20.幕間(2)

「やあ。今度は僕が待ちぼうけだ」


 約束の時間を過ぎて蔵へと向かえば、すでに自誠は月明かりの差し込む一角に腰を下ろしていた。

 声はかけるが、視線は忙しく奏上書の束の上を走っている。

 「本物の」郭 玄から定期的に転送される、政務の一端であると思われた。

 武官に扮しつつ、皇太子としての政務もこなす彼は、なかなかに忙しい。


 自誠はしばらく奏上書に目を通していたが、蓉蓉が考え深げに黙り込んでいるのに気付くと、顔を上げた。


麗蓉れいよう?」

「……ただ今、祥嬪しょうひんを牽制してまいりました」


 端的に切り出すと、自誠は目をみはる。


「君の役割は情報収集。不正を働く相手には、直接手出しをしない約束だったはずだ。不遜な人間が相手なら、公主ごときと軽んじて、返り討ちにする恐れだってあるのだから」

「祥嬪は、まさにその不遜な類のようですね」


 蓉蓉は、珍しく皮肉気な笑みを浮かべた。

 実際のところ、ここまで足元を見られるとは思っていなかったのだ。


「先走ってしまい申し訳ございません、お兄様。かの嬪のせいで、珠珠さんや女官が追い詰められ、それを防げるでもなかった自身の不才が、腹立たしくてならなかったのです」

「追い詰められる?」


 目を細めた兄に、蓉蓉は、祥嬪・楼蘭によって火酒を強制された一幕を説明した。


「女官は、珠珠さんの的確な介抱がなければ、命を落としていたでしょう。珠珠さん自身も、平気なふうを装っていましたが、一杯目の時点で顔が赤らんでいたのです。苦しくないはずがありません。女官を介抱するからと人払いしていましたが、彼女の性格を考えるなら、室でこっそりと苦しんでいても、おかしくはない……彼女は、他者に弱さを見せない、孤高の人ですから」


 残念ながら、珠麗は孤高なのではなく、少しでも監視網を緩めたかっただけである。

 だが、すっかり珠麗のことを龍玉の器と決め込んだ蓉蓉は、一連の事件を思い出し、悔しさに涙をにじませた。


「なんの恩義があるわけでもない恭貴人を、ただ自分が年長だからというだけで庇い、呻吟の声を上げてまで火酒を飲み干し、果てには女官の命を救い。そんな彼女とは裏腹に、わたくしは、水を運ぶくらいのことしかできなかった……。せめてわたくしも、祥嬪に一矢報いねばと、気が急いたのです」


 きゅっと拳を握ると、兄に向かって身を乗り出す。


「祥嬪は狡猾です。鏡を割らせ、筆をすり替え、酒を飲ませと、一見ささやかで、他者が聞けば『そんなことくらいで』と思われるような手法を使って、確実に女たちを追い詰める。証拠を掴んで糾弾したところで、するりと罪を逃れてしまうことでしょう。だから、わたくしが逃げ道を塞いでやりたかった」


 ただし蓉蓉はそこで、「ですが」と、消沈したように視線を落とした。


「後宮の女ならば、皇族の血にひれ伏すもの――そんな傲慢な思いで宮に乗り込みましたが、公主が密偵を演ずることの醜聞を指摘され、あっさりと追い払われてしまいました」


 かろうじて、皇太子が潜伏していることは告げなかったが、と恥じ入るように付け足す妹に、自誠は憂慮するように呟いた。


「だが、本来であれば、妃嬪は皇族の血に忠誠を誓うもの。それをせぬとは、後ろ盾である太監長の力を、よほど過信しているものと見える。公主に咎められようと、妃嬪に残れると確信するほどに、袁氏えんしと蜜月の関係を築いているようだね」

「……それが、そのようでもないのです」


 蓉蓉はおずおずと切り出す。

 これこそが、彼女の胸にわだかまる疑念であった。


「祥嬪は、太監長を嫌っているように見えました。実際、わたくしが正体を明かしても、話したくないという理由で袁氏に突き出さなかったほどです。祥嬪は彼と共犯者の関係にあるというよりも――脅されている、のではないでしょうか」


 明確な証拠があるわけでもない。

 あえて言うならばそれは、女の勘としか呼べない、不確実なものであった。

 だが、蓉蓉はその不確実な感覚を、信じた。


「祥嬪は、怯えているように見えました」

「怯えている? 寵愛深き妃が、太監長のなにに?」

「それが、しかとはわからないのですが……」


 曖昧に応じ、それからふと思い出して、彼女はぽつりと「烏」と呟く。


「彼女は、烏を恐れているようでした」

「烏だって……?」


 そこで顔を強張らせた兄には気付かず、「動物が嫌いなのでしょうか」と首を傾げた。


「ああ、そうだわ、嫌いと言えば、恐れ多くも、皇帝陛下に不敬とも取れる言葉を吐いていました。見玉の才を宿すわたくしの目に、陛下はどう映っているのかと」

「…………」


 考え込む自誠をよそに、蓉蓉は不快そうに顔を顰めた。


「陛下は……お父様は、安定した治世を敷き、争いを避けるため自ら譲位を宣言する、まさに名君です。この御代、水害は減り、年貢も安定し、民は豊かになった。天のご加護も厚く、反逆者には陛下が手を下すまでもなく、雷が落ちたこともあったとか。そんな陛下を『視よ』など、無礼にもほどがあります」


 その瞳には、純粋な信頼と、それゆえの義憤とが宿っている。

 まなじりをつり上げる妹を、自誠はしばらく無言で見つめていたが、やがて、静かな声で切り出した。


「名君。そうだね。一般的に見て……いや、少なくとも五年ほど前までは、非の付け所のない名君であったと言える」

「お兄様?」


 言外に含まれた不穏な響きに、蓉蓉は驚いて兄を見上げた。


「なにをおっしゃっているのです?」

「麗蓉。君は公主として離宮を賜り、長らく王都を離れていた。耳に届くのは政策の結果のみ。たしかにそれからすれば、陛下はかつての名君のままという認識だろう」


 自誠は妹を見つめた。端整な顔には、いつになく、緊迫した表情が浮かんでいた。


「だが実際のところ、近年の陛下は、かなり気を乱している。冷静な政治判断が維持できているのは、周囲の大臣たちの尽力ゆえだ。だがそれも、徐々にほころびを見せつつある」

「お、お待ちください。気を乱すとはどういう意味なのです?」

「陛下は――残虐になった」


 声は硬く、低かった。

 目を見開く妹の視線を避けるように、書類の束を閉じる。

 立ち上がり、窓を覗けば、その先には壮麗な建築物の数々が、夜の闇に沈んでいた。


「最初は、五年ほど前だったか。奴婢ぬひに対して突然激怒し、文鎮を握るとその場でひどく打ち据えた。笑い声が耳障りだったと言うのだ。だが、その奴婢は笑い声を立てたりなどしていなかった。常に穏やかだった陛下の激昂ぶりに周囲は驚いたが、相手が奴婢だったこともあり、虫の居所が悪かったのだろうと、そのときは解釈された」

「そんな……」

「だが、陛下の突然の狼藉ろうぜきは、その後も続いた。いや、加速していった。方法がどんどん苛烈になるんだ。ある者は目をくり抜かれ、ある者は熱した鉄の棒で体を穿うがたれた。政治の判断はできる。けれど、感情の制御が突然乱れる。始終体調を崩し、すると気もますます乱れ、周囲は次第に、陛下を恐れるようになっていった」


 蓉蓉は絶句した。

 まさかそんなことが起こっていたとは、まるで知らなかったからだ。


「ですが、そのようなことは、噂ひとつ……」

緘口令かんこうれいが敷かれたからね。相手は奴婢や、低位の官吏ばかりだったとはいえ、天子にふさわしくない醜聞だ。騒ぎ立てた者は、陛下の手の者によって抹殺される。君は……『烏』の名を聞いたことがあるかい?」

「いいえ……」


 困惑して眉を寄せた蓉蓉に、自誠は淡い苦笑を浮かべた。


「そうだね。女子おなごに好んで語り継ぎたい存在でもない。博識な君といえど、知らなくて当然だ。『烏』は……陛下直属の、隠密組織だ。血盟のもと、陛下にのみ忠誠を誓う、暗部を担う一族。詳細を説明せずとも、役割は想像がつくね?」

「は、い……」


 恐る恐る頷いた妹に、自誠が語るにはこうだった。


 「烏」の掟は独特だ。

 彼らは、皇帝が使用する金璽きんじにのみ従い、皇帝に反するあらゆる存在を見逃さない。

 残忍な方法で始末することもあれば、仕留められた側もそれと気づかぬほど、自然な方法を取ることもあるのだと。


「では、かつて反逆者が天罰を受けたというのも……」

「『烏』の仕業だ」

「…………!」


 端的な肯定に、蓉蓉は瞳を揺らした。


 文字通り天子――天の子であると言われる皇帝。

 天の加護を持つからこそ、政敵は自然と滅びたと思っていたのに、それが天罰などではなかったなんて。


「そんな……。万人に存在を気取られない隠密部隊など、そんなもの、実在しますの?」


 戸惑う蓉蓉に同情的な一瞥を向け、自誠は続けた。


「やり口があまりに人間離れしていることもあって、家臣の中には、『烏』を架空の存在と考えている者も多い。だが、陛下に近しい者ほど、かの存在を信じ、恐れる。陛下の変貌に、古参の大臣たちは胸を痛めながらも、『烏』に不敬と取られることを恐れて諫言かんげんもできずにいるんだ」


 そこで大臣たちは苦肉の策として、皇帝に早期の譲位を勧めた。

 親王の中でもっとも御しやすい者を皇太子に立てれば、実権はそのままに握れる、などと甘言を並び立てたのだ。


 激昂される恐れのある賭けであったが、皇帝は十年ほど前から錬丹術れんたんじゅつに惹かれていたこともあり、それをすんなりと了承した。

 不老不死を追求するには、膨大な政務に追われる皇帝の地位が邪魔であったのだ。

 上皇となれば、権力と時間、両方を確保できる。


「僕が即位し、陛下が皇帝の座から離れれば、少しは『烏』の威も弱まるのではないかと考えたわけだ。もっとも、『烏』の忠義は一世一代。放蕩者だという『烏』の跡取りが僕について、『烏』自体が世代交代しないかぎり、現状はほとんど変わらないだろうがね」

「この譲位には、そんな事情が……」


 蓉蓉は圧倒されたように手を額に当てた。

 尊敬する父親の変貌が、俄かには受け入れがたかったのだ。


 自誠は、窓の外に広がる美麗な後宮の夜景を、じっと見つめた。


「家臣の誰もが恐怖と緊張に委縮するなか、袁氏だけは常に陛下のお気に入りだ。それは、彼が甲斐甲斐しく集めてくる丹薬を飲むときだけ、陛下は以前のような穏やかさを取り戻し、体の不調からも解放されるからだ」

「袁氏はたしか、太監時代に医術を学んだということですわね。経典にも明るく、高名な道士との交流まである、有能な人物であると」

「ああ。僕の目から見ても、太監長にふさわしく博識な人物だ。その知識に頼るあまり、大臣自ら袁氏を遇するほどだし、僕とて、その忠誠ぶりは評価しないでもない。だが、それゆえに彼は増長しすぎた。後宮から皇帝を、操れると過信するほどに」


 なるほど、彼が肥大化した後宮権力の解体を目指すのには、そんな背景があったのだ。


(陛下は病で仁道を失いつつある。けれど「烏」なる隠密部隊の存在により、その事実は知られていない。ただし、変貌した陛下を唯一癒せる太監長が、そのことで権力を増大させている。だから兄様は、あくまで秘密裏に太監長の増長を止めようとしている――)


 情報をひとつひとつしまい込むように、蓉蓉はとんとんと唇を叩いた。


「ひとまず……先ほどの祥嬪の態度が、ようやく理解できました。つまり彼女は、羽音を聞いて、『烏』を連想し、恐れたのですね」

「ああ。彼女は陛下の寵妃で、陛下は近年、ほとんど彼女しか召そうとしなかった。言い換えれば、彼女は、陛下の変貌に気付ける唯一の妃嬪だったということだ」

「だから、いつ緘口令に触れて、『烏』に処分されてしまわないかと、恐れている……」


 そこまでを呟いて、蓉蓉は首を傾げた。


 ――「烏」の目が届かぬ場所などないし、太監長に抗える者などいないのです。


 自分を殺すかもしれない「烏」を恐れるのはわかる。

 けれどなぜ、楼蘭は太監長にまで怯えるのだろうか。


 疑問を口にすると、自誠はしばし黙り込んだあと、やがて慎重に口を開いた。


「『烏』は、皇帝陛下の用いる金璽きんじなしには動かない。逆に言えば、その金璽さえあれば、陛下でなくとも『烏』を操れるということだ」

「…………!」


 聡明な蓉蓉は、すぐに異母兄の言わんとすることを察した。

 頭の中で、情報が一本の線に繋がるような心地を覚える。


 増長した袁氏。

 その権力の、源泉。


「では……太監長は、『烏』を私物化しているというのでしょうか」


 当て推量でしかない。

 だが、自誠はゆっくりとひとつ、頷いた。


「おそらく、そうだろう。ここまでで、彼の身辺については探りを入れてきた。だが、彼は花札を使って妃嬪を服従させたことも、金子を収奪したことも、暴力や人事で部下を排除した形跡もない。いかにも潔白な人物に見える。だが、不自然なほどに、彼と利害が対立した者ばかりが、不慮の事故で命を落としているんだ」


 青褪めた蓉蓉に、自誠は続けた。


「これまで、彼がいかにして後宮を掌握しているのかがわからないでいたが、『烏』との関係に的を絞るのなら、話は早い。妃嬪候補も一通りこの目で見極めたし、後は、太監長の証拠探しに集中しよう」

「ですが、これまでもすでに、彼の周囲は探ってこられたのでしょう?」

「後宮内の彼の居室や、宿直する延寿殿、大量の金子が隠せそうな蔵や、人を始末できそうな牢はすでに検めた。だが、もし彼が『烏』とやり取りするだけで権力を掌握しているのなら、大量の金子も牢も隠し部屋もいらない。小壺ほどの大きさの金璽ひとつがあればいい」


 小ぶりとはいえ、すべてが金でできた、明らかに高貴なを、居室内に隠すことは不可能だろう。

 だが、それを紛れ込ませることのできる空間なら、後宮内にある。


「常に子飼いの太監たちによって、自然に監視されているところ。大量の文具に溢れ、太監長自身の金印も並ぶ――内務府だ」

「木を隠すなら、ということですわね。ですが仰るとおり、あそこには太監たちが絶えません。どうやって調べるのです?」

「……明日は儀の最終日。『皇太子』自らも参席しに、後宮にやって来る。太監たちは総出で迎えなくてはならないから、明日の朝なら、内務府はもぬけの殻だ。そこを、僕が探る」


 そう請け合ってみせた自誠に、蓉蓉は心配そうに眉を寄せてみせた。


「よくよくご用心なさいませ。それに、明日になってもまだ、郭武官として行動するつもりですの? 人目のない離宮とは異なり、儀には大臣たちも参加します。さすがに、玄様の偽装も露見してしまうように思うのですが」

「なに。この入れ替わりも、かれこれ五年近くだ。互いに慣れているし、なにせ『皇太子』は病と趣味を理由に、徹底的に引き籠ってきた。本来の顔を覚えている者のほうが少ないだろう」


 だが、自誠は肩をひとつすくめただけで、それを躱してしまった。


「『烏』私物化の証拠が掴めれば、太監長の増長を防げる。彼の威を借り、不正な手で儀に臨もうとした妃嬪候補を一掃すれば、後宮の腐敗も改善できる。この国の治世が清きものになるかは、明日に懸かっているんだ」


 怯みを見せず告げる兄を見上げ、頷きながらも、蓉蓉は少しの沈黙の後、こう付け加えずにはいられなかった。


「陛下の変容に付け込み増長する輩は止められたとしても……陛下の変容それ自体を、是正する方法はないものでしょうか」


 きゅ、と、その細い手を握りしめる。


「陛下は……お父様は、そのような方ではなかった。呪いか、暗示か、毒か……ご気性を変えてしまうような、なにか外部からの要因があったのではないでしょうか」

「もしこれが外的要因なら、それすなわち陛下への攻撃。それこそ『烏』が黙っていないだろう。だが、『烏』は沈黙を続けている。気の乱れも、五年をかけて徐々に進行しているところを見るに、これは、毒や呪いというよりも、病と考えるのが自然だろう。実際、袁氏の作る丹薬を含めば、一時的とはいえ症状が和らぐのだから」


 そして、と彼はやるせなさそうに呟いた。


「病相手には、『烏』だって、天だって、罰をくだせやしない」


 蔵に、沈黙が満ちる。

 ややあってから、自誠は小さく息を吐くと、書類をたもとにしまい込んだ。


「働きに感謝するよ、蓉蓉」

「すべてがうまく行くようお祈り申し上げておりますわ、郭武官殿」


 意識を切り替えるように偽名を呼び合ってから、二人は時間を置き、蔵を離れた。




 ――ミシッ。


 それからさらに時間を置き、蔵に小さな物音が響く。


 ほんのわずか、木材を軋ませたのは、梁の上に寝そべっていた礼央であった。


「手抜きだな。はりの強度が弱い」


 不満げに呟くと、彼はひらりと床に飛び降りる。

 音もなく着地すると、ぐるりと蔵の中を見渡した。


 酒に革、ちょっとした調度品や、上質な紙。

 値の付きそうなものは、すでにあらかた手を付けた。

 が、もっとも値打ちのあるものは、たった今仕入れた情報なのかもしれない。


「『烏』を、私物化?」


 整った顔を、顰める。


 どうせ小物であろう太監長の敵をしいするくらい、「烏」にとっては濫用とも呼べぬほどのささやかな任務だろうが、それでも、皇帝以外の者に使われているという事実は、受け入れがたい。

 皇帝にさえ跪きたくないというのに、小太りの太監長相手など、なおさらだ。


(金璽のもと下された命に絶対服従を誓うのが「烏」の掟だが、その金璽を奪われてどうする。いや……さすがに、奪われたなら親父殿も黙っていないか。ならば、金璽は皇帝の意志の元に袁氏に委譲されたと考えるのが自然か?)


 それほどまでに、皇帝は太監長を信頼しているということか。

 だとしたら、「烏」にそれを止める権限などない。


 礼央はしばらく考え込んでいたが、やがて、重い溜息をついた。


「まったく……あいつに付き合っていると、厄介ごとにばかり巻き込まれる」


 脳裏によぎるのは、もちろん、彼が珠珠と呼ぶ女の姿だ。

 甘ったれで、すぐに騒がしく悲鳴を上げて頼ってくるくせに、妙なところで強情で、突然その場に踏みとどまる。


 の刻いっぱい待ってやったのに、その間に彼女がしたことといえば、根暗そうな女官を介抱し、寝こけることだけだった。

 慌てて門までやって来たかと思えば、すでに礼央が去ったと勝手に信じ込み、涙をこぼしもしない。


 泣いて名を呼びでもするのなら、そのまま攫っていってもよかったのだが、少々かわいげのある発言をしたかと思いきや、戻ってきた女官を無意識に篭絡ろうらくし、執着させてしまった。


(あの女官の目。厄介だな)


 幼子が母を慕うかのような、一心な目つきを思い出し、礼央は渋面になる。

 おそらくだが、あの女官は、今後珠麗から一瞬たりとも目を離さないだろう。

 武官や太監の厳重な監視などよりよほど、愛情の眼差しのほうが躱しにくい。


 とはいえ、礼央は手ぶらで貧民窟に戻るつもりなどなかった。

 今晩連れ出せなかったのなら、延期に見合ったお宝を頂戴して、明日脱出するまで。


 もっとも、その過程で、触れたくもない陰謀の気配に触れてしまったのだが。


(郭武官……いや、自誠皇太子か)


 あの、やたらと麗しい顔をした男のことを思い浮かべる。

 皇太子自らが武官に扮するとは驚いたが、噂に聞く、詩作にふける引き籠もりよりかは、いくらかましだ。

 知恵も回るようだし、佇まいから察するに、そこそこの使い手でもあるのだろう。


 だが、


(つまりあいつが、珠珠に焼き印を押させたわけか)


 そこのところが、実に気に食わない。


「祥嬪・楼蘭、郭武官、そして太監長に、『烏』……な」


 どれに、どこまで関わるか。

 礼央はじっと窓に向かって目を凝らしていたが、そこの烏の鳴き声を聞き取ると、意識を切り替えて外に出た。小黒が戻ってきたのだ。


「うまい餌はあったか?」


 肩に止まった小黒をくすぐり、礼央はそのまま、闇に溶けるようにして蔵を去った。

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