19.幕間(1)

 月明かりの射す回廊を、楼蘭ろうらんはゆっくりと歩いた。


 門前に広がる花壇では、寒椿が艶やかな葉たたえ、月光を弾き返している。

 香りもなく、棘もない、ただ美しいだけの花を、楼蘭は無感動に眺めた。

 椿は、無力だ。

 寒さに耐えて冬に咲くけれど、それだけ。


(今頃、泣き崩れているのかしら)


 己の元を離れていった女官、夏蓮を思い、楼蘭は静かに口の端を持ち上げた。

 ずっと死んだ魚のような目をしていれば、可愛がらなくもなかった。

 妹ではないが、楼蘭にも可愛らしい弟がいるのだ。

 それゆえに身動きが取れなくなる絶望も、わからなくはなかったのに。


 あの清々しい、信頼だとか希望に溢れた顔を前にすると、苛立ちが募る。

 棘を刺さずにはいられぬほどに。


(明日で……揺籃ようらんの儀は最終日を迎える)


 科目は、あの太監長の言い分を信じるなら、舞だ。

 その情報によって利を得ることで、また・・彼は増長するのだろうが、なりふり構ってなどいられなかった。


 最終日の明日には、この後宮の主となるべき皇太子や、有力な大臣らも参席する。

 なんとしても彼らの前で圧倒的な評価を得る必要があった。

 そこで最上となれば、上級妃の長、即ち、皇后への道も拓けてくる。


 宮の最奥にある寝室にたどり着くと、楼蘭は知らず、息を吐いた。

 女官にすら容易に立ち入らせぬこの寝室が、彼女の唯一寛げる場所だ。

 明日の選抜が始まるのは昼からだが、ゆっくり休むに越したことはないだろう。


「ごきげんよう」


 だが、無人のはずの寝室に、女の声が響き渡り、楼蘭ははっと息を呑んだ。


「祥嬪様にご挨拶申し上げます」


 不遜にも、楼蘭の寝台に腰掛けているのは、年若い少女だった。


 薄青い月光を受け止める滑らかな頬に、知性を感じさせる涼やかな瞳。

 ゆっくりと言葉を紡ぐ彼女は――あの忌々しい奴婢ぬひと同じく、女官候補から妃嬪候補へと成り上がった、蓉蓉という少女だ。


「……挨拶にふさわしい時間や場所を、ご両親から教わらなかったのかしら?」


 上げかけた悲鳴を飲みくだし、楼蘭は目を細めて尋ねた。

 まがりなりにも、ここは寵愛深き妃嬪の宮。

 一介の少女が、やすやすと侵入できる場所ではないはずだ。

 ただ、蓉蓉と名乗る少女の佇まいには、あたかもこの場の主人であるかのような貫禄がにじみ出ていた。


 蓉蓉は、楼蘭の警戒などものともせず立ち上がると、真正面から見つめた。


「単刀直入に申し上げますわ。あなた様の、貴人方に対する妨害の数々は、見苦しくてならない。揺籃の儀に対するあらゆる妨害から、今すぐ手を引きなさいませ」

「わたくしに、命令なさるの? ご自身は、そのような立場にあるとお思いなのですね」


 静かな声で、応じる。

 言外に正体を問えば、少女は剣呑な笑みを浮かべた。


「わたくしがどのような立場にある者か、お知りになりたい?」


 蓉蓉はひっそりと笑みを浮かべると、下ろしていた前髪を持ち上げ、後ろへと流してみせた。

 寝台横の棚に置かれていた小皿から朱を指先で掬い取り、すいと目尻を彩る。

 途端に、たれ目がちの優しい顔つきががらりと雰囲気を変え、妖艶な美女になった。


「これなら、おわかりになるのでは? 祥嬪・・


 寵妃をこともなげに呼び捨てるその声も、あえてなのだろう、低くなっている。

 その姿、そしてその声が、ある女性にそっくりであることを理解すると、楼蘭ははっと目を見開いた。


薫妃くんひ様……!」


 目の前の少女は、薫妃と呼ばれていた上級妃に瓜二つであった。

 最大勢力である皇后とも仲がよく、独特な魅力で地位を築いていた妃である。

 いや、子を儲けた薫妃は、今代皇帝の譲位に伴い昇格するので、薫太妃と呼ぶべきか。


 つまり、目の前にいるこの少女は、薫太妃の娘にして公主おうじょの、麗蓉ということだ。


「なぜ、あなた様が……」


 この場に、と呟いた楼蘭だったが、言い切るよりも早く、その答えにたどり着いた。


「ああ……そう。そういうことですの。皇太子殿下の代わりに、探りにこられたのね」


 皇后と薫妃は姉妹のように仲が良く、それぞれの子である皇太子・自誠と公主・麗蓉もまた、後宮で過ごした幼少時代には、実の兄妹のようであったと聞く。

 即位とともに後宮を引き継ぐにあたって、「妹」にその内情を探らせたとするのは、わからないでもなかった。


 瞬きをするほどの時間で、素早く現状を理解してみせた楼蘭に、一方の蓉蓉はわずかに目を細めた。


(さすがに彼女は、愚かではない……)


 いや、それどころか、蓉蓉でも厄介と判断するほどには、知恵の回る相手であった。

 天女とあだ名されるだけあって、その美貌は嬪の中でも群を抜き、華奢な手足には品と優雅が滲む。

 声は美しく、瞳には知性があった。

 見玉の才を宿す蓉蓉の目にも、楼蘭は優れて美しく見えるほどだ。


(それでも彼女は、玉ではない。あえて例えるなら、とびきり高貴な、けれどひびの入った玻璃玉のよう)


 不思議な感覚だった。

 珠珠と名乗る女のような、内側から光を放つような力強い輝きはない。

 けれど、脆く鋭い「それ」は、なんとも言えない繊細な美を帯びている。


(なにが、彼女をひび割れさせてしまったのでしょう)


 心の奥底でふと疑問を覚えながらも、蓉蓉はまっすぐに相手を見つめ、声を張った。


「理解したのなら、手を引きなさいませ。これは、公主としての命令です。あなたは野心のままに、貴人たちを陥れんとし、無力な女官や、正義感の強い娘を巻き込んだ。もっとも、あなたが珠珠さんを傷付けることはできなかったけれど、代わりに酒を飲み、介抱に奔走した彼女は、すっかり疲れ切ってしまいました。これでは、儀の厳正さを欠きましょう」


 朱に彩られた瞳は、強い怒りを宿している。

 ここでも出てきた「珠珠」の名に、楼蘭はふと、淡い笑みを浮かべた。


「……そう。あなた様もまた、あの奴婢を傷付けられたから、お怒りなのですね」

「祥嬪?」


 不意に、不穏な気迫を帯びはじめた相手に、蓉蓉は警戒を強めた。


「お断りします」


 楼蘭は、花の綻ぶような笑みとともに、きっぱりと告げた。


「わたくしは、わたくしの思うままに、儀に臨ませていただきます」

「……あなたの返事は、兄である皇太子殿下にも伝えます。殿下は、不正を見逃さぬ高潔なお方。次代妃嬪としてのあなたの地位が危うくなることは、おわかりでしょうね?」


 声を低めて蓉蓉は告げたが、楼蘭の態度は揺るぎない。

 それどころか、袖を口元に当て、首を傾げるほどだった。


「不正を見逃さない、高潔なお方? 日々、離宮に籠って詩を書き連ね、内偵に妹君を遣わせる御仁が?」

「祥嬪! 不敬ですよ」

「『不敬』!」


 怒りに声を震わせた蓉蓉の前で、楼蘭は唐突に、声を上げて笑い出した。


「わたくしのどこが、不敬であると? 陛下に忠義を尽くし、太監長と『協働』して後宮の秩序維持に心を砕いてきたわたくしが。わたくしの、どこが!」

「祥嬪……?」


 なにか、様子がおかしい。

 鬼気迫った独白に眉を寄せた蓉蓉の前で、楼蘭はふいに口を閉ざすと、踵を返した。

 そのまま、寝台脇の鏡台へと向かい、指輪や耳飾りを外しはじめる。

 寵愛深き嬪の鏡台には、皇帝から下賜されたのだろう鮮やかな朱色の玉が、いくつも転がっていた。


「いつまでそこに立っていらっしゃるのです。わたくしは休みます。あなた様も早く、この場を去られては?」

「なんですって……?」


 公主直々の命を聞き入れぬばかりか、平然と退がらせる楼蘭の態度に、蓉蓉は驚いた。

 が、鏡を覗き込む寵妃は、一瞥すら寄越さない。


「ご自身の立場をおわかりではございませんのね。今のあなた様は、公主であるのに、軽率にも奴婢に身をやつし、厳正な儀を汚した愚か者。正体を明かして平伏されるためには、せめて皇太子殿下ご本人でないと、お話にもなりませんわ。大見得を切ったつもりでしょうけれど、わたくしが太監長に突き出せば、それでおしまいです」

「太監長の地位は、公主のそれを上回ると?」


 恥辱に頬を染めた蓉蓉に、楼蘭はふっと皮肉げに口元を歪めた。


「ええ。まさかご存じありませんでしたの?」

「無礼者! わたくしの身に流れるのは、英名なる皇帝陛下と同じ、尊き血ですよ」

「『英名なる、皇帝陛下』」


 吐き捨てるように繰り返す、その語気の鋭さに、思わず息を呑む。

 楼蘭は、鏡台に転がる朱色の小玉を、きつく握りしめていた。


「公主様は、もしや長らく、陛下とお会いになっていないのではありませんこと?」

「え……?」

「公主様は、見玉の才をお持ちで、巫女の化身とも言われるお方。あなた様のその目に、近頃の陛下はどのように映るのでしょうね」


 聞き捨てならない発言である。

 追及しようと蓉蓉は身を乗り出したが、そのとき窓の向こうで、からすがけたたましい鳴き声を立てたのを聞き、咄嗟に窓を振り返った。


「広間に飛び込んできた大烏かしら……」


 ぽつりと呟きながら、楼蘭に向き直る。

 が、相手が顔から血の気を引かせているのを見てとり、眉を寄せた。


「祥嬪?」

「……早く、お引き取りくださいませ」


 鏡台に両手をついたその体が、小刻みに震えている。


「早く、お引き取りを。わたくしを一人にしてくださいませ」

「ですが、あなたが妨害をやめると約束しない限りは――」

「すでにお断りしたでしょう。太監長に突き出されたいのですか? ですがあいにく、わたくしは、彼となど話したくもないのです。あなた様だって、名声を落とすのはお嫌でしょう。わかったなら、早く、お引き取りを!」


 声もまた、抑揚を失っていた。


「結局、この後宮で、烏の目が届かぬ場所などないし、太監長に抗える者などいないのです。あなた様が罵ろうが、殿下に告げ口をしようが、わたくしは明日の儀で、勝ち進む。あなた様は、指をくわえて、それをご覧になっていればいいのですわ」


 そこまでを告げると、楼蘭はふと、ぎこちない笑みを向けた。


「あなた様では、わたくしを妨げることなど、できない」


 なぜなのだろうか。

 その言葉は不思議と、蓉蓉にはこのように聞こえた。



 わたくしを救うことなど、できない――と。

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