夏蓮は疲れて寝ているだろうから、自分が早起きして厨に侵入すればいい話だ――そう自分を宥めて眠りについたはずだったが、目の前で跪く夏蓮を見て、珠麗は選択肢が一つ減ったことを理解した。


「……なんで、もう完璧に支度を済ませているのよ、夏蓮?」

「主より先に起き、支度を整えるのが女官の本分でありますので」


 夏蓮は、一筋の髪の乱れもなく、化粧まで済ませていたのである。

 表情は凛と引き締まり、酔いは見る影もなかった。


「あの。体調とか体調とか体調とか、大丈夫なの? あれだけの火酒を飲まされたんだから、もっと寝ていていいのよ。あるいは、御薬房に行って来るとかどう?」

「それが、部族の掟でこれまで酒は飲んでこなかったのですが、私は意外に強い体質であったようです。それに、砂漠を旅する韋族に医者はなく、代わりに幼子でも薬草の扱いに長ける。すでに今朝がた御薬房に忍び込み、記憶を頼りに手当たり次第に薬草を食んでみましたら、ほぼ完全に回復しました」

「強いな韋族」


 思わずぼそりと呟いてから、珠麗はもぞもぞと寝台を下りた。

 自身の脱出が第一とはいえ、先ほどの悲鳴がなんなのかは気になる。


 甲斐甲斐しく世話を焼こうとする夏蓮を振り払い、声が聞こえた方角に向かってみれば、門前には、すでに白泉宮の貴人と女官たちが集まり、ざわついていた。


「なんということ……。いったい誰が、こんなことを……」

「わかりきったことじゃないの、静雅様。かのお方が、火酒の『ご厚情』で嘉玉を妨害できなかったから、次の手を講じてきたのだわ」

「ひ……っ」


 静雅せいがは痛ましそうに眉を寄せ、紅香こうかは顔を怒りに染め、嘉玉かぎょくは真っ青になって震えている。


「やり口が一気に、苛烈化しましたわね……」


 蓉蓉もまた、唸るような声で呟いていた。


「なに? どうしたの?」


 すっかり取り残された珠麗は、人垣をかき分けて身を乗り出し、皆の視線の先にあるものを理解すると、大きく目を見開いた。


 門から入り口へと続く石畳の上に、よく肥えた豚が打ち捨てられていたのである。

 ただしその首は掻き切られ、丁寧にも、血だまりを広げながら、胴体の隣に立てられていた。


 珠麗も思わず、傍らにいた夏蓮の服を握りしめ、「これは、なんて……」と声を震わせる。


「ええ、珠珠様。なんてむごい――」

「なんて、見事に肥った、おいしそうな豚なの……!」

「え」

「『え』?」


 だが、きっとわかってくれると思った夏蓮が、戸惑ったような声を上げたので、珠麗もまた戸惑いの声を上げた。


(だって……こんな毛艶もいい、上質な豚、見るのも久しぶりだって言うのに……)


 美食の残り物をつまめた花街はともかく、貧民窟での食生活は質素極まりなかった。

 いや、礼央に甘えれば上等な肉が手に入るのはわかっていたのだが、なにしろ背後に値札が付いている気がして、手が伸びなかったのだ。

 玄岸州までを踏破する際、生きるために珠麗は蛇や蛙だって食べたことがあったし、貧民窟に落ち着いてからは、獣を狩って捌くこともざらだった。

 もはや、四本足の動物を前にすると、自然と唾が湧くほどに、いろいろ鍛えられていたのである。


 この三日、後宮で食事は供されたものの、儀式の成功を祈って初日に祭祀さいしに豚を捧げるため、最終日にそれが胙肉そにくとして振舞われるまでは、くりやからの食事に肉が出ることはない。


 財力に自信のある妃嬪ひひんは、金子きんすにものを言わせて肉を手配したりするのだが、冷宮に等しい白泉宮の貴人たちにはそれができるはずもなく、つまり、珠麗はここしばらく、肉にありつけていなかった。


「恐ろしいわ……! だ、誰か、一刻も早く、この豚をどうにかしてちょうだい!」

「ですが紅香様、太監たちは皆、朝から出払ってしまって……きっと、太監長様か祥嬪様の差し金ですわ」

「紅香様、静雅様、申し訳ございません……わ、わたくしが、狙われたばかりに、皆様まで巻き込んでしまって……」


 貴人たちは半ば恐慌状態に陥っている。


「ですが、いつまでも動物の死体をこのままにしておくわけにもまいりません。太監がだめなら、心ある武官を――」


 蓉蓉は提案しかけたが、なぜだか途中で口を閉ざした。


「だめですわ、今、は、動けない……」


 なにか懊悩している様子である。


「あのう……」


 珠麗はおずおずと、いや、いそいそと、一同の前に進み出て声を上げた。


「もしよかったら――」

「開門なさい」


 だがそこに、鈴を鳴らすような美しい声が響いた。


「…………!」


 真っ先に、夏蓮がはっと息を呑む。

 白泉宮の貴人たちも、蓉蓉も、一斉に顔を強張らせた。


 恭しく頭を下げる側仕えたちに門を開けさせ、優雅に裾を捌きながら門をくぐったのは、誰あろう――祥嬪しょうひん楼蘭ろうらんであった。


「ごきげんよう、白泉宮の皆様」

「……祥嬪様にご挨拶申し上げます」


 女たちは、警戒を滲ませながら、慎重に礼を取る。


 これまで、妨害を女官やほかの妃嬪に任せていた楼蘭が、こうして直接乗り込んできたのは初めてのことだ。

 その事実に相手の本気がにじむようで、自然と緊張が高まった。


「祥嬪様におかれては、どのようなご用件でいらっしゃいますでしょう」

「まあ、怖いお顔をなさらないで、純貴人。瑞景宮に仕えていた女官がそちらでお世話になると聞いたので、挨拶に伺っただけですわ。ただ、門前まで来てみたなら、ずいぶんと騒がしい様子なので、どうしたのだろうと思いまして」


 楼蘭は、さも心配そうに眉を寄せてみせた。


「いったい、なにが起こったのです? 獣の血で、宮が汚されているではありませんか。厳粛なる儀式のさなかに、豚の死骸を送り付けられるほど、どなたかの恨みを買いましたの?」

「あなた……っ!」

「いけません、紅香様!」


 かっとなって身を乗り出した紅香を、青ざめた嘉玉が縋りついて止める。

 その目には、涙が浮かんでいた。


「し、祥嬪様……っ。お願いでございます、わたくしがご不快ならば、どうかお怒りはわたくしだけに。ほかの皆様を、巻き込まないでくださいませ……っ」


 あどけなさの残る瞳には、恐怖と悔恨とが渦巻いている。


 火酒の「ご厚情」ならば、被害は嘉玉だけで済んだ。

 けれどそれを珠珠なる少女に肩代わりさせ、躱してしまったがために、報復はより苛烈なものとなってしまった――。

 表情からは、彼女のそんな苦悩がありありと読み取れた。


「わたくし、本日の選抜には臨みません。落札となっても構いません。ですからどうか、このような嫌がらせは――」

「まあ、悲しい」


 内気な嘉玉の、勇気を振り絞っての懇願は、しかしあっさりと遮られてしまった。


「恭貴人は、わたくしがこのような嫌がらせをしたとおっしゃるの? 証拠もなしに」

「…………!」

「そして、儀に臨むに際して、わたくしが脅威を感じるほど、ご自身は優れた妃嬪候補であるとおっしゃりたいのね。……自信家ですこと」


 嘉玉がみるみる顔色を失う。

 太監たちはほとんど楼蘭の手の内だ。

 証拠もなしに糾弾しては返り討ちに合うだけだし、非難それ自体を侮辱と捉えられ、罰される恐れすらあった。


 言葉を失った嘉玉の代わりに、静雅と蓉蓉が素早く前に出た。


「恐れながら、祥嬪様。恭貴人は、儀式前の緊張からか、少々取り乱しているようでございます。もちろんわたくしどもは、これを祥嬪様の仕業などと『誤解』してはおりませんわ」

「ええ。まさか、妃嬪の手本たる祥嬪様が、このように卑劣で残忍なことをなさるなんて、ありえませんもの」


 押し殺した声で告げる静雅に比べれば、蓉蓉の言葉選びはいささか好戦的であろうか。

 相手をまっすぐ射貫く瞳には、抑えきれぬ怒りの色が覗いていた。


「まあ」


 だが、楼蘭はかけらも動揺せず、ますます思わしげに、両手で胸を押さえた。


「では、どなたが、こんな卑劣で残忍なことをしたのでしょうね。犯人が野放しになっているだなんて、後宮の平和に心を砕く嬪の一人として見過ごせませんわ。犯人探しに協力いたします。太監たちに、この宮の探索を命じましょう」


 それから、今思いついたとばかりに、付け足す。


「あなた方の取り調べと、警護もね」

「祥嬪様!」


 それはつまり、昼からの選抜に参加させないということだ。

 ここまで、静雅に制止されていた紅香は、とうとうその腕を振り払って声を上げた。


「これは、嫌がらせなどではありませんわ」


 強く握りしめたこぶしが、ぶるぶると震えている。


「あなた様からのものではないのはもちろん……これは、嫌がらせなどでは、ない。単に、わたくしたちが、肉を食したくて手配した豚が、手違いで、門前に置かれただけなのです」


 一語一語、言葉がちぎれるようなのは、それだけ彼女が怒りをこらえているからだ。

 ごまかしを嫌う紅香が、こんな見え透いた嘘をつかなくてはならないというのは、ずいぶんな恥辱に違いなかった。


 だが、今は主義を曲げてでも、これを「事件ではない」ことにしなくては、彼女たちは儀に臨めないのだ。


 紅香の意図を察した嘉玉もまた、決死の覚悟を宿らせて、申し出た。


「祥嬪様はもちろん、誰も、犯人ではございませんし、……わたくしどもも、なんら、被害を、受けておりません」

「そう。この豚を仕込んだのは、ほかの誰でもなく、あなた方自身だとおっしゃるの」


 満足そうに微笑む楼蘭を見て、周囲はてっきり、これが彼女の目的なのだと思いかけた。

 つまり、嫌がらせを仕掛けておきながら、被害者自身に嫌がらせなどなかったと言わせることが、狙いだったのだと。


 しかし、


「だそうでございます、太監長様」


 楼蘭がしずしずと背後を振り返ったのを見て、間違いを悟った。


「この豚を用意したのは、ほかの誰でもなく自分たち自身だと、今はっきりとお認めになりました」


 その視線の先には、大量の部下を引き連れた、太監長・袁氏えんしがいたのである。


「なんと、不敵なことだ」


 あからさまに険しい表情を浮かべている彼を見て、白泉宮の女たちは不安を覚えた。


「なぜ、この場に太監長様が……」

「内務府で、看過できない事件が起こったものでしてな」


 袁氏は、ゆったりとした体を揺するようにして門をくぐり、ぐるりと一同を睥睨へいげいした。


「祭祀に捧げられていた豚の一体が、突然消えたのですよ。祥嬪様によれば、昨晩より白泉宮が騒がしく、なにやら怪しい動きをしているという。そこでこうして来てみれば……神聖な贄を盗んだのは、あなたたちでしたか」

「な……っ」


 寝耳に水の事情を告げられて、嘉玉たちは絶句した。

 一瞬遅れて、楼蘭の意図を理解する。


 彼女は、単に血まみれの豚を送りつけて怖がらせようとしたのではない。

 盗難の濡れ衣を着せて、それを太監長に処分させようとしているのだ。

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