18.潰すつもりじゃなかった(7)

「や、やってしまった……!」


 そのころ白泉宮では、青褪めた珠麗が、猫のようにがりがりと門扉もんぴに縋りついていた。


「完っ全に、寝過ごしたぁああ!」


 目は、夜空に浮かぶ半月を恨めしげに追っている。

 だが、何度瞬きをしても、月の位置は変わらなかった。


 ――礼央りおうが助けにきてくれるというの刻は、過ぎてしまった。


「いや、自力で逃げるって言ったけど……言ったけど……っ。でも、気が変わることだってあるじゃない。ちょっとくらい、長めに待ってくれてもいいじゃない……っ」


 言い訳させてもらえるなら、珠麗は看病ですっかり疲れていたのだ。

 一杯とはいえ火酒を飲んだし、多少酔ってもいた。

 夏蓮を寝台まで運び込み、着替えさせ、うなされる彼女に水を飲ませ、汚れきった衣も洗って、と忙しく動き回ったがために、ふと気が緩んだ拍子に、すっかり眠りこけてしまったのである。

 情状酌量の余地はあると信じたかった。


「せっかく火酒、貯めたのにい……」


 右手には、油布で蓋をした竹筒を未練がましく握りしめている。

 夏蓮の腕を取ったときに多少こぼしてしまったが、その後咄嗟に脇に避けておいたため、筒に半分近くは残っていた。


 これを差し出せば、守料維持とまではいかずとも、二倍ほどで収まったかもしれないのに。


「もう礼央の力を借りなきゃ、無理よう……」


 思わず泣き言が漏れる。

 そう。夏蓮の昏倒があったせいで、事態はだいぶ悪化していた。

 まず、夏蓮を寝かせるために、しぶしぶ殿内に上がった。

 すると紅香たちが気を利かせ、珠麗が夏蓮と同じ室で寝られるよう、寝台を整えてしまったのである。

 東屋に戻ろうとするたびに、「貴人様方に叱られます!」とわらわら女官たちに囲まれる始末で、監視の目は飛躍的に厳しくなった。


 しかも、なまじここまでてきぱきと介抱をしたものだから、「火酒で酔っ払って選抜に臨めません」という言い訳も、まったく通じなくなってしまった。

 白泉宮の住人には、女官や太監たちまで含めてすでに、「伝説の火酒女」とか、「熊殺し」とか囁かれている様子である。


 今だって、女官たちが張り付いてきたのを、「夏蓮がいなくなっていて心配なので、あくまで敷地を出ない範囲で確かめに行く」と引きはがして、ようやく門の前まで来たのだ。

 建物の入口や窓からは、女官や、見張りの太監のさりげない視線を感じる。

 詰んだ、と言ってよかった。


「うぅ……どうすればいいの……」


 礼央のあの性格だ。

 子の刻に来なかった珠麗のことなどあっさり見捨て、もう都を去っているかもしれなかった。

 一度希望が差しただけに、絶望もまた深い。

 珠麗はとうとうその場にしゃがみ込んで、顔を覆った。


 と、眼前の扉がぎいと軋んで、開く。


 ばっと顔を上げたが、やって来た人物が夏蓮であると理解して、珠麗は目を見開いた。

 白泉宮に戻ってきたのだ。


「あ……あら。ここに戻ってきたの? てっきり、楼蘭……祥嬪様のもとに帰ったのかと」


 なんとなく気まずさを覚え、肩を竦めながら話しかけたが、そういえば今の自分は彼女を探していることになっているのだと思い出し、慌てて立ち上がった。


「か、夏蓮! あっと、夏蓮殿! もう、いったいどこに行っていたのよ、心配したじゃない! いや、瑞景宮に戻ったのでしょうけど、一言くらい挨拶を残していきなさいよね!」

「…………」


 だが、夏蓮はなにも言わない。

 その顔が、月明かりにもそうとわかるほど青褪めているのに気付き、珠麗は眉を寄せた。


「夏蓮、殿?」

「……私は、瑞景宮を、辞してまいりました」

「はい?」

「あの女の前には、もう跪きません。……二度と」


 声は、震えている。

 髪は乱れ、目は赤く濁っていた。

 頬に残る、涙の跡。

 いったいなにが、と聞こうとしたが、珠麗は口をつぐんだ。


 楼蘭の指示で貴人たちを妨害してきた夏蓮。

 けれど、あっさりと捨て駒にされた彼女。

 失態を恐れ、頑なな態度を崩そうとしなかった、韋族の女官。

 この四年間、楼蘭のもとで彼女がどんな境遇にあったのか、さすがに察せないわけではない。


「……瑞景宮を辞して、これからどうするつもりなの」


 だから代わりにそう尋ねたのだったが、夏蓮は虚ろな顔で答えを寄越した。


「……どう、すればいいのでしょう」

「はい?」

「私は……どうすれば、よいのでしょう」


 この世の闇を煮詰めたような声で問われ、珠麗は咄嗟に「知らんがな」と答えそうになるくらいには困惑した。

 だが、そういえばつい今さっき、まったく同じ言葉を自分も呟いていた気がする。

 似た者同士と思えば、しみじみと同情が湧いた。

 夏蓮もいろいろあったのだ。


「そういうことって、あるわよね。進むべき道がわからなくなるようなことがね……」

「進みたい道は、あるのです」

「あるんかい」


 共感からあっさり離反され、思わず突っ込んだ珠麗のことを、夏蓮はじっと見つめた。


「進みたい、道はある……。けれど、そちらに進んでいいのかが、わからないのです。こんな……汚らわしい私が、光を求めて、その道を進んでいいのか」

「なによ、またその話?」


 昏倒前と同じ、ひどく後ろ向きな言葉を聞いて、珠麗は少しばかり苛立ちを覚えた。


 まったく、人が後宮脱出をふいにしてまで介抱してやったのに、まだ、粗相だなんだと、些細なことを気にして、と。


「汚らわしいって、なによ。どこが汚れてるっていうの。ええ?」

「すべてです。全身が、汚らわしくて、染み込んだ罪は、もう、……すすげない」


 じわ、と涙をにじませる夏蓮に、珠麗は思わず天を仰いだ。


「んなわけないでしょう! もう、いい加減にしなさいよ! あんたはきれいだってば」

「…………」


 こちらを見つめる女官の、その切実な、縋るような視線には、気付かなかった。


「うじうじ気にしてるのは本人だけよ。吐いたものは戻せないし、割れた鏡は元に戻らないんだから、悔いたって仕方ないじゃない。だいたい、私がすっかりきれいにしてやったんだから、あんたは堂々としてればいいのよ」

「…………」


 威勢のよい言葉の数々を、夏蓮は、黙り込んで聞いていた。


 それらの言葉が、単に酒での粗相のことしか指していないことは、理解していた。

 それでも――この珠珠という女の、不思議と耳をくすぐる掠れ声は、夏蓮の胸の奥まで染み込んでいったのだ。


「よくって? 汚れはね、洗えば落ちるのよ。そりゃ、染み込んだ汚れはしつこいでしょうけど、そしたらそのぶん、しつこく洗いまくるのよ。言っておくけど、私は、糞尿の匂いだって完全に消しおおせる女よ」

「…………」

「その私が洗ってやったんだから、大丈夫なのよ。進むべき道とやらがあるんなら、うじうじしてないで、さっさと進みなさい」


 最後の一言が、とうとう、夏蓮の背中を押した。


 ――そうかしら? 今この場には、食欲をくすぐる肉の匂いしかしなくってよ。


 夏蓮の薄汚かった身なりを、気にも留めなかった彼女。

 異色の肌を躊躇いもなく手に取り、そこに技術を見出して讃えた彼女。


 簡単に心を預け、けっして裏切らなかった、白豚妃。


 ――なに変な心配してんのよ。今この場には、上等な火酒の匂いしかしないわよ!


 大切な主人のことを、夏蓮は守れなかった。

 信じきれず、なんとしても掴むべきだった手を、あっさりと放してしまった。

 けれど、そんな自分でも、やり直せるというのなら。


 ――進むべき道とやらがあるんなら、うじうじしてないで、さっさと進みなさい。


 大切な誰かを守り抜き、それが、少しでも償いに、なるのであれば。


「……珠珠様。私を、あなた様の女官にしてくださいませんか」


 今度こそ自分は信じ抜こうと、心に誓った。


「……はっ?」

「お願いでございます。いえ、嫌だと言われても、もう押しかけてしまいました。私は、あなた様の女官です」


 その場で、跪く。

 強引に両手を取って、その顔を見上げると、相手はぎょっと口を引き攣らせていた。


「えっ、いや、なに!? っていうか待って、私、女官を抱える身分じゃないんですけど」

「いいえ」


 狼狽ろうばいした様子で引き抜こうとする相手の手を、夏蓮はぎゅっと握りしめた。


「あなた様は、必ず妃嬪ひひんになられます」

「は!?」

「私が――この命に代えても、あなた様に上級妃の座を射止めさせてみせます」

「はあ!?」


 相手は、声を裏返している。

 何度も手を引き抜こうとされたが、その回数だけ、夏蓮は手を握りしめた。


 もう、放さない。

 絶対に。





 カア、と、小黒が鳴く。

 白泉宮の門の外側、少し離れた木の幹に腰掛けていた礼央は、宙を旋回した小黒を肩に止まらせると、こめかみを押さえながら重々しい溜息をついた。


「……阿保が」


 月の傾きは、すでにうしの刻を告げている。

 揺籃ようらんの儀の最終日が、始まろうとしていた。

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